1967年6月、史上初めて世界24か国で同時に国際衛星中継番組が放送されました。リレー中継は日本の北海道から、産まれたばかりの赤ちゃんの映像が世界に届けられました。続いてアメリカはニュージャージーからの中継でした。イタリアからは映画「ロミオとジュリエット」の撮影風景。イギリスからはビートルズ。新曲のレコーディングの生中継でした。人々は世界が確かにつながっていることを実感しました。
反戦運動
その頃、世界のテレビで連日流されていたのはベトナム戦争の映像でした。アメリカのナパーム弾や絨毯爆撃によって、罪のない人々が逃げ惑う映像が届けられました。世界は初めてリアルタイムで戦争を目撃。アメリカ政府は戦争の正義を訴えていましたが、映像がその主張を打ち砕きました。
アメリカ各地でベトナム戦争反対の声が巻き起こりました。声をあげたのは大学生に成長した第二次世界大戦後に生まれたベビーブーム世代。大学生に成長していました。
それまでアメリカ国民は、民主主義と自由を守るために共産主義と戦うことが正義だと信じてきました。しかし、若者たちはその価値観にしばられませんでした。
コロンビア大学では学生たちの声を封じようとする大学側に対し、学長室を占拠して抗議しました。学生への徴兵猶予が廃止され、戦争が自分の身に降りかかってきたことも反戦運動を激化させました。
学生たちはいかなる形の権威も受け入れるつもりはないようだ。彼らは破壊しか目指さない荒々しい未熟なニヒリズムに逃げ込んでいる。私の知る限り世代間のずれがこれほど大きく広がったり危険をはらんだりしたことはかつてなかった。
(コロンビア大学学長の談話より)
アメリカの反戦運動は世界に飛び火しました。最も激しく反応したのはドイツでした。
1968年2月に起きたベトナム反戦デモには、1万2000人の若者が参加。それに対し官庁の職員など8万人のデモが組織され激しく衝突しました。
大人たちの目には、若者たちのふるまいがナチス親衛隊の再来のように映っていました。一方、若者たちにも国家をナチスに委ねた親世代に対する強い不信感が渦巻いていました。
反戦運動のリーダーはベルリン自由大学出身のルディ・ドゥチュケという若者でした。ドゥチュケはエルネスト・チェ・ゲバラを心酔していました。1959年に独裁政権を打倒したキューバ革命の中心人物です。
もし僕がラテンアメリカにいたら武器を手に取るだろう。権力者が好き勝手にふるまう社会は耐えられない。僕らは革命を起こして悲劇に終止符を打ちたい。
(ドゥチュケ)
ドゥチュケだけではなく多くの若者たちがゲバラの肖像を掲げました。
若き革命家の肖像 ~キューバ革命~
ゲバラの革命もまた映像によって世界に伝えられていました。
チェ・ゲバラ
1957年、シエラマエストラを拠点に革命に動き出したチェ・ゲバラたち反乱軍。28歳だったゲバラは、2歳年上のフィデル・カストロと共に十数人の仲間を率いてキューバ政府軍と戦おうとしていました。
当時のキューバはアメリカの支援を受けたバティスタ大統領が、憲法を停止し独裁制をしいていました。政権に歯向かう市民は厳しく弾圧されました。
ゲバラとカストロには勝算がありました。戦いを続けるうちに国民は必ず支持をしてくれると、政府軍への奇襲を繰り返しました。
フィデルの望遠照準つき銃が火を吹くやほんの数秒で銃声が応じ火の中に敵の兵営が見えた。攻撃地点を占拠する時の最大の気がかりは一般市民だった。
雨の夜明け。今日は晴れるまで小屋の中で待つことにした。時間がたつにつれ農民たちがやってきては手伝いたいと言ってくれる。
(ゲバラ手記より)
農民が続々と反乱軍に加わり、400人にまで増えました。
1958年12月、農民兵の部隊は政府軍との決戦をむかえました。山岳地帯を飛び出し中心都市サンタクララを目指しました。むかえうつ政府軍は3000人。戦いは反乱軍の圧倒的勝利に終わりました。
わずか十数人で始まったキューバ革命という冒険談が世界に伝わりました。革命直後のキューバをフランスの哲学者サルトルが訪れています。
キューバ革命がもっとも画期的だったのは、若者に力を握らせたことだ。社会が革命を必要としたとき、それは若者に委ねられた。若者だけが革命を企てられるだけの怒りと苦悶、成功させるだけの高潔さを持っていた。
(サルトルの手記より)
国作りを手伝いたいと、世界中からボランティアなどを志願する若者が集まりました。革命後も人々と汗を流すゲバラの姿を見て若者たちは驚きました。
私は大学で多くの欧米の若者と同じようにフィデル・カストロの演説やチェ・ゲバラのエッセイを読んでいた。富と資源の分配、そして貧困や人種差別の根絶。勇気凛々とした二人のリーダーの言葉は世界中に反響し、ドン・キホーテと星の王子さまが住む世界に思い焦がれる私たち若者を夢中にさせた。
(アメリカ人大学生の手記より)
1967年10月、チェ・ゲバラは亡くなりました。キューバを離れ南米ボリビアで新たな革命を目指していたゲバラは、アメリカCIAとボリビア政府軍によって銃殺されたのです。
ゲバラの死は、世界の若者の反乱にさらに火をつけました。1968年5月、フランスで若者たちが立ち上がりました。それは「パリ5月革命」と呼ばれるほど大規模で激しいものとなりました。ベトナム反戦を叫ぶ若者たちに賃上げを要求する労働者が合流。労働者はゼネストに突入し、工場も交通も止まりました。そしてドゴール大統領の退陣要求にまで発展。シャンゼリゼ通りは数十万の人々に埋め尽くされました。
5月革命は大事件でした。戦争もロシア革命もスペイン内戦も知らない私はあまりにも大きな運動に圧倒されました。不可能なことは何もないと思えたし行動を共にする喜びがありました。
(ゴダール監督 談話より)
5月革命の拠点の一つだったソルボンヌ大学で、チェ・ゲバラの肖像と並んで掲げられたのは毛沢東でした。「貧しいものこそ社会の主役」という理想のもと6億の民を率いて社会主義国家をうちたてた英雄と当時のヨーローッパの若者たちは信じていました。しかし、それは幻想でした。
毛沢東の文化大革命
パリ5月革命の2年前、毛沢東は文化大革命を宣言していました。当時は毛沢東に代わって劉少奇、鄧小平ら実権派と呼ばれるグループが権力を握り、資本主義よりの経済政策をとっていました。
毛沢東はそれを「革命の堕落」と激しく非難。しかし、毛沢東の真の狙いは別のところにありました。大衆を動かして実権派を追い落とし、再び権力の座に返り咲くことでした。
そのために動員されたのが紅衛兵と呼ばれる1000万を超える若者たちでした。毛沢東語録を掲げ行進する若者たち。
毛沢東は「造反有理」という言葉で若者たちを煽りました。「反乱にこそ正しい道理がある」という意味です。反革命的な権力や文化を破壊し、再び革命を蘇らせよと若者たちは熱狂しました。
「かつて父たちが成し遂げた革命に我々の世代は参加できなかったが目の前に革命が現れたんだ。」
「私にとって文革は救済だった。ブルジョアジーの支配を絶対に許さないというのだから。」
「我々学生は目の前がパッと明るくなった気がした。みな興奮して喜びの涙があふれた。」
(紅衛兵の証言より)
名門・清華大学の名称は、清朝以来の古い歴史にとらわれていると看板が破壊されました。数千年の歴史を持つ貴重な文化財さえ破壊の対象となりました。若者たちの攻撃は権力の中枢に及びました。
劉少奇が公衆の面前に引きずりだされ、若者たちに「反革命的」と罵倒され、毛沢東は真の狙いだった権力の奪還を果たしました。しかし、造反有理の嵐は毛沢東の思惑を超えエスカレートしていきました。
攻撃の矛先は、身近な存在にも向けられたのです。教師や職場のリーダー、自分の親まで。加害者にならなければ被害者になってしまうという群集心理が暴走。文化大革命の10年で迫害、自殺などによって失われた命は数百万とも数千万とも言われています。しかし、その実態を世界が知ることはありませんでした。
1968 NOの嵐に世界が揺れた年
1968年は戦後、世界が最も激しく揺れた年となりました。
4月、ワシントンの議事堂の周辺が大炎上。キング牧師の暗殺事件をきっかけに起こった黒人による暴動です。軍隊が動員され死者46人、逮捕者2万人にのぼりました。若者たちの反乱は破壊や暴力をともない次第にエスカレートしていきました。
日本でも若者たちの反乱は過激さを増しました。10月には新宿騒乱と呼ばれる事件が起こりました。過激派が新宿駅構内に侵入し、一般の若者も加わり暴徒化。
イギリスではケンブリッジ、オックスフォード大学などのエリート学生が警官と激しくぶつかりました。2万人の参加者の中にはスティーブン・ホーキングやミック・ジャガーもいました。
教えてくれ、いったい私に何ができるのか。中国やドイツが若者たちを操っているに違いない。これは世界的な陰謀だ。裏で手が動かない限りこうした運動が同時にさまざまな国で爆発するはずがないのだ。
(ドゴール大統領発言録より)
若者たちの反乱は、新しい文化も生んでいました。心につきささるようなメッセージが込められたボブ・ディランの曲を世界中の若者が口ずさみました。髪を伸ばしたヒッピーが出現し、黒人音楽を取り入れたロックンロールが席巻。ラブ&ピースを掲げて人目を気にせず抱きあうカップルが溢れました。
これまでの価値観や権威を否定することから生まれたこうした文化は「カウンター・カルチャー」と呼ばれ世界的な現象となりました。
プラハの春と弾圧の夏
西側で巻き起こった若者たちの反乱は、テレビを通じて壁の向こう側にも伝わっていました。社会主義国の中で、最も報道の自由が認められていたチェコスロバキアでは「プラハの春」と呼ばれる民主化運動が始まっていました。
政府は共産党一党支配の是正、報道と言論の自由を国民に約束しました。それまで機密扱いだった議会の様子はテレビ中継されるようになりました。
しかし1968年8月、プラハの街は7000台の戦車に占拠されました。急激な民主化を警戒したソビエトによる弾圧でした。
プラハの市民は、武器を持つことなく弾圧に立ち向かいました。若者たちは非武装で戦車に立ちはだかり、ソビエトの兵士に片言のロシア語で語りけました。
「何故こんなことをするんだ?」
「ソビエト人は良い人だろう?」
国営のテレビ局は戦車のせまる中、世界に向けて非常事態を訴え続けました。劇作家バーツラフ・ハベルは、弾圧を逃れながら放送を続けるラジオ局から市民に向けメッセージを発しました。
機関銃や戦車も人間の意志や理念には勝てません。みなさん、今は耐えるときです。ともに耐えましょう。あきらめてはいけません。
(バーツラフ・ハベル)
1969年7月、アポロ11号が人類史上初の月面着陸を成功させました。若者たちの反乱のニュースと同じように、世界に衛星中継で届けられました。乗組員の一人マイケル・コリンズは、仲間たちが月を歩いている間、地球を見ながらこんなことを考えていました。
世界の指導者がはるか上空から自分たちの星を見たら彼らの態度も根本から変わるはずだ。何よりも重視している国境は見えないし言い争いもぱったり聞こえなくなる。地球は見える姿の通りにならなければならない。資本主義者も共産主義者もない青と白の姿に。金持ちも貧乏人もいない青と白の姿に。
(マイケル・コリンズ)
1975年、南ベトナムの首都サイゴンが陥落。アメリカは初めて戦争に負けたのです。1960年代初め60%以上あったアメリカ国民の戦争支持率は、30%を割り込んでいました。「テレビに負けた戦争」とも言われました。
同時に若者たちの反乱は、ベトナム戦争という最大の敵を失い、嘘のように下火になっていきました。
そして壁が崩れた
世界が再び大きく揺れ動くのは、1980年代の末のことでした。
1987年6月、西ベルリン側の前の広場でデビッド・ボウイが野外ライブを行いました。1960年代のカウンターカルチャーが生んだスーパースターです。ボウイはこの時、スピーカーの4分の1を会場の聴衆ではなく壁の向こう側、東ベルリンに向けていました。
今夜はみんなで幸せを祈ろう。壁の向こう側の友人たちのために。
(デビッド・ボウイ)
ボウイの歌は確かに壁の向こう側に届いていました。しかし、東ドイツでは事前の許可なく集会を開くことは禁止されていました。いつもなら人々は監視の目を恐れて、すぐに引き上げるはずでした。ところが、この時は違いました。数人の若者が叫びました。
「ここから出せ!」
東ドイツの人々が表立って権力に逆らうのは前代未聞のことでした。
それはまるで禁断の果実を味わっているかのようだった。この出来事は僕たちの状況を変えるために起きているのだとみんな直感的にわかっていたんだ。
(15歳の若者の証言)
若者たちは増え続け5000人にまで膨れ上がりました。ライブが終わっても立ち去らず逮捕者まででました。そしてこの2年後、自由を求めるエネルギーが爆発することになりました。
1989年4月、中国でも若者たちが立ち上がりました。天安門広場に民主化を求めて若者が集まり100万を超える抗議集会に発展。ソビエトでペレストロイカが始まる中、中国政府も改革の動きを見せていましたが果たされませんでした。希望を打ち砕かれ若者たちが抗議の声を上げたのです。
抗議の声を上げたのは文化大革命に苦しめられた若者たちの子供世代でした。しかし、政府はこれを武力で制圧。人民解放軍が無差別発砲し装甲車でなぎ倒しました。
父よ、そして母よ、悲しまないでください。私たちがたとえ死んでも悲嘆にくれないでください。私たちは決して無駄に死ぬつもりはありません。なぜなら民主主義は一世代では達成できないものであることを認識しているからです。わが祖国への忠誠をこのように絶望的な方法でしか表せないことをどうかお許しください。
(学生リーダー 柴玲の言葉より)
東ヨーロッパでは自由と民主化を求めるエネルギーがついに爆発。1989年11月、28年間にわたり東西を分断していたベルリンの壁が崩壊しました。そして、東ヨーロッパの社会主義政権全体がドミノ倒しのように崩れていきました。
チェコスロバキアでは民主化を求める学生デモが20万人の大集会に発展。社会主義政権が打倒されました。流血なしに成し遂げられたことから「ビロード革命」と呼ばれました。
新生チェコスロバキアの大統領に選ばれたのは、劇作家バーツラフ・ハベル。プラハの春の弾圧の時にラジオ放送で抵抗を続けた人物です。大統領就任の翌年、ハベルはアメリカのコロンビア大学に招かれ講演を行いました。
1960年代末のあの時代の空気は、私に大きな勇気を与えました。当時の私たち若者は、既存の体制や社会の古い構造に抵抗しました。しかし、反乱だけでは意味はありません。新しいものを作り上げなけらばならない。それが私がわが国で一番高い職務に就くことを受け入れた理由です。
(バーツラフ・ハベル)
世界は変えられると信じた若者たちの遺伝子は、確かに受け継がれていました。遠く離れた若者たちの心を繋ぎ、時を超えてそのエネルギーを運んだのはテレビでした。
そして21世紀、今度はインターネットがその役割を担っていきます。
「NHKスペシャル」
新・映像の世紀で第5集「若者の反乱が世界に連鎖した」
第1集「百年の悲劇はここから始まった」
第2集「グレートファミリー新たな支配者」
第3集「時代は独裁者を求めた」
第4集「世界は秘密と嘘に覆われた」
第5集「若者の反乱が世界に連鎖した」
第6集「あなたのワンカットが世界を変える」
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