被爆二世たちの戦後|NHKスペシャル

1945年8月6日、アメリカは広島に原子爆弾を投下。強烈な熱線と爆風。放射線が人々を襲いました。その年だけで14万人が亡くなったとされています。

一般の人々に向けて初めて使われた核兵器。生き残った人たちに放射線はどのような影響を及ぼすのか、アメリカは強い関心を持っていました。

さらに、被爆者だけでなくその子供も追跡調査。助産師たちを通じて、広島で産まれたほぼ全ての新生児の情報を入手していました。

上野勢以子さんは、ボランティアで広島平和公園のガイドを続けています。上野さんは、原爆投下の12年後に生まれた被爆二世です。母は爆心地の近くで被爆しました。しかし、どのような体験をしたのか、詳しく語ることはありませんでした。

母・和子さんが被爆したのは12歳の時でした。近くにいた多くの人が亡くなる中で、奇跡的に大きなケガもなく助かりました。そして22年前、64歳で亡くなりました。晩年は心筋梗塞を繰り返していました。

原爆の子の像

平和公園の原爆の子の像。モデルとなった佐々木禎子さんは2歳の時に被爆しました。大きなケガも火傷もなく元気に過ごしていましたが、白血病を発症し12歳で亡くなりました。

被爆から25年が過ぎた頃から被爆者たちにがんが多発するようになりました。

ABCCの調査

和子さんは30年近く、ABCC(原爆傷害調査委員会)の調査を受け続けていました。戦後、アメリカが被爆地に設置した調査機関です。

世界中のどこを探しても日本のほかに研究可能な放射線を浴びた人の集団はありません。選ばれし人間のサンプルなのです。

(アメリカのテレビ番組より)

1947年、ABCCは広島で被爆者たちの調査を開始しました。一人一人がどこでどのように被爆したのか、年月とともにどのような影響があらわれるのか。10万人近い被爆者を選び出し、生涯に渡る追跡調査を行ってきました。

ABCCが調査の対象にしたのは、直接被爆した人たちだけでなく、被爆者から産まれた子供の世代に何が起こるのかも強い関心を寄せていたのです。

被爆当時、まだ母親のお腹の中にいた体内被爆者は、小頭症知的障害を発症しやすいことが1950年代後半までに確認されました。

ABCCは親が被爆後に妊娠して生まれた子供たち、被爆二世にも調査の対象を広げていました。

突然変異は起こるのか?

調査を指揮したウィリアム・ジャック・シャル博士は、去年亡くなりました。生前、自らの研究について詳しく語った映像を残していました。

日本で調査を始めた当初、最も重要なテーマは「突然変異」が見つかるかでした。果たしてハエで確認されたことがヒトでも見られるのか大きな謎だったのです。

(ウィリアム・ジャック・シャル博士)

当時、世界中で注目されていたのがショウジョウバエに放射線を照射する実験です。オスを被爆させ交配。子供の世代に何らかの異常がみられるのか確認しました。すると、ごく一部に目の色が違ったり羽が小さかったりするなど突然変異が見つかりました。アメリカは被爆者の子供にも同じことが起きるのか確かめようとしていたのです。

ABCCはまず出産時の異常の有無を徹底的に調べていました。被爆したのは両親か、どちらか一方の親だけなのか、爆心地からどれ程の距離で被爆したのか。新生児一人一人について詳細な情報が集められました。

情報を集めるためにABCCが活用したのが地元の助産師たちでした。当時、ほとんどの出産は家庭で行われ、助産師たちが取り仕切っていました。そのネットワークをいかそうとしたのです。

出産の報告1件につき10円を支払います。

(助産師との会合の記録より)

さらに、異常があったことを確実に知らせてもらえるようボーナスも用意。条件を満たせば1件につき最高200円(今の1万1000円)が支払われていました。

こうして、1948年~1954年までに集められた情報は、新生児6万5431人分。そのうち異常出産は594人。割合は0.91%でした。

同じ頃に、東京赤十字病院で行われた調査では異常が0.92%でした。出産時に限れば被爆による影響は認められませんでした。

確かに言えるのは「突然変異」の爆発的な増加はなかったということです。当事者にとっては大変なことですが、あったとしてもわずかだったのです。

(ウィリアム・ジャック・シャル博士)

遺伝的な影響は見つからなかったとしたシャル博士。だからといって影響はないと結論づけることはできないと記していました。

被爆二世への調査

ABCCはさらに、健康に生まれた被爆二世にも調査を広げました。その時、新たに対象になった一人が上野勢以子さんです。上野さんが高校1年生の時でした。しかし、母・和子さんはABCCの依頼を拒絶しました。それでも、勢以子さんは調査を受けることにしました。

名越由樹さんの弟の史樹さんは、7歳の時に白血病で亡くなりました。その後、両親は史樹さんが亡くなるまでの2年7か月の闘病生活を絵本にしました。母・操さんは爆心地から2.3kmで被爆しました。史樹さんの死と被爆との因果関係は分かりません。ただ、自らを責め続けていました。

たかが10万人のうちの1人が2人になっただけのことではないかと言われるかもしれません。私は子供を亡くした親として数が少ないということで切り捨てることはできないのです。世の片隅に生きているただのひとりの被爆者の子供であるからといってどうでも良いということにはならないのです。

(操さんの手記より)

由樹さんは、3人の子供と7人の孫に恵まれました。それでも、新たな命の誕生を迎えるたび、言いようのない不安に襲われてきたと言います。

差別や偏見

上野さんが大学生の時、出会ったばかりの友人たちに自己紹介をした時のこと。被爆二世であることを告げると「それってうつらんのか?」と言われたそうです。

あっこいうことなんかと思った。意識したなかった今まで。汚いものを見るような感じで言われるというのがまだまだあるんだと思った。40年経っても忘れません。

(上野勢以子さん)

被爆二世の裁判

2017年、被爆二世の人たちは国を相手に初めての裁判を起こしました。原告は広島と長崎の被爆二世52人。因果関係は分からないものの、がんや脳梗塞などの病を抱えた人も含まれています。これに対して国は「現時点で遺伝的影響として明白に確認されたものはない」として訴えの棄却を求めています。

原告の一人の角田拓さんも、ABCCの調査に協力してきました。今のところ体に異常は見つかっていませんが、不安は常に感じています。

がんとか白血病で苦しんだという話はたくさん聞こえてくるわけですよ。僕も含めて過敏になっているのかもわかりませんが、健康問題にやはり常に気を遣うというか、そういったことに過敏になって絶えず何かを気にして生きていく二世の立場、そういうのがあるので。協力はしていきますけども、その辺と個人的な気持ちとはずれています。

(角田拓さん)

最新技術による被爆の影響の研究

放射線影響研究所は最新技術を活用した研究を進めています。

被爆者の身内の子供さんは結婚の差別があったりした。これをまた繰り返してはいかんのですよね。

(中村典博士)

中村博士たちは、最先端のDNA分析技術を使って遺伝的影響を探る実験を行っています。マウスのゲノムを網羅的に解析。放射線はDNAを切断する働きがあり、ゲノムの一部が欠ける欠失が世代を超えて受け継がれることがあります。

これまでの技術では一部の遺伝子しか解析できず1グレイ(約1000ミリシーベルト)の放射線を浴びると最大1匹のゲノムに1個の欠失が生じる計算でした。

爆心地から1キロ以内で被爆した人は1グレイ以上を浴びた人も少なくないため、不安につながっていました。

今回、技術の進歩によってゲノムの140万か所という圧倒的な数の解析が可能になりました。その結果、欠失が見つかる確率は100匹のマウスにつき1個に減少。これが人にも当てはまるのかこれから慎重に分析を進めることにしています。

生き延びた被爆者の多くは爆心地から1km以上離れた場所で被爆しているため、その影響はさらに小さくなるのではないかと中村博士はみています。

原爆被爆者の場合は、1グレイの被爆のような人は全体の数パーセントですね。放射線の量が少なければ影響も小さいのでなかなか検出するのは難しくなります。

(中村典博士)

被爆地に残された問いに答えるため、今も研究が続いています。

放射線影響研究所には、被爆者とその子供などの血液試料およそ5万本が半永久的に凍結保存されています。近い将来、この血液を使ってDNAのわずかな変化でも検出できる全ゲノム解析を始めたいとしています。

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広島 残された問い
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