インパール作戦|NHKスペシャル

NHK総合テレビの「NHKスペシャル」で戦慄の記録 インパールが放送されました。

 

今から73年前、日本軍はインドとミャンマーの国境地帯にある川幅600メートルにも及ぶ大河と2000メートル級の山々が連なる険しい山岳地帯を越え470キロを行軍するという前代未聞の作戦を決行しました。目指したのはインド北東部の街インパール。しかし、誰一人インパールにはたどり着けず約3万人が命を落としました。太平洋戦争で最も無謀と言われた「インパール作戦」です。

 

日本と戦ったイギリス軍が撮影した10時間を超えるフィルムが残されています。3週間という短期決戦を目論んだ作戦は数か月に及びました。補給を度外視したため兵士は密林の中で飢え、病に倒れていきました。兵士が戦いを強いられたのは世界一と言われる豪雨地帯。飢えた兵士たちが行き倒れた道は「白骨街道」と呼ばれました。敗走した兵士たちは濁流の大河を渡れぬまま命を落としていきました。戦場の現実を無視して作戦を強行した陸軍の上層部は、戦後もその責任に向き合おうとしませんでした。

 

戦死者3万人 無謀な作戦の結末

作戦は1944年3月に始まり、3週間でインパールを攻略する計画でした。しかし、日本軍はイギリス軍の猛攻の前にインパールに到達することさえできませんでした。多くの戦死者を出し、作戦が中止されたのは開始から4か月後のことでした。作戦中止後の死者はほとんどが病死や餓死でした。撤退は中止から半年が経った1944年12月になっても完了しませんでした。戦死した兵士のうち実に6割が作戦中止後の撤退中に亡くなるという無残な戦いでした。

 

牟田口司令官 残された肉声

陸軍史上類を見ないインパール作戦を決行したのは牟田口廉也(むだぐちれんや)中将でした。日中戦争のきっかけとなった1937年の盧溝橋事件では連隊長として戦闘を指揮するなど強気の作戦指導で知られていました。終戦から20年が経った1965年、牟田口中将がインパール作戦について語った肉声が残されています。

「私の作戦発起の動機は『大東亜戦争に勝ちたい』という一念にほかなりません。戦争全般の形勢が各方面とも不振である当時の形勢に鑑み作戦指導如何によっては戦争全局面を好転させたいとの念願をもっていたからである」

 

陸軍上層部 責任なき戦争認可

インパール作戦は極めて曖昧な意思決定をもとに進められた計画でした。ことの始まりは1942年1月、日本軍はイギリス領ビルマに侵攻し全土を制圧。イギリス軍はインドに敗走しました。勝利の余勢をかって大本営はインド侵攻を検討するも、すぐに保留にしました。しかし、戦況の悪化が再び計画を浮上させました。1943年に入ると、太平洋でアメリカ軍に連敗。その後、戦線は急速に後退していきました。そのころ、アジアでも態勢を立て直したイギリス軍がビルマ奪還を目指して作戦に出ていました。1943年3月、大本営はビルマ防衛をかためるためにビルマ方面軍を新設。河辺正三(かわべまさかず)中将が司令官に就任しました。着任前、河辺司令官は首相の東條英機(とうじょうひでき)大将と会っていました。2人は陸軍大学校で同期の仲でした。

「今ガ島(ガダルカナル)その他みんな落ち目になっているから、せめてビルマで一旗揚げてくれというようなことを言われたんですよ。それでそのことが頭に来ていて(インパール作戦を)出来たらやりたいと」(ビルマ方面軍 片倉衷 高級参謀)

同じ時期、牟田口中将がビルマ方面軍第15軍司令官に昇進。インパールへの侵攻を強硬に主張しました。

「これは大本営の希望だったということを牟田口さんは耳にしたわけですね。何としてでも大本営のご希望に沿うようにやってみようと。それがもう牟田口さんが何としてもやりたいと。」(ビルマ方面軍 後勝 参謀)

軍の上層部が作戦に前のめりになる中で、反対意見はことごとく退けられていきました。小畑信良(おばたのぶよし)参謀長は強硬に作戦に反対しました。小畑参謀長は陸軍の中でも数少ない兵站の専門家でした。兵站とは前線の部隊に食糧や弾薬を補給する任務のことです。小畑参謀長は兵站の観点から作戦は実施すべきではないと牟田口司令官に進言。しかし、牟田口司令官から消極的だと叱責され、就任から1か月半で更迭されたのです。牟田口司令官が作戦を遂行するために頼ったのがビルマ方面軍の河辺司令官でした。2人は盧溝橋事件のさいに上司と部下の間柄でした。東條首相の意も受けていた河辺司令官は作戦を認可。南方軍の寺内総司令官も同調していきました。しかし、このころ大本営ではビルマ防衛に徹するべきだとして作戦実行に消極的な声も多くなっていました。大本営の杉山元参謀総長が作戦を最終的に認可した理由が作戦部長の手記に書き残されていました。

「杉山総長がが『寺内さんの最初の所望なので、なんとかしてやってくれ』と切に私に翻意を促された。結局、杉山総長の人情論に負けたのだ。」(眞田穣一郎少将手記より)

そして1944年1月7日、インパール作戦は認可されました。冷静な分析よりも組織内の人間関係が優先されたのです。

 

度外視された兵站 強行された短期決戦

牟田口司令官はメイミョーに第15軍の司令部を置きました。1944年2月、作戦開始の1か月前に23歳の齋藤博圀(さいとうひろくに)少尉が配属されました。

「牟田口中将は平生、盧溝橋は私が始めた。大東亜戦争は私が結末をつけるのが私の責任だ。と将校官舎の昼食時によく訓示されました。」(齋藤博圀少尉の回想録より)

「経理部長さえも『補給はまったく不可能』と明言しましたが全員が大声で『卑怯者、大和魂はあるのか』と怒鳴りつけ従うしかない状況だった。」(齋藤博圀少尉の回想録より)

インパール作戦は雨期の到来を避けるために3週間の短期決戦を想定していました。第15軍に編成された3つの師団を中心に9万の将兵によって実行されました。南から第33師団、中央から第15師団がインパールへ。北の第31師団はインパールを孤立させるため北部のコヒマの攻略を目指しました。大河と山を越え最大470キロを踏破する前例のない作戦でした。短期決戦をきした日本兵は3週間分の食糧しか持たされていませんでした。牟田口司令官は荷物の運搬と食用のために牛を集めさせました。さらに、敵から食糧や武器を奪えと命令したのです。

「食糧そのものが歩いてくれるのが欲しいと思いまして私、各師団に一万頭ずつ羊とヤギと牛を携行させてやったのでございます。補給が至難なる作戦においては特に糧秣、弾薬、兵器等いわゆる敵の糧によるが絶対に必要である。放胆なる作戦であればあるほど危険はつきものである。」(牟田口司令官 音声テープより)

1944年3月8日、インパール作戦が開始されました。兵士たちの前に川幅最長600メートルに及ぶチンドウィン河が立ちはだかりました。イギリス軍の空襲を避けるために渡河は夜間に行われました。集めた牛は半数が流されたと言います。河を渡った兵士たちの目の前にあるのはアラカン山系でした。車が走れる道はほとんどないためトラックや大砲は解体して持ち運ぶしかありませんでした。大河を渡り、山岳地帯の道なき道を進む兵士たち。戦いを前に消耗していきました。

 

消耗する兵士たち 軽視されていく命

作戦開始から2週間、インパールまで直線距離110キロの辺りで日本軍とイギリス軍の最初の大規模な戦闘が起きました。南からインパールを目指した第33師団です。イギリス軍の戦車砲や機関銃を浴び、1000人以上の死傷者を出す大敗北をきっしました。第33師団の師団長・柳田元三(やなぎだげんぞう)中将は、インパールを3週間で攻略するのは不可能だとして牟田口司令官に作戦の変更を強く進言しました。牟田口司令官のもとには、他の師団からも作戦の変更を求める訴えが相次ぎました。司令部にはいつも牟田口司令官の怒号が響いていたと言います。

「師団長と牟田口司令官とのけんかのやりとりが続いた。司令官は『善処しろとは何事かバカヤロウ』の応答だった。」(齋藤博圀少尉の回想録より)

「牟田口司令官から作戦参謀に『どのくらいの損害が出るか』と質問があり『ハイ5000人殺せばとれると思います』と返事。最初は敵を5000人殺すのかと思った。それは味方の師団で5000人の損害が出るということだった。まるで虫けらでも殺すみたいに隷下部隊の損害を表現する。参謀部の将校から『何千人殺せばどこがとれる』という言葉をよく耳にした。」(齋藤博圀少尉の回想録より)

 

発見された機密資料 牟田口司令官の思惑

終戦直後、連合軍はインパール作戦に関わった日本軍の指導者からその内実を密かに聞き取っていました。その対象は司令官など17人に及んでいました。北から侵攻した第31師団、1万7000人がイギリス軍側と激突したコヒマの戦いについての牟田口司令官の調書が残されています。

「インド国内の連合軍の軍事力に関して一定の情報を収集していたが得られた正確な数字を覚えていない。コヒマを取ることによってインパールの敵軍に圧力をかけられ、その攻略ができると考えていた。」

作戦開始から3週間、第31師団がコヒマに到達しました。しかし、イギリス軍の戦力は太平洋戦争の初戦でビルマから敗走した時から一変していました。短期決戦をきした日本軍に対し、イギリス軍は航空機による補給で持久戦に持ち込む作戦を周到に立てていました。武器や食糧、医薬品など一日250トンもの物資を前線に投下できる体制を整えていたのです。

コヒマに攻め込んだ第31師団の師団長・佐藤幸徳(さとうこうとく)中将は、コヒマにいたった時点で戦闘を継続するのが難しい状態だったと証言しています。

「コヒマに到着するまでに補給された食糧はほとんど消費していた。後方から補給物資が届くことはなく、コヒマの周辺の食糧情勢は絶望的になった。」(佐藤幸徳師団長の調書より)

 

死者3000人 コヒマの戦い 挫折した短期決戦

3週間で攻略するはずだったコヒマでの戦闘は2か月間続き、死者は3000人を超えました。

「私は40人を殺しました。大げさに言っているわけではありません。我々には極めて強力な武器がありました。」(イギリス 第14軍 第2師団 元一等兵 ジョン・スキーンさん)

「これ(突撃)に失敗するとそこで死ぬ。お前ここから登ってあそこへ爆弾投げてこい。その中から俺は生き残った。一番悪の方だ。」(第31師団 第58連隊元少尉 平山良映さん)

武器、弾薬が不足する中で兵士が命じられたのは肉薄攻撃。爆薬を抱えたまま敵の戦車に飛び込むという命がけの攻撃でした。

「肉薄攻撃隊というのは行けというたら死ぬのがわかっとって行くんですけんな。もう9.9分まで死ぬのが分かっとって行けと言ったらもうこれは行かないかんわけです。」(第31師団 元上等兵 山田直夫さん)

山田さんが突撃する直前で命令は中止されました。先に肉薄攻撃をした10人の戦友は全員命を落としました。

 

最高統帥機関・大本営 覆い隠された戦場の現実

大本営は戦場の現実を顧みることなく、一度始めた作戦の継続に固執していました。

「報告を開始した秦中将は『インパール作戦が成功する公算は極めて低い』と語った。東條大将は即座に彼の発言を制止し話題を変えた。わずかにしらけた空気が会議室内に流れた。秦中将は報告を半分ほどで終えた。」(西浦進大佐の証言より)

 

遥かなるインパール 総突撃の果てに…

作戦開始から2か月が経過した1944年5月中旬。牟田口司令官は苦戦の原因は現場の指揮官にあるとして3人の師団長を次々と更迭。作戦中に全ての師団長を更迭するという異常な事態でした。牟田口司令官は国境近くに司令部を移しました。

「私たちの朝は道路上の兵隊の死体仕分けから始まります。司令部では毎朝牟田口司令官の戦勝祈願の祝詞から始まります。『インパールを落とさせ賜え』の神がかりでした。」(齋藤博圀少尉の回想録より)

さらに、牟田口司令官は自ら最前線に赴きました。南からインパールを目指した第33師団で陣頭指揮をとったのです。しかし、牟田口司令官の作戦指導はイギリス軍の思惑通りでした。

「我々は日本軍の補給線が脆弱になったところでたたくと決めていた。敵が雨期までにインパールを占拠できなければ補給物資を一切得られなくなることは計算し尽くしていた」(イギリス軍ウィリアム・スリム司令官の証言より)

作戦開始から2か月、日本軍に戦える力はほとんど残されていませんでした。牟田口司令官は残存兵力を集め100メートルでも前に進めと総突撃を指示し続けました。武器も弾薬もない中で追い立てられた兵士たち。1週間あまりで少なくとも800人が命を落としました。

 

遅れた作戦中止 判断を避けた司令官たち

1944年6月、インド・ビルマ国境地帯は雨期に入っていました。この地方の降水量は世界一と言われています。作戦開始から3か月で1万人近くが命を落としていたとみられます。司令官たちはそれでも作戦中止を判断しませんでした。6月5日、牟田口司令官のもとに河辺司令官が訪れました。お互い作戦の続行は厳しいと感じながら、その場しのぎの会話に終始しました。

「私は作戦が成功するかどうかは疑わしいと包み隠さず報告したいという突然の衝動を覚えたが私の良識がそのような重大な報告をしようとする私自身を制止した」
「私たちは互いに胸の内を伝えず作戦の成功へ向かうために必死に努力するよう励まし合った。なぜならば任務の遂行が軍の絶対原理だったからである」(連合軍の調書より)

大本営が作戦中止をようやく決定したのは7月1日。開始から4か月が経っていました。インパール作戦の悲劇は作戦中止後にむしろ深まっていきました。戦死者の6割が作戦中止後に命を落としていたのです。

 

追撃 飢え 疫病… 地獄の撤退戦

第33師団は激しい雨の中、敵の攻撃にさらされながらの撤退を余儀なくなれました。チンドウィン河を越える400キロもの撤退路。イギリス軍の追撃はその間執拗に続きました。兵士は次々に倒れ、日本兵の死体が積み重なっていきました。

「数えきれないほどの日本兵が自殺を図って崖へ飛び込み死んでいきました。あのたくさんの遺体は長い間放置されたに違いありません。」(マルコム・コノリーさん)

自らの運命を呪った兵士たちは撤退路を「白骨街道」と呼びました。雨が遺体の腐敗を進め、10日間程で骨にしたと言います。

作戦中止後、牟田口司令官は兵士たちに先駆けて現場を離脱。そして、その任を解かれ帰国しました。は齋藤博圀少尉は前線でマラリアにかかり置き去りにされました。

「密林中に雨は止まぬ。喘ぎ喘ぎ十メートル歩いては休む。二十メートル行っては転がるように座る。道端の死体が俺の行く末を暗示する。」(齋藤博圀少尉の日誌より)

雨期の到来後、マラリアや赤痢などが一気に広がり病死が増えていきました。死者の半数は戦闘ではなく病気や飢えで命を奪われていたのです。

一方、コヒマの攻略に失敗した第31師団は後方の村に食糧の補給地点があると信じ、急峻な山道を撤退しました。しかし、ようやく辿り着いた村に食糧はありませんでした。

「7月26日、死ねば往来する兵がすぐ裸にして一切の装具を褌にしたるまではいで持っていってしまう。修羅場である。生きんがためには行軍同士もない。死体さえも食えば腹がはるんだと兵が言う。野戦患者収容所では足手まといとなる患者全員に最後の乾パン一食分と小銃弾、手りゅう弾を与え七百余名を自決せしめ死ねぬ将兵は勤務員にて殺したりきという。私も恥ずかしくない死に方をしよう。」(齋藤博圀少尉の回想録より)

 

 

太平洋戦争で最も無謀とも言われるインパール作戦の戦死者は約3万。傷病者は4万とも言われています。この事実と軍の上層部は戦後どう向き合ったのでしょうか。牟田口司令官が残していた回想録には「インパール作戦は上司の指示だった」と綴られていました。

一方、インパール作戦を認可した大陸指には大本営上級幹部の数々の押印があります。

「インド進攻という点では大本営はどの時点であれ一度もいかなる計画も立案したことはない。インパール作戦は大本営が担うべき責任というよりも南方軍ビルマ方面軍そして第15軍の責任範囲の拡大である」(大本営作戦課長 服部卓四郎大佐 イギリスの調書より)

インド国境で戦ったイギリス軍アーサー・バーカー中佐と牟田口司令官は晩年、手紙をやり取りしていました。牟田口司令官はバーカー中佐が自らの作戦を評価してくれていると感じました。70歳を過ぎた牟田口司令官は国会図書館に赴き、作戦の正当性を記録に残しました。

「終戦後19年間、私は苦しみ抜いて日本国内で『牟田口の馬鹿野郎馬鹿野郎』とすべての雑誌でも戦記ものでも叩かれておったんですが、私は神様のお告げではないかというぐらいにこのバーカーの手紙を喜びました。私ども戦争当事者としてとった作戦の方針ならびに指導なりが時宜に的中していたことは事実に徴して証拠立てられた場合その喜びはいかなるものであるかをお察し願いたい。」(牟田口司令官 音声テープより)

1966年、牟田口廉也司令官は77歳で亡くなりました。

齋藤博圀少尉は敗戦後、連合軍の捕虜となり1946年に帰国しました。その後、結婚し家族に恵まれましたが戦争について語ることはありませんでした。

「日本の軍人がこれだけ死ねば(陣地が)とれる。自分たちが計画した戦が成功した。日本の軍隊の上層部が。悔しいけれど兵隊に対する考えはそんなもんです。知っちゃったら辛いです。」(齋藤博圀さん)

「生き残りたる悲しみは死んでいった者への哀悼以上に深く寂しい。国家の指導者層の理念に疑いを抱く。望みなき戦を戦う。世にこれほどの悲惨事があろうか。」




コメント

  1. 齋藤博圀さんは将校が殆ど死なずに兵士や軍属だけが死んだことを言っていましたが

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。コメントは管理人の承認後に表示されますのでしばらくお待ち下さい(スパム対策)