新・映像の世紀 第1集「百年の悲劇はここから始まった」|NHKスペシャル

100年前、第一次世界大戦の戦場の一角に発明されたばかりの小型のムービーカメラが姿を現しました。人々の営みを画期的な動く映像として記録できる画期的な装置。格好の被写体として選ばれたのは戦争でした。

 

ムービーカメラに記録された映像は、初めての本格的な戦争記録映画「ソンムの戦い」となりました。対戦の最中、ヨーロッパで上映され2000万人が映画館へ殺到。当時、映画館に詰めかけた観客の多くが夫や息子の姿を必死で探したと言われています。

 

恐怖と緊張にこわばる兵士の表情。動く映像のあまりの生々しさに人々は言葉を失いました。撮影したのはイギリスの従軍カメラマンであるジェフリー・マーリンズです。

 

何という恐ろしい記録だろう。戦争が終わっても私が小さなカメラに収めた映像は生き残り、兵士が果てしなく殺し合う戦場のすさまじい破壊がこれから何度も映像で再現されることになる。

(マーリンズ「回想録」より)

 

それから100年、映像は世界を動かす巨大なパワーとなりました。

 

百年の悲劇はここから始まった

第一次世界大戦は、20世紀を覆う不幸の種子を世界にばらまきました。私たちが生きている世界自体が第一次世界大戦の産物なのです。

 

1900 前夜

1900年、19歳のパブロ・ピカソは初めてパリにやってきました。華やかな都市文化、地下鉄、パリ万博では動く歩道も登場。パリは世界の平和と繁栄を象徴していました。このパリ訪問で受けた刺激がピカソの創作の原点となりました。

 

デザイナーのココ・シャネルが活躍し始めたのもこの頃。コルセットで縛る女性服の常識を壊し、スポーティーなデザインでファッションに革命を起こしました。それは、女性の社会進出が徐々に始まるなか大評判となりました。

 

アメリカのライト兄弟は、エンジンによる飛行機で空を飛ぶことに成功。テクノロジーは、人類に幸福をもたらすものと無条件に信じられていました。

 

大戦前の世界を一言で言うなら安定した黄金時代だった。科学技術の奇跡によって人類は平和のうちにどこまでも進歩していく、誰もがそう信じていた。

(シュテファン・ツヴァイク「昨日の世界」より)

 

しかし1913年、イギリスのSF作家H・G・ウェルズは戦争の危険を強く警告しました。ウェルズは、20世紀の運命を驚くほど正確に言い当てました。

 

世界はドイツとイギリスの率いる2大陣営に分かれ世界最終戦争を始める。飛行機が戦争の道具に使われ空爆が始まる。戦車が発明され田園を踏み荒らす。原子爆弾が生まれ文明を壊滅させる。

(SF作家H・G・ウェルズ)

 

ウェルズの予言は翌年的中しました。

 

1914 運命

それは1914年6月、オーストリア=ハンガリー帝国サラエボで起きた出来事が始まりでした。サラエボ訪問中の皇太子夫妻が凶弾に倒れたのです。犯人はセルビアの民族主義者ガブリロ・プリンツィプ。オーストリアの支配に反発する秘密結社の一員でした。

 

ガブリロ・プリンツィプ

 

亡くなった皇太子の叔父フランツ・ヨーゼフ1世は、報復のため直ちにセルビアに宣戦布告。すると、バルカンに領土的な野心を持つロシア帝国がセルビアへの支援を表明。ニコライ2世は兵士を総動員し、戦争に備えました。

 

列強は安全保証のため軍事同盟を結んでいました。イギリスはフランスとロシアと、ドイツはオーストリアとオスマン帝国と結び2大陣営に分かれました。戦争を望まない他の国々も軍事同盟に縛られ、30か国を超える国々が戦火に巻き込まれていきました。

 

オーストリアの同盟国ドイツは、8月に入ってロシアとフランスに宣戦布告。8月4日、ドイツは中立国ベルギーに侵攻しました。ドイツ軍は市民にも銃を向け、150万のベルギー人が国外に逃れました。

 

ベルギーと軍事条約を結んでいたイギリスが参戦に踏み切りました。国中が騒然とする中、50万の若者が志願。40年の平和が続いたヨーロッパでは戦争の記憶は薄れ、若者は戦争をロマンチックな冒険と考えがちでした。そして、誰もが戦争は数か月で終わると信じていました。

 

ドイツ軍などあっという間に蹴散らすことができると新聞があおっていた。みんなそう信じていたし、クリスマスまでには戦争が終わると思っていた。友人たちは争って志願した。私も17歳で志願兵になった。

(元イギリス兵レスリー・ウォーキントン)

 

ドイツの学生は皆、強烈な愛国心にとりつかれていた。はためく国旗、勇ましい軍歌、祖国の華々しい勝利を疑う者はいなかった。

(元ドイツ兵ハインリヒ・ボイトウ)

 

イギリスでは志願した若者の多くは貧しく失業者も多かったため、ほとんどの兵士は訓練不足のまま前線に送られました。イギリスの新兵はドイツの新型機関銃のかっこうの餌食になりました。

 

さっきまで冗談を飛ばし合っていた400人の仲間があっという間に機関銃でなぎ倒された。生き残ったのは俺ひとりだけだった。

(元イギリス兵ジョー・アームストロング)

 

機関銃に対する防衛戦法として登場したのが塹壕です。

 

塹壕

塹壕から少しでも頭を出せばすぐに弾が飛んでくる。朝から晩まで砲弾や機関銃の音に責められる。5分で気が狂いそうになる。

(元イギリス兵ウォルター・ヘア)

 

イギリス・フランスの連合軍がドイツと戦う戦場は西部戦線と呼ばれました。塹壕は西部戦線に沿ってヨーロッパ大陸を縦断。700kmも伸びました。

 

 

最悪なのは雨でした。不潔極まりない塹壕で兵士はシラミと病気に苦しみました。

 

塹壕戦が長引き、チフスや肺結核などの伝染病が流行。梅毒などの性病も蔓延。20万を超える連合軍兵士が梅毒にかかりました。大戦中、性病を警戒した当局は慰安婦のみならず女性全般への性病予防を強化しました。

 

ともかく酒と女だ。自分たちが戦争の道具にすぎないという思いを振り払うためさ。そうでもしなけりゃ気が狂う。

(元イギリス兵ヘンリー・リッチ)

 

大戦が始まって1年も経たないうちに、戦火はアフリカやアジアなど世界に拡大。日本はイギリスとの同盟を理由に連合国として参戦。ドイツ領・青島へ出兵を決めました。ドイツは、1898年から青島を租借し、東洋艦隊の拠点としていました。

 

7月、本国からの指令を受けてドイツの主力艦が次々と出港。日本はドイツの強力な軍隊が留守の間に青島を攻略。ほとんど傷を負うことなく巨大な権益を獲得しました。

 

この年、アメリカの外交官がイギリスに電報を打ちました。

列強が留守の間に日本が中国の権益を独り占めしてしまわないだろうか。アメリカとしては非常に心配している。

(アメリカ外交官の電報より)

 

中央アジアでも戦闘が繰り広げられていました。激突したのはオスマン帝国とロシア帝国。オスマン軍は黒海とカスピ海に挟まれた国境コーカサスへ進軍しました。3000メートルを超える真冬の山岳へ12万の大軍を送る無謀な作戦でした。1万を超えるオスマン兵が戦闘に参加することなく凍え死に、9割のオスマン兵が戦死しました。

 

開戦後5か月、西部戦線では150万の兵士が戦死。多くの遺体が塹壕の中に放置されました。若者たちを酔わせた冒険への熱狂は、急速に色あせました。

 

自らこの戦争に志願した作家スコット・フィッツジェラルドは、後に塹壕の跡を訪れました。

 

スコット・フィッツジェラルド

 

1日数センチずつ今の僕らが歩いて2分でたどりつく距離に大英帝国は1ヶ月かける。あとに残されるのは血まみれのボロ切れのような百万の戦死者。

(フィッツジェラルド「夜はやさし」より)

 

1915 悪夢

1915年、ドイツで初めて女性として科学の博士号を得たクララ・ハーバーが自ら命を絶ちました。夫は天才科学者フリッツ・ハーバー博士。フリッツ・ハーバー博士は、空気中から窒素を取り出す方法を確立しノーベル賞を受賞。彼の研究を応用して窒素肥料が開発され、飢餓に苦しむ世界中の人々が救われました。

 

フリッツ・ハーバー博士

 

戦争が始まるとフリッツ・ハーバー博士は、極秘の研究に取り組みました。それは毒ガスの開発でした。

 

彼は自ら戦場に赴き実験を指揮し1915年4月22日、化学兵器が初めて戦争に使われました。7kmの前線にわたって168トンの塩素ガスが放たれ、600人の兵士が犠牲となりました。

 

塹壕一面に液体が飛び散り霧のようなガスになった。大勢の兵士が目をやられてのたうち回り毒ガスであることに気づいた。みんな窒息して苦しみはじめた。

(元イギリス兵ウォルター・クラーク)

 

兵士は恐怖でパニックとなり、周辺の住人も巻き込まれました。ただちに、毒ガスから身を守るマスクが開発されました。

 

衝撃を受けたクララは、夫に激しく抗議。

 

「あなたは科学を捻じ曲げています。研究をやめてください。」

 

しかし、夫は平然と「毒ガスは戦争を早く終わらせドイツの兵士を救うのだ」と言い放ちました。実際には、毒ガスによって戦争は長引き被害は拡大。連合軍も強力な毒ガスを開発し、両軍合わせて6600万発のガス弾がまかれ死傷者は100万人に及びました。

 

5月1日、毒ガス戦の成功を祝いハーバー博士を称える祝賀会が開かれました。その夜、クララは夫のピストルを持ち出し自らの胸に向けました。

 

残されたハーバー博士にも悲劇が待っていました。チクロンBは後にユダヤ人の大量殺戮のために使われた毒ガスですが、もとはハーバー博士が開発に携わった強力な殺虫剤でした。博士自身もユダヤ人でした。自分が開発した毒ガスが同胞の絶滅のために使われるとは思いもしなかったでしょう。そして、博士はナチスに迫害され亡命を余儀なくされました。

 

人生でこれほど苦々しく耐え難い思いをしたことはない。私がいかにドイツに忠誠を尽くしてきたか。今になってみれば吐き気がするほどの嫌悪感を感じる。

(ハーバー博士「アインシュタインへの手紙」より)

 

バーバー博士は、1934年に亡命先のスイスで亡くなりました。

 

ハーバー博士が世に送り出した化学兵器は、その後戦争においても無差別大量殺戮の道具となりました。今もはかり知れない災いをもたらし続けています。

 

1915 地下壕

1915年、砲撃や毒ガスを避けるため西部戦線には地下壕が登場。兵士は暗闇に身を潜め、ひたすら砲撃の嵐に耐えました。

 

イギリス軍は敵陣地の地下まで掘り進み地雷を仕掛けました。連合軍は160kmに渡り750発の地雷を爆発させました。ドイツ軍も700発の地雷で応戦。

 

地雷の爆発で大勢の仲間の手足が飛び散った。死体から流れる大量の血の臭いは、どんな臭いとも比べ物にならない。死ぬほどいやな臭いだった。

(元イギリス兵ヴェール・フェルン)

 

地下壕には100年前の兵士たちの叫びが残されています。地下壕には礼拝所も作られ、突撃命令を受けた兵士は暗闇で祈りを捧げ戦場に向かいました。

1916 英雄

戦いは地下のトンネルから大空へ向かいました。第一次世界大戦で爆撃機が初めて登場。最新の科学技術が導入され、戦争は新たな次元に突入しました。

 

空の英雄リヒトホーフェン

激しい空中戦の中、撃墜王マンフレート・フォン・リヒトホーフェンの名が刻まれました。リヒトホーフェンは真っ赤な飛行機に乗っていたためレッド・バロン(赤い男爵)と呼ばれました。操縦席に高性能の特製機関銃を搭載。80機を撃墜しました。

 

リヒトホーフェン

 

リヒトホーフェン率いる飛行部隊は「空飛ぶサーカス」の異名をとり、連合軍から恐れられました。リヒトホーフェンは正義感に溢れ勇敢、騎士道精神の鑑とされドイツ女性の憧れでした。

 

ドイツ皇帝ウィルヘルム2世は、リヒトホーフェンに軍人として最高の名誉であるプール・ル・メリット勲章を授けました。しかし、半数のパイロットが戦死。多くが訓練中の事故でした。仲間が減っていくなか赤い男爵は空を飛び続けました。

 

私はこの頃、情けないほど意気消沈するようになり引退することも考えた。だが塹壕の中で苦しい戦いを強いられている仲間を思うと自尊心が許さなかった。

(リヒトホーフェンの言葉より)

 

そして1918年、リヒトホーフェンは撃墜されました。連合軍は敵国の空の英雄に敬意を表し、戦場で丁重に葬りました。

 

総力戦

戦いは国家の全てを動員する総力戦の様相をていしました。イギリスでは100万人の女性が軍需工場などで働きました。

 

軍需工場の仕事がもとで病気になった若い子がいたわ。金属の粉を大量に吸い込みのどの奥まで焼き尽くされて苦しみながら死んでいった。まだ19歳だった。

(元軍需工場の労働者リリアン・マイルズ)

 

女たちは死に物狂いで働き、来る日も来る日も弾丸を量産し続けた。軍需工場の経営者は「女はいくらでも代わりがいる」とうそぶいた。だが本当は女たちの働きがなければ戦争は負けていた。

(元軍需工場の労働者ヴィクター・ケリッジ)

 

大戦半ば、戦場で消費する砲弾は1日40万発に達し、大戦を通じて14億発が発射されました。

 

国家の生産力はすでに限界に近付いていました。それでも、西部戦線の膠着を打開することは出来ませんでした。

 

砂漠の英雄?裏切りの英雄?ロレンス

イギリスは密かに新たな戦術に活路を求めました。謀略戦です。

 

1916年、イギリスはドイツの同盟国オスマン帝国を狙って破壊工作を仕掛けました。その作戦から一人の英雄の伝説が誕生しました。

 

オスマン帝国は、ドイツと軍事同盟を結び第一次世界大戦に参戦していました。600年の歴史を持ちヨーロッパからアジアにかけて広大な領土を持つオスマン帝国ですが、たびたびの戦争で衰退し「瀕死の病人」と呼ばれていました。

 

当時、オスマン帝国の人口は1800万人。トルコ人とアラブ人が7割をしめクルド人、ユダヤ人など少数民族も暮らす他民族国家を形成していました。

 

イギリスはアラブ民族の独立運動に目をつけました。その動きをたきつけ、内部からオスマン帝国を倒そうと企てたのです。狙いはオスマン帝国領内で次々と見つかる大規模な油田でした。

 

イギリスは、アラブの有力者と密かに接触。予言者ムハンマドの血を引くフセインと、その御曹司ファイサルです。任務に当たったのはトーマス・エドワード・ロレンス。ファイサルに武器と資金を提供し、オスマン帝国打倒を持ち掛けました。イギリス人でありながらアラブ文化への理解が深く、言葉も自在に操るロレンスにファイサルは大きな信頼をおきました。

 

アラビアのロレンス

 

イギリスはファイサルに、オスマン帝国を倒したあかつきにアラブの独立国を作ると約束。約束を信じたファイサルは反乱軍を組織しました。

 

オスマン帝国に勝利するためにはアラブ人の情熱が絶対に必要だった。だから私はイギリスは絶対に約束を守ると断言した。私の言葉はアラブ人を勇気づけた。

(ロレンス「知恵の七柱」より)

 

反乱軍は、巧みなゲリラ戦法でオスマン軍に打撃を与えました。

 

ロレンスの名を世界に轟かせるきっかけを作ったのは、アメリカの映画プロデューサーであるローウェル・トーマスです。連合軍から依頼され、プロパガンダ映像の製作をうけおっていたトーマスは撮影中にロレンスと出会いました。

 

アラブ服を着たロレンスに偶然出会ったときピンときましたね。この男は並外れた魅力を持っている。

(ローウェル・トーマス)

 

トーマスはロレンスを砂漠の英雄にしたて冒険物語を作り、ロレンスは一躍世界的なヒーローとなりました。その後、イギリスの大作映画にもなった砂漠の英雄ロレンスですが、アラブの民から見れば裏切りの英雄でした。

 

実は、イギリスはアラブ建国を約束する裏でフランスと密約を交わし、戦後オスマン帝国の領土を分け合うことを企てていました。もちろんその交渉はアラブ人には一切秘密にされていました。しかも、イギリスはこの地にユダヤ人にも国を作る約束をしていたのです。

 

ロレンスは、イギリスの真の目的を隠しながらアラブを助けていたのです。イギリスが乱発した欺瞞に満ちた約束は、今に至る悲劇の出発点となりました

 

アメリカへの情報戦

イギリスはアメリカにも情報戦を仕掛けていました。狙いは中立国アメリカを戦争に巻き込むこと

 

そのためにイギリスはウォール街の金融機関を味方につけ、イギリスの軍需物資の8割を調達し、アメリカの軍需工場で兵器を生産させました。もし、イギリスが負ければ大損害を被ります。アメリカの参戦に向けてウォール街とイギリスの利害が一致したのです。

 

ウィルソン大統領は公には国民に中立を約束していましたが、翌年ウォール街の圧力に屈することになりました。

 

1917 革命

ドイツも謀略戦を展開していました。1917年ドイツの手厚い支援を受けて革命家ウラジーミル・ウリヤノフがドイツに向かいました。革命家としての名前はレーニンです。

 

 

レーニンは、1905年にロシア皇帝の反乱に参加。その後、秘密警察におわれスイスで亡命生活を送っていました。ドイツはレーニンをロシアに帰国させるため専用列車まで用意。ドイツの狙いは敵国ロシアを内部から突き崩すことでした。

 

ロシアがドイツやオーストリアと戦う東部戦線で、ロシア軍は絶望的な戦いを続けていました。武器も食糧も底をついていました。戦争への怒りが頂点に達し、100万の兵士が脱走。ロシア軍は崩壊しました。

 

首都ペトログラードの女性が食糧難に抗議。軍の逃亡者や労働者が合流し、革命に発展しました。民衆は300年続いたロマノフ王朝を打倒し、臨時政府が開かれました。教会に隠れていた皇帝はシベリアに幽閉されました。

 

ドイツ軍に守られペトログラードに到着したレーニンは、兵士を組織し事実上のクーデターで出来たばかりの臨時政府を倒しました。そして、史上初めての共産主義国家ソビエトが誕生しました。

 

ロシアでは史上初めて労働者と農民によるソビエト(評議会)が組織された。このソビエトがすべての国家権力を握ったのだ。

(レーニン)

 

ソビエト革命政府はドイツに全面降伏し、ドイツの思惑通りの結果になりました。

 

我々の支援と潤沢な資金がなければ、印刷機さえ持たなかった貧しいボリシェビキ(共産党)が大規模なプロパガンダを駆使して支持を拡大することなど絶対にできなかったでしょう。

(ドイツ外交官キュールマンの報告)

 

東部戦線が終結し、ドイツは兵力を西部戦線に集結させ決戦の時に備えました。

 

連合軍は破産寸前の危機を迎えていました。イギリスの戦費は、通常の国家予算の6倍を超え、中立国アメリカは参戦を決断しました。もし連合軍が敗北すれば、莫大な貸付金を回収できなくなるからです。大統領は、ウォール街の圧力に抗しきれなかったのです。

 

6月、アメリカ兵がヨーロッパ戦線へ向かいました。大戦終了までに200万の兵が派遣されました。連合軍は勝利に向けて大きな一歩を踏み出しました。

 

ロシア内戦

大戦を離脱したロシアでしたが、戦いは終わりませんでした。ロマノフ王朝の残党を中心とする反革命軍が共産党ボリシェビキの赤軍を攻撃したのです。そして、反革命軍がボリシェビキ以上に標的にしたのがユダヤ人です。社会変革を望むユダヤ人にボリシェビキの支持者が多く、ユダヤ人というだけでボリシェビキの手先と見なされました。

 

わが軍の志願兵の多くが喜々として面白半分の殺戮に熱狂している。もはや誰も残虐行為をやめさせることができない。

(反革命軍 将軍の日記より)

 

ロシアには19世紀以来、世界で最も多い700万人のユダヤ人が暮らしていました。2000年前に国家を失ったユダヤ人は、世界各地に散り散りとなりながらも信仰を守りコミュニティを作ってきました。しかし、社会に混乱が生じる時、しばしば憎悪は異教徒であるユダヤ人に向けられました。

 

ロシア革命の混乱も例外ではなかったのです。この時、10万人を超えるユダヤ人が虐殺されたと言われています。虐殺を免れたユダヤ人はロシアから脱出し、アメリカとパレスチナで強力なユダヤ人社会を建設することになりました。

 

1918 急転回

5年続いた戦争は、ようやく終わりを迎えようとしていました。

 

西部戦線ではアメリカ軍が快進撃が始まりました。アメリカの資金で量産された600台の戦車、800の爆撃機にドイツ軍は壊滅的な打撃を受けました。

 

連合国による裏切り

10月、ドイツの同盟国オスマン帝国が降伏。最大の軍事拠点ダマスカスが陥落。ファイサルはアラブ民族の独立を宣言しました。

 

ファイサルが入城した時、ダマスカスの興奮は最高潮に達した。アラブ人が長年夢見てきた自由がついに実現したように思えた。

(アラブ人の歴史家ジョージ・アントニウス「アラブの目覚め」より)

 

協力の見返りに独立を約束していたイギリスですが、イギリスのアレンビー将軍はその約束は果たせないことを初めてファイサルに伝えました。

 

二人の通訳したのは私であった。ファイサルが帰ったあと私はアレンビー将軍に申し出た。「もうこの仕事から身を引きたい」私の心はもはや萎えていた。

(ロレンス)

 

大戦が終わるとアラブへの攻撃が始まりました。それは、大戦中は同じ陣営にいたフランスによる容赦ない空爆でした。アラブの独立は幻に終わったのです。

 

ファイサルは、連合国から利用された末に見捨てられました。そして、アラブ人をさらなる裏切りが待っていました。

 

大戦後、パレスチナを統治したイギリス。パレスチナの住人の9割はアラブ人でしたが、イギリスは大戦中この地にユダヤ人の国を作ることを約束していました。ロスチャイルドなどユダヤの資本家を味方につけるためでした。ロシアでの大量虐殺から逃れてくる人々など、世界中からユダヤ人がパレスチナを目指しました。

 

アラブ人が一度は独立を夢見た土地に、ユダヤ人が根をおろしたのが後のイスラエルです。21世紀の今も続く憎悪の連鎖はここから始まったのです

 

1918年11月11日、ついにドイツが降伏しました。勝利者はその後の世界をめぐる画策を始めました。

 

1919 火種

アメリカのウィルソン大統領は、パリの講和会議へ向かいました。「勝利なき平和」という理想を掲げ、敗戦国に多額の賠償金を課すことに強く反対しました。

 

多額の賠償金

しかし、ウィルソンの理想は英仏の反対によって阻まれました。ウィルソンに代わって賠償委員会で指導力を発揮したのはモルガン商会のトーマス・ラモントでした。そして、イギリスに貸し付けた莫大な戦費の回収を重視した賠償案をまとめました。

 

ドイツに課せられた賠償金は、1320億金マルク。ドイツの国家予算の20年分にあたる額でした。イギリスの代表の一員だった経済学者ジョン・メイナード・ケインズは、巨額の賠償案に抗議して辞任。ウィルソンを厳しく批判しました。

 

大統領は合衆国の財力にものをいわせてすばらしい成果を生み出すこともできたはずだ。しかし、大統領は動かない。取り巻きはウォール街の実業家ばかり。彼らはヨーロッパについては何も知らず公の問題を議論する経験もない。

(ケインズ「平和の経済的帰結」より)

 

条約を知ったドイツ人は憤激しました。この年、ミュンヘンで講和条約に反対する政治団体が生まれました。そこに参加したのがアドルフ・ヒトラーです。

 

戦争を指揮していたドイツ皇帝ウィルヘルム2世はオランダに亡命しました。

 

民衆が支配者である皇帝を裏切りこんな仕打ちをするなど世界史上例がない。神の恐ろしい罰がドイツに下るであろう。

(ウィルヘルム2世の言葉)

 

ソ連 恐怖政治

1924年、ロシア革命を成し遂げたレーニンが死去。革命のカリスマ、レーニンは恐怖政治の創始者でもありました。

 

レーニンは強制労働収容所を建設し、地主やブルジョア、党に従わない人物8万人を84か所の収容所に送り込んでいました。

 

さらに、秘密警察チェカー(KGBの前身)を創設。ポーランド出身の狂信的共産主義者ジェルジンスキーを長官に任命。チェカーはレーニンの時代に20万人以上を処刑。これが世界初の共産主義革命の内実でした。

 

砂漠の英雄のその後

砂漠の英雄にまつりあげられていたロレンスは大戦後、オートバイの事故で亡くなりました。アラブを裏切り激しい罪悪感に苦しんだロレンスは、戦後は名前を変え、しばしば行方をくらましていました。

 

戦争が終わればアラブ人に対する約束など反故同然の紙切れになってしまうことは私にはわかっていた。私のお芝居は英国やアメリカで称賛され、大衆受けするロマンあふれる物語が創作されたが、私自身はどうにもならないほど激しい恥辱に苛まれ極度の自己嫌悪にとりつかれた。

(ロレンス「知恵の七柱」より)

 

大戦直後のヨーロッパを皇太子・裕仁親王、後の昭和天皇が訪れていました。その時の印象を書き留めています。

 

破壊せられたる諸都市、荒廃したる諸森林、蹂躙せられたる田野の景は戦争を賛美し暴力を謳歌する者の眼には如何に映ず可きか。是等は深く予の心を傷ましめたり。

(「昭和天皇実録」より)

 

世界大戦を予言した作家H・G・ウェルズは、この戦争が「あらゆる戦争を終わらせる戦争になり、その後世界に平和が訪れる」と語りました。しかし、大戦によって世界中に紛争が広がり難民が溢れ、憎悪が渦巻きました。

 

多くの国家が来るべき戦争に備え、子供たちの間では戦争ごっこが流行っていました。後に子供たちの多くが本当の戦争を戦うことになりました。

 

第一次世界大戦の終結は、単なる長い休戦にすぎなかったのです。21年後、世界は再び地獄の炎に包まれることになりました。

 

「NHKスペシャル」
新・映像の世紀で第1集「百年の悲劇はここから始まった」

 

新・映像の世紀
第1集「百年の悲劇はここから始まった」
第2集「グレートファミリー新たな支配者
第3集「時代は独裁者を求めた
第4集「世界は秘密と嘘に覆われた
第5集「若者の反乱が世界に連鎖した
第6集「あなたのワンカットが世界を変える
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