新・映像の世紀 第2集「グレートファミリー 新たな支配者」|NHKスペシャル

第一次世界大戦終結後の1920年代、未曽有の好景気にわいたアメリカ。その原動力となったのはロックフェラーをはじめとする巨大財閥グレートファミリーでした。ファミリーは新しいビジネスにのりだし、新興国アメリカを資本主義大国に押し上げました。

 

ウォール街の帝王 モルガン

1919年、連合国イギリス・フランスは、第一次世界大戦に勝利したものの国力を使い果たし消耗しきっていました。一方、戦場にならなかったアメリカでは、ヨーロッパから帰還した兵士たちの凱旋パレードが続いていました。アメリカは、圧倒的な経済力と工業力で世界のリーダーに躍り出ました。

 

パリでは、敗戦国ドイツの賠償などを話し合う会議が始まろうとしていました。アメリカ大統領ウィルソンを人々は熱狂的に歓迎。しかし、指導力を発揮したのはアメリカの銀行家モルガンでした。大統領の方針に反し、ドイツに重い賠償金を課すよう会議を動かしました。モルガンにとって何より重要だったのは、連合国に貸し付けた戦費の回収でした。

 

大統領をしのぐ発言力を持つモルガンは「ウォール街の帝王」と呼ばれました。モルガンがオフィスをかまえるウォール街。一般の顧客は相手にせず看板さえありません。アメリカに中央銀行の制度がなかった1913年まで、その役割を担っていました。

 

アメリカを影で動かすモルガンをメディアは追いかけまわしましたが、彼はカメラ嫌いでした。そんなモルガンが世間の目に晒された事件がタイタニック号の沈没です。

 

 

タイタニック号沈没

1912年4月、イギリスからニューヨークに向けて出航したタイタニック号は、大西洋で氷山と衝突して沈没。1500人以上が犠牲となりました。

 

船の運行会社のオーナーは、モルガン一族でした。救命ボートの不足、金持ちの救助を優先した疑いで関係者がつめかけました。巨額の保険金をかけていたことも人々の怒りをかいました。

 

しかし、モルガンは動じませんでした。モルガンはアメリカ経済の影の支配者でした。あらゆる企業がモルガンの投資で巨大化していたため、楯突く者などいなかったのです。

 

私の務める特殊な職は、私の知る限り世界中で一番おもしろい。どこの国王、教皇、首相になるよりもずっと楽しい。なぜなら、誰も私もそこから追い出せないし、私も信念を曲げる必要がいささかもないからだ。

(J.P.モルガン ジュニアの談話より)

 

空前の好景気

空前の好景気にわくアメリカを目指して、世界中からマネーと人が流れ込んでいました。

 

摩天楼の建設競争も始まっていました。地上319メートル、世界一高いビルの建設を始めた自動車メーカーのクライスラー。すると、業界トップGM自動車の陣営はエンパイア・ステート・ビルで応戦。屋上に高さ60メートルの巨大なポールを取り付け大きく上回りました。

 

アメリカの自動車は技術革新によって10年で価格が3分の1に下がり大衆の乗り物となっていました。登録台数は8倍に増加。アメリカ中に道路が整備され、道沿いにガソリンスタンドがあらわれました。

 

エネルギー革命 君臨する石油王

この急速な自動車の普及は一人の富豪を産みました。石油王ジョン・ロックフェラーです。

 

ジョン・ロックフェラー

 

1924年、全米で初めて発表された長者番付ではフォード、モルガンをおさえ断トツの一位でした。

 

ロックフェラーは出会った人にコインを渡すのが習慣でした。

 

たった5セントと思うかもしれないが、軽んじるべきでない。これは1ドルの年利なのです。

(ジョン・ロックフェラー)

 

ペンシルベニアで石油が大量に発見されたのは19世紀中頃。地下から湧く「燃える水」の存在は古くから知られていましたが、アメリカで大規模に見つかったのは初めてでした。油田の周辺には、一攫千金を夢見て男たちが集まり、手当たりしだいに地面を掘り起こしました。

 

そこら中に油井ややぐらがみるみるうちに立ち、石油がありそうな場所の土地代ははね上がった。石油探索は迷信とあてずっぽうに満ち満ちており、石油魔術師、石油を嗅ぎあてる男など愛すべきいかさま師が集まった。

(作家リチャード・オコナーの手記より)

 

石油探索は事故が頻発していました。しかも大金を投じても必ずしも石油が見つかるわけではありません。石油ビジネスはまともな人間のやることではないと考えられていました。しかし、ジョン・ロックフェラーの考えは違いました。

 

ジョン・ロックフェラーは、石油の採掘そのものには手を出さず、人が採掘した石油を買い集め精製し販売するビジネスを始めました。優秀な科学者を雇い、どんな不純物を含んだ原油でも精製できる技術を開発。「自社製品こそが世界標準」と銘打ち、設立した会社はスタンダード石油と名づけました。スタンダード石油は、全米の石油産業の90%を支配。石油の富を独占しました。

 

しかし、無敵のロックフェラーを脅かす出来事が起こりました。景気が拡大する中、持てる者と持たざる者の格差が広がり、ヨーロッパでの労働運動の影響も加わりアメリカ各地でデモが頻発。ロックフェラー家所有のコロラド燃料製鉄会社でも9000人の労働者がストライキを起こしました。会社は鎮圧部隊まで動員。労働者やその家族30人以上が亡くなりました。

 

この事件でロックフェラーを激しく非難したのが、社会運動家ヘレン・ケラーでした。企業家に面会をとりつけ、労働者の待遇改善を訴えていました。

 

女性と子供たちをあんなに無慈悲に虐殺するなんて、ミスターロックフェラーは資本主義の化け物です。慈善事業の裏では無力な人たちが殺されるのを許しているのです。

(ヘレン・ケラー)

 

しかし、ロックフェラーは意に介しませんでした。自動車のみならず戦場では飛行機や戦車が登場。もはや、世界はロックフェラーの石油なしには動かなくなっていたのです。

 

非難がどれほど激しかろうと、我々は全世界に伝道を行ったのだ。これは間違いのない事実だ。富を築く才能は神からの贈り物だと思う。こうした能力を最大限に伸ばし人類の幸福のために役立てよと神が与えて下さったのだ。

(ジョン・ロックフェラーの手記より)

移民大国アメリカ

アメリカが振りまく富のニオイは、世界中の人々を引き寄せていました。1920年からの10年間で400万人を超える人々が押し寄せました。最も多かったのがイタリア移民。そして、ヨーロッパからやってきたユダヤ人でした。

 

ロシア周辺には世界で最も多い700万のユダヤ人が暮らしていましたが、革命の混乱の時期、ユダヤ人の大量虐殺が起こっていました。犠牲者は10万人を超え、迫害から逃れた人々はアメリカに新天地を求めました。

 

ユダヤ人移民の中に後に世界的な化粧品会社を興すことになるマックス・ファクターもいました。マックス・ファクターは、ロシアで貴族お抱えの化粧師をしていましたが、妻子と共に決死の覚悟でアメリカへ向かいました。

 

ロシアの港まで子供たちをブランケットで隠して運びました。アメリカに着きましたが英語は片言が精一杯。名前のサイン以外、書くことも読むこともできませんでした。子供が私の英語を助けてくれました。

(マックス・ファクターの手記より)

 

ロシアにあった世界最大のユダヤ人コミュニティがニューヨークに移りました。ユダヤ人のパワーは、グレートファミリーと共にアメリカのもう一つの強さを生むことになりました。

 

隙間産業を狙うユダヤ人が目をつけたのが、誕生間もない映画でした。当初の映画はニュースが中心で、ユダヤ人は客をよべるエンターテインメントを作ろうと新たな映画会社を設立。

 

そこに立ちはだかったのが、トーマス・エジソンです。映画カメラを発明し撮影上映の特許を独占していたエジソンは、あらゆる映画製作に対して特許料を要求。支払いを逃れようとするものを次々と告訴しました。

 

トーマス・エジソン

 

ユダヤ人たちは、スタジオを捨て西部を目指しました。そして誕生したのがハリウッドです。ハリウッドにはマックス・ファクターも参加。女優の粗隠しのためにメイクアップ術を開発しました。マスカラ、リップブラシなどの化粧用具が瞬く間に一般女性へと広まりました。俳優を志すユダヤ人も多く、名だたるスターが次々と生まれました。

 

多くのアメリカ人が家庭でこう言われて育ったに違いない。「ユダヤ人を差別するのは仕方のないことだ。国のしきたりなのだ」しかし、私はその差別のおかげで頑張れた。人は所詮自分で自分の背中を押すしかないのだ。

(カーク・ダグラス自伝より)

 

ユダヤ人が切り開いた映画産業は、アメリカが世界に誇る一大産業へと成長していきました。

 

しかし、自らの才覚でのし上がろうとする者はあくまで少数派。移民の多くは巨大な工場へ職を求めました。フォードの工場には相場の2倍という給料に惹かれ、年に5000人を超える移民が押し寄せました。

 

1920年に禁酒法が施行されました。禁酒法を強く求めたのはフォードをはじめとする経営者たちでした。飲酒によって仕事の能率が落ちていると訴えました。エジソンも禁酒法制定に積極的でした。法律を支援する映画まで制作しています。

 

かつては月曜になると社員の奥さんたちがやってきて、金曜にもらったばかりの給料を夫が全部飲んでしまったと私に泣きついたものだ。だが禁酒法のおかげでみんなその悩みから解放されたのだ。

(エジソンの手記より)

 

世界に市場を求める

その頃、日本は未曽有の災害に襲われていました。アメリカ政府は、アジアに駐留していた戦艦など17隻を日本に派遣。大規模な災害援助を行いました。モルガンも手を差し伸べました。日本政府が発行した復興公債1億5000ドルを引き受けたのです。日本政府がその莫大な債務を償還しおえるのは、40年後の高度成長期のことでした。

 

グレートファミリーはこの時期、アメリカ国内だけでは満足せず、世界中に市場と資源を求め始めていました。ジョン・ロックフェラーは70歳を過ぎ、当主の座を息子のロックフェラー・ジュニアに譲りました。

 

ジョン・ロックフェラー2世

 

ジュニアは一族が目指してきた理想を受けつぎました。

World Peace through Trade

自由貿易を広げることこそが世界に平和をもたらすという考えでした。有り余る富で設立した慈善団体「ロックフェラー財団」の活動が資本主義伝道の手段となりました。

 

財団が力を入れたのは途上国の生活水準の向上。ジュニアは日本が統治していた朝鮮半島を訪れました。朝鮮総督・斎藤実と会見し日本の医療水準を上げる策を話し合いました。

 

北京では財団が設立した病院の落成式に出席。中国で最先端医療を誇る病院でした。アフリカでは黄熱病、マラリアなどの伝染病の撲滅や公衆衛生の改善に取り組みました。

 

労働環境を整え生産性を上げる、現地の所得を向上させ市場を広げる、世界に資本主義を浸透させる遠大な計画でした。研究チームは財団内部向けの文書で成果を報告しています。

 

労働者320人が治癒し生産性が劇的に増加したことで、この計画の経済的価値は立証される。労働者は低い労働単価にもかかわらず、より勤勉により長く働くようになった。

(ロックフェラー財団報告書より)

 

大規模な慈善活動で一家のイメージアップをはかりながら資本主義を広げる。2代目ジュニアは「世界一金を使うのがうまい男」と呼ばれました。

 

大量生産 大量消費

1920年代、アメリカの国民所得は30%以上増え、史上初めて生活必需品以外のものを買える社会が到来しました。絹の肌触りをアピールしたレーヨン。安価で大量生産できる人工繊維が、女性の装いを華やかにしました。

 

セロファンは包み紙を進化させ、店員から渡されていた商品を自由に選べるようになりスーパーマーケットが広まりました。これらを大量生産したのはグレートファミリーの一つデュポン。19世紀から火薬メーカーとして君臨していた企業です。

 

デュポンは、第一次世界大戦では連合国に火薬の40%を供給し、「死の商人」とも呼ばれました。デュポンは、火薬の原料から合成ゴムやプラスチックなど様々な素材を開発。中でも爆発的に売れたのがナイロンストッキング。デュポンは火薬メーカー以上に利益を上げました。新製品が発売されるたび、人々は欲望をかきたてられていきました。

 

週休2日制が広まったのもこの頃で、空前の旅行ブームが到来しました。アメリカ人の憧れは花の都パリ。カフェはアメリカ人で埋め尽くされました。

 

私の原稿料は30ドルから1000ドルにはね上がっていた。若い時期に成功することの代償は人生がロマンチックなものだと思い込んでしまうことである。愛や金銭が当然のように手に入る。満たされた未来と物悲しい過去が混じり合ったごく短い贅沢な時間。その時人生はまさにひとつの夢だった。

(フィッツジェラルド「若き日の成功」より)

 

崩壊

1929年に入ってもアメリカの好景気は天井知らずでした。自動車や住宅ローンの普及で、当座の現金がなくてもすぐにモノが手に入るという感覚は当たり前になっていました。

 

合言葉は「Buy Now,Pay Later(今すぐ買おう!お支払いはあとで)」株式でも、わずかな資金さえあれば残りは株券を担保に借金をして買える仕組みが広まっていました。

 

1929年10月19日、モルガン商会は景気の過熱を懸念するフーバー大統領にレポートを提出しました。

 

現時点では、わが国の経済がコントロール不能に陥っていると示唆する要素は何もありません。我々は世界で最強の富と確固たる未来を持っています。

(モルガン商会 大統領宛のリポートより)

 

その5日後のことでした。

 

株価大暴落

リディア、ウォール街で株価が暴落した。新聞で読んだだろう。史上最大の値下げだ。今日は一日経済のことだけを考えさせられてうんざりした気持ちでいる。

(ケインズから妻リディアへの手紙より)

 

大暴落の暗黒の木曜日から数日後。現場のアナウンサーの生々しい実況が残されています。

 

我々は今、ニューヨーク証券取引所にいます。起きたばかりの株価の大暴落を知り取引所の前には大きな人だかりができています。

 

GMやUSスチールなど優良株が軒並み半分にまで下落。1週間で数百億ドルが消え去りました。株券は紙くず同然に。借金をして株を買っていた人々は、返済をせまられ次々と破産。石油王ロックフェラーは、絶望する人々に向けメッセージを発しました。

 

長い人生には大恐慌や繁栄が波のように繰り返しやってくるものだ。神と人間性を信じ勇気を持って進もうではないか。

(ロックフェラー)

 

金融王モルガンが議会の聴聞会に召喚されました。過剰な投機熱を煽ったこと、自分だけは一早く資金を引きあげ被害を免れたこと、そして脱税が追求されました。

 

今、我々がそのただ中にいるグローバルでかつ個人主義的な資本主義は成功ではなかった。それは知的でなく美しくなく、公正でもなく道徳的でもない、そして善をもたらさない。だが、それ以外に何があるのかと思うとき非常に困惑する。

(ケインズ論文「国家的自給」より)

 

奈落の底に落ちたアメリカをさらなる悲劇が襲いました。1930年代、中部の農村地帯にダストボールと呼ばれる砂嵐が突如出現。砂嵐は10年近く断続的に続きました。「これは何かの報いではないか」誰もがそう考えていました。農家は土地を捨て西へ向かいました。

 

国道は移動する人々の川になった。西部ではこれらの移住民が国道に増加してくると恐慌が起こった。飢えを知らぬ人々が初めて飢えた人間の目を見た。カラスのように人殺しのように血眼になった人々が群れていた。

(スタインベック「怒りの葡萄」より)

 

社会主義国家ソビエトは、順調な計画経済を高らかにうたいあげ、欲にまみれた資本主義を嘲笑いました。

 

大恐慌のさなか、ロックフェラー家は巨大ビル「ロックフェラーセンター」を完成させました。しかし、テナントは集まりませんでした。2代目ジュニアが、採算を度外視しても建設を続けたのは資本主義の健在ぶりを世界に示すためでした。そして一族の理想「World Peace through Trade(自由貿易による世界平和)」を巨大ビルとして形にするためでした。

 

ビル建設によって7万人を超える労働者が職を得ました。人々は仕事を与えてくれたことに感謝し、ポケットマネーを出し合い、特大のクリスマスツリーを中庭に作りました。

 

3代目のデイビッドは、ウォール街に2つの塔を持つ世界最大のビルの建設を計画。一族の掲げた理想「ワールド・ピース・スルー・トレード」から正式名称は「ワールド・トレード・センター」と名づけられました。21世紀最初の年に無残に崩れ去ったあのビルです。

 

1937年、創業者ジョン・ロックフェラーは97歳で亡くなりました。遺産を調べると、大暴落の時に安く手に入れた優良株を高値で売りさばき損失分をそっくり取り戻していました。

 

亡くなる前、病床のロックフェラーを自動車王フォードが見舞いまいました。

「さらばだ 天国で会おう」

と声をかけたロックフェラーに、フォードはこう返したと言います。

 

「あなたが天国に行けるならね」

 

資本主義への幻滅

アメリカからおこった恐慌の波は、瞬く間にヨーロッパを飲み込みました。そして、日本にも押し寄せました。資本主義への幻滅が広がり、労働者たちはファシズムや社会主義の方がましだと叫びました。

 

イタリアやドイツ、日本では恐慌を抜け出そうとしてファシズム(軍国主義)が台頭。資源と市場を求めて、領土拡大に進んで行きました。世界は一触即発となりました。

 

大戦の足音

デュポン家は、第二次世界大戦の足音が聞こえてくると再び火薬メーカーに。一族の娘が大統領ルーズベルトの息子と結婚。政府との結びつきを深めていきました。ナイロンストッキングは姿を消し、爆薬やパラシュートに生まれ変わりました。そして、原爆開発のマンハッタン計画にも参加することになりました。

 

モルガンなどウォール街は、ドイツ・イタリア・日本を資金面で支援していましたが、戦争が近づくと態度を一変させました。モルガンは、アメリカ政府が発行する戦時公債の販売を引き受け、ウォール街は一致団結して戦争協力体制をかためました。

 

アメリカは揺らぎ始めた資本主義をファシズム、そして社会主義から守り抜く長い戦いを始めることになりました。

 

「NHKスペシャル」
新・映像の世紀
第2集「グレートファミリー新たな支配者」

 

新・映像の世紀
第1集「百年の悲劇はここから始まった
第2集「グレートファミリー新たな支配者」
第3集「時代は独裁者を求めた
第4集「世界は秘密と嘘に覆われた
第5集「若者の反乱が世界に連鎖した
第6集「あなたのワンカットが世界を変える

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