第二次世界大戦は、それまでの戦争とは全く違うものでした。5000万とも6000万とも言われる犠牲者の数。参戦国は50か国以上、戦火は世界に広がりました。ジェット戦闘機、弾道ミサイル、原子爆弾など新型殺戮兵器が登場しました。
敵対する国家は、それぞれのイデオロギーをかかげました。民主主義、共産主義、そしてファシズム。巻き起こった憎悪と差別は、大量虐殺を引き起こしました。戦死者の大半が軍人だったそれまでの戦争とは違い、犠牲者の7割が一般市民でした。
そして、世界を覆った狂気の中心にいたのがアドルフ・ヒトラーでした。
アドルフ・ヒトラー
1923 そして独裁者が生まれた
1923年、ナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)を率いていたヒトラーは、クーデターに失敗しランツベルク刑務所に投獄されていました。
第一次世界大戦の敗戦国となったドイツは、多額の賠償金が払えず経済はどん底に落ちていました。国民は、天文学的な物価上昇に苦しんでいました。
獄中のヒトラーを支援していたのが、ドイツの名門音楽家ワーグナー一族です。後にワーグナー家の当主となるヴィニフレート・ワーグナーは、ヒトラーの演説を聞いて虜になりました。
第一次世界大戦後のインフレで全国民がいかに悲惨な状態にあったか思い浮かべねばなりません。そこに当時まったく無名だったヒトラーが現れました。そして新しい民族共同体によって私たちを救うと約束してくれました。彼の思想と理念にみんな感激してしまったのです。
アメリカにコンサートツアーに行ったヴィニフレート・ワーグナーは、自動車王ヘンリー・フォードにヒトラーへの資金援助を頼みました。
ヘンリー・フォード
反ユダヤ主義
フォードは、密かにナチスに活動資金を提供していたと言われ反ユダヤ主義者でした。当時アメリカでは反ユダヤ主義が広がっていました。ヨーロッパから流れ込む大量のユダヤ人移民に、多くのアメリカ人が仕事を奪われたと感じていたからです。
フォードが経営する新聞社は、反ユダヤ主義を掲げ訴えました。
世界の金融界を牛耳り共産主義を蔓延らせているのはユダヤ人だ。
フォードには大きな影響力がありました。フォードの名で出された本はベストセラーとなり、世界16か国語に翻訳されました。
私のインスピレーションの源はヘンリー・フォード氏だ。私たちが抱える社会問題の原因はユダヤ人にある。ユダヤ人の精神は拝金主義だが私たちドイツ人はそうではない。
(ヒトラーの新聞インタビューより)
そして獄中で生まれたのが「我が闘争」です。ヒトラーはこの中で2つの敵を定めました。ユダヤ人と共産主義です。
世界恐慌
1929年10月、アメリカのウォール街で株価が大暴落し世界恐慌が始まりました。最も深刻なダメージを受けたのが、敗戦から立ち上がりかけていたドイツでした。失業率は30%を超えていました。
刑期を終えたヒトラーは、恐慌をまたとないチャンスととらえ大規模な選挙活動を展開。議論ばかりで何も決められない民主主義に代わって、強力な独裁政治ファシズムこそがドイツを救うと訴えました。ナチスは選挙で急速に勢力を伸ばしていきました。
資本主義への幻滅
この頃、イタリアではファシスト政権が誕生。ファシスト党党首ベニート・ムッソリーニは、統制経済と植民地獲得で世界恐慌脱出を目指しました。
イタリア国民よ。いつの時代もどんな状況でも戦争があってこその平和だ。
(ベニート・ムッソリーニ)
その一方、世界恐慌とは無縁だったのが共産党が支配するソビエト連邦。ソ連は、計画経済に基づく重工業化と集団農業化を推し進め、順調な経済成長を誇っていました。
世界中で資本主義への幻滅が広がっていきました。ドイツでも、モスクワの支援を受けた共産党がナチスと並んで急速に勢力を伸ばしていました。街では、ナチスと共産党が連日のように暴動を起こし、お互い激しい憎悪で衝突し流血事件が繰り返されました。
共産主義かファシズムかという選択は、多くの人々にとってサタンか魔王かの選択と同じようなものである。ヒトラーの運動は絶望に駆られた1700万の人々によって勝利にまで追い上げられた。
(革命家レフ・トロツキー)
1933年1月30日、ヒトラー政権がついに誕生。他の保守政党との連立政権でした。政治家たちは、内心ではヒトラーを成り上がり者と見下していましたが、人気を利用して保守政権を維持しようともくろんでいました。
我々がヒトラーを首相にさせたのだ。2か月もすれば、あの小僧は隅に追いやってやる。奴はそこで歯ぎしりしているだろう。
(副首相 元中央党フランツ・フォン・パーペン)
政権発足から1か月後、国会議事堂が炎上。ヒトラーは共産主義者による陰謀と決めつけ、議会で勢力を伸ばしていた共産党の党員を次々と逮捕・拘留しました。
その後まもなく、ヒトラーは全権委任法の法案を国会に提出。内閣があらゆる法律を国会の採決なしに制定できる法案です。それはすなわち議会制民主主義の死を意味しました。
ナチスの議席は過半数に達しておらず、本来は通るはずのない法案でしたがヒトラーは暴力をちらつかせました。議会をナチスの親衛隊と突撃隊が取り囲み、野党には政治取引を持ち掛け、言葉巧みにナチスの陣営に取り込みました。
結局、社会民主党を除く全ての野党が賛成。ヒトラーは、民主主義のルールを犯すことなく独裁政権を誕生させたのです。
そして4か月後、ナチス以外の政党は禁止されました。全権を委任された内閣の決定は全て合法とされました。
強い指導者の誕生を知識人も歓迎し、20世紀最大の哲学者とも言われるマルティン・ハイデガーはナチスに入党しました。
ナチスの革命は我々ドイツ人の現存在の完全な変革をもたらしつつある。我が民族の精髄を守り、国家の奥底に秘められた力を高揚させるために犠牲をささげることができるよう諸君の勇気をたゆみなく養え。
(マルティン・ハイデガー)
1933 独裁者がふりまいた夢と恐怖
アウトバーンは、世界で初めて作られた本格的な高速道路ネットワークです。これは、ヒトラーが失業者対策を目的に建設したものです。政権発足後すぐにヒトラーは全長7000kmの建設を発表。工事は、あえて重機の使用を抑えて一人でも多く労働者の雇用を確保しました。
ヒトラーは、ドイツ国民に豊かさへの夢も与えました。首相就任直後、金持ちの象徴だった自動車を庶民でも持てるようにする国民車構想を掲げました。
設計を任されたのはフェルディナント・ポルシェ。後にスポーツカーメーカーとしてその名を遺す天才エンジニアです。国営会社が設立され、フォート社と肩を並べる世界最大級の自動車工場が建設されました。会社はフォルクスワーゲンと名付けられました。
ヒトラーは、国民生活の向上も掲げ週休2日、週40時間労働を全国の企業に求め、今でいうワークシェアリングを始めようとしました。大企業には社員食堂の設置を推進。様々な福利厚生施設も設けられました。
統計によると、ドイツの工業総生産は政権発足から5年で倍に。税収は3倍に伸びました。公共投資で景気回復をはかるという先進的な経済政策は大きな効果を上げ、ドイツはいち早く恐慌から抜け出していきました。
1934年に行われた国民投票では、ヒトラーは89.9%の支持を得ました。
暮らしは本当に上向いていった。ナチスと距離をとろうとする者や関わりたくないなんて思う者はもう一人もいなくなった。労働者たちはみな家を建てた。
(ドイツ国民の声)
1935年9月、国民の支持を盤石なものとしたヒトラーはナチス党大会でユダヤ人の公民権をはく奪し、ドイツ人との結婚を禁止するニュルンベルク法を発表しました。ヒトラーは、誇り高いドイツを堕落させた原因はユダヤ人であると考えたのです。この法律によって、ユダヤ人の選挙権は奪われました。
それ以前からユダヤ人は公職から追放され、ユダヤ人が経営する商店でのドイツ人の買い物は禁止されていました。最初は眉をひそめ疑問を感じていた市民も、奇跡的な経済成長を前にその気持ちは薄れ、迫害に加わる者も現れました。
数少ない反ナチ運動家の一人だったマルティン・ニーメラー。戦後、彼の言葉から詩が生まれました。
ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき
私は声をあげなかった
私は共産主義者ではなかったから
ナチスがユダヤ人を連行して行ったとき
私は声をあげなかった
私はユダヤ人ではなかったから
そしてナチスが私を攻撃したとき
私のために声を上げる者は誰一人残っていなかった
そして、ヒトラーは世界にも牙を向け始めました。
ヒトラーは、第一次世界大戦で敗れたドイツに課された軍隊の制限を一方的に破棄し、再軍備を始めました。再軍備宣言後、国防費は2倍以上に膨れ上がりました。
再軍備の目的は、第一次世界大戦で奪われた領土を取り戻し、東ヨーロッパに領土を拡大することでした。
ドイツ国民よ、他に選択肢があるだろうか。もはや我々は敗者に属さない。世界は裁くことはできないのだ。
(クルップ社でのヒトラーの演説)
奇跡の復興を成し遂げたヒトラーに、空の英雄チャールズ・リンドバーグは注目していました。
リンドバーグは再軍備によって誕生したドイツ空軍を何度も視察。その工業力に目をみはりました。
ドイツは他のどのヨーロッパの国よりも短期間で戦闘機を生産できる。さすがのアメリカが競争しても最初の数週間はドイツに勝てないかもしれない。ヒトラーはあらゆる点で狂信的だ。しかし、彼が成し遂げた成長はその狂信性なしには決して達成されなかったであろう。
(リンドバーグの手紙より)
ヒトラーの再軍備には多くのアメリカ企業も協力していました。ドイツ駐在のアメリカ大使は、ルーズベルト大統領にアメリカ企業の協力が行き過ぎていると懸念を伝えています。
現在100社を超えるアメリカ企業がここに子会社を構え、ドイツと協力関係を築いています。デュポン社は3つの提携会社を通してドイツの兵器ビジネスに携わっています。スタンダード石油は、ドイツが戦争に備えるために必要な合成ガソリンを生産し年間50万ドルを稼ぎだしています。ゼネラルモーターズ社とフォード社は、ドイツの子会社を通して莫大な事業を展開しています。これらのアメリカ企業が戦争の危険を増大させていると考えます。
(ルーズベルト大統領への書簡)
1937 近づく世界大戦の足音
日本も軍国主義が社会を覆い1937年12月、中国との戦争に突入。世界が日本の侵略行為と非難する中、ドイツは日本を支持していきました。
この前年、ドイツはソ連を仮想敵国と定めた軍事協定を日本と結んでいました。ここにイタリアが加わり、第二次世界大戦を共に戦う軍事同盟へと発展しました。
日本とドイツの交流は文化面にも及びました。「新しき土」は日独合作の映画で、原節子の初主演映画でした。ヒトラーをはじめ、ナチス幹部がドイツでの封切に出席しました。
1938年、日本に続きドイツも領土拡大の一歩を踏み出しました。オーストリア併合です。ドイツと同じ民族がほとんどを占めるオーストリア国民は、大ドイツ帝国の一部となることを熱狂的に歓迎しました。
ヒトラーは、さらなる領土拡大に突き進みました。チェコスロバキアに対し、ドイツ人が多く住むズデーテン地方の割譲を要求したのです。
ヨーロッパに緊張が走る中、ヒトラーとの交渉のためイギリス・フランス・イタリアの首脳がミュンヘンを訪れました。ヒトラーは、領土の要求はこれを最後にすると約束し、各国首脳はヒトラーの要求をのむことを決めました。
当時、首脳たちが恐れていたのはファシズムよりも共産主義の拡大でした。ヒトラーを、共産主義の防波堤に利用できるとイギリスの首相チェンバレンは考えていたのです。ところが、この目論見はあっけなく崩れ去りました。
ズデーテン地方を併合した半年後、ヒトラーはチェコスロバキア全土に進軍し、チェンバレンは激怒しました。
チェコスロバキアはいらないと断言したヒトラーはどこにいったのか。私に激しく訴えてきたあの時のヒトラーの固い決意は一体どこへいったのだ。我が国は戦争は野蛮だと信じるが、かかる挑戦に対しても無抵抗だと考えるのは大きな間違いである。
(チェンバレンの演説)
さらに、独ソ不可侵条約が締結されました。ヒトラーと共産主義、不倶戴天の敵同士が手を結んだのです。
オーストリアから亡命したユダヤ人の経営学者ピーター・ドラッカーは、4か月前にこう予言していました。
いかに独ソ戦の可能性を論じようとも、独ソ同盟の可能性のほうが悪夢として実現しつつある。今日は悪夢にすぎないことも明日には現実となる。あの二つの政権は理念的にも社会的にも似ているがゆえに手を結ぶのだ。
(ピーター・ドラッカー)
条約の締結から9日後、第二次世界大戦が始まりました。
1939 世界を覆う悪夢
1939年9月、ドイツ軍はポーランドに侵攻。さらに、デンマーク・ノルウェー・オランダ・ベルギー・フランスを一気呵成に占領。機動力をいかした電撃戦によって、一年たらずでヨーロッパの主要地域を支配下におきました。
フランス降伏の知らせを受け、ヒトラーは専用機に乗って自らパリに乗り込みました。
我々は早朝5時に到着した。ヒトラーがパリの街を人々が動き出す前に見たいと望んだからだ。無名戦士の墓、ルーブル美術館、エッフェル塔、オペラ座、ドーム教会を訪ねた。教会にあるナポレオンの墓に特に興味を示していた。
(ハンス・バウアの手記)
フランス降伏を見届けたヒトラーはベルリンへ凱旋。ナポレオンに匹敵する程のヨーロッパ制覇に、ドイツ国民は独裁者を熱狂的に迎え、歴史的な勝利を祝う祭典は次の日も続きました。国民はもう戦争は終わったという安堵感に包まれていました。
戦争の最初の影響は目に見えて繁栄したことだった。絹に足をなでられたことのなかったベルリンのメイドたちは、パリから送られてきた絹の靴下を毎日履き始めた。街角の小さな居酒屋にはフランス各地のワイン貯蔵庫からの酒がずらりと並び始めた。
(ベルリン市民の手記)
一方、パリでは多くの女性たちが生きるためにドイツ人に近づきました。占領下のフランスで、ドイツ人とフランス人女性の間に生まれた子供は10万人にのぼると言われています。
フランス人のファッションデザイナーであるココ・シャネルは、ドイツ軍諜報機関の高官の愛人となり、自らもドイツ軍の協力者となり諜報活動に携わりました。暗号名はウェストミンスター。
シャネルが生み出した香水は当時爆発的に売れていながら、利益の大半は共同経営者のユダヤ人の手に渡っていました。シャネルは「経営権を取り戻して欲しい」とナチス・ドイツに協力するフランス人の役人に訴えました。
自分で作った香水なのに私には不当に少ない利益しか与えられていません。私に対する理不尽な扱いを改善していただくことを望んでいます。
(シャネルが役人に宛てた手紙)
その頃、ナチスによるユダヤ人迫害は新しい段階に入っていました。ヒトラーは、ドイツ国内だけでなく占領した地域に住むユダヤ人から富も生活も奪いました。
その家族はまだ暗いうちにどこかに連れて行かれたの。彼らがひどい目にあうだろうということはみんな分かっていたし、もう帰ってくることはないと思っていたわ。
(ユダヤ人の移送を見ていた市民)
ナチスが彼らにどんなことをしたのか私たちは知りませんでしたが、時と共に漏れ伝わってきました。開戦から1年後にはみんな知っていました。
(ユダヤ人の移送を見ていた市民)
1940
アメリカの思惑
第二次世界大戦が始まってからアメリカは中立を保っていました。国民の8割以上がドイツとの戦争に反対し、ナチス支持者も大きな勢力になっていました。フォード社の元社員が設立した新ナチ団体は、反ユダヤ主義とアメリカの中立を訴えていました。
ドイツ支持の先頭に立ったのは、ヒトラーを高く評価する空の英雄チャールズ・リンドバーグでした。時期大統領候補とまで言われたリンドバーグの発言は、アメリカ世論に大きな影響を与えました。
この戦争が終わったあとヨーロッパとどんな関係を築いていくかを考えるべきです。近い将来、アメリカが向き合うのはドイツが率いるヨーロッパかもしれません。
(チャールズ・リンドバーグ)
そして、アメリカ経済界にとってドイツは世界有数の投資先でした。アメリカとドイツが戦争になれば、膨大な投資が回収できなくなります。しかも、ヨーロッパの戦局はドイツに有利で、多くの企業がドイツとの取引を続けていました。
ドイツにあるフォード社の子会社は、ドイツ軍の軍用トラックの4分の1を製造。ヘンリー・フォードは、75歳の誕生日にナチス・ドイツから勲章まで授与されています。
そして、ナチスのユダヤ人迫害に使われたのはアメリカ企業IBMが開発したパンチカードシステムでした。これが、大量のユダヤ人の効率的な管理・移送を可能にしました。IBMの子会社によってナチスに数千台のマシーンが販売され、毎年15億枚のカードが納入されたと言います。
1941年6月、戦争は新たな局面に入りました。ヒトラーは、独ソ不可侵条約を破り300万のドイツ軍をソ連に侵攻させたのです。戦争の準備をしていなかったソ連軍は総崩れとなりました。
スターリンは、徹底抗戦を命じました。ヒトラーは、本来の敵と狙い定めた共産主義についに牙を向いたのです。
ロシアでの任務は赤軍の粉砕と国家の解体だ。これは絶滅戦争だ。絶滅させなければ30年もすれば共産主義は再び蘇るであろう。
(ヒトラーから将軍たちへの言葉)
戦火のピアニスト
ヒトラーのソ連への攻撃は苛烈を極め、レニングラードで悲劇が起こりました。街はドイツ軍によって900日間も封鎖され、食糧と燃料が尽き激しい飢えと寒さが人々に襲いかかりました。犠牲者は100万人以上で、その8割が餓死者であったと言われています。
封鎖が始まったレニングラードで、作曲家ドミートリ・ショスタコーヴィチは作曲を続けました。戦火の中で書き続けたファシズムとの戦いをテーマにした「交響曲第7番」は封鎖に耐える市民に捧げられ「レニングラード交響曲」と呼ばれるように。初演はラジオで全国に放送され、その後多くの音楽家によってソ連各地で演奏されました。
しかし、ショスタコーヴィチはこの曲にもう一つの意味を密かに込めていました。それは自らの国ソ連の指導者に向けたものでした。
戦場から逃げ出す兵士は味方から銃撃され、敵に投降すれば故郷の家族が逮捕されました。ソビエトもまた恐怖が支配する国家だったのです。
ファシズムは単にナチズムを意味するのではありません。この音楽は恐怖、屈辱、魂の束縛を語っているのです。交響曲第7番はナチズムだけでなく今のソビエトの体制を含むファシズムを描いたのです。
(ショスタコーヴィチの言葉)
1941 断末魔のファシズム
1941年12月、日本軍がハワイの真珠湾を奇襲。アメリカ太平洋艦隊は、戦艦4隻が撃沈される大打撃を受けました。アメリカの反戦ムードは一変し、若者はわれ先にと軍に志願。ドイツとの戦いに反対していた人々も、日本との戦争には進んで協力しました。
フォードは、世界最大の生産ラインを持つ軍需工場を作り8600機の爆撃機を製造。さらに、ドイツ支持のリーダー的存在だったリンドバーグを爆撃機開発の顧問に迎えました。
日米の戦いが始まると、ドイツもただちにアメリカに宣戦布告。ヨーロッパとアジアでの戦いが結びつき、世界全面戦争に突入したのです。
アメリカ社会にあったナチス支持の気運は一気に消し飛び、女性たちも軍需工場で働くことを自ら志願しました。
日米開戦の頃、ソ連軍はドイツ軍に対し大反撃を開始。それまで戦いを有利に進めていたドイツ軍は、厳しい冬の寒さに阻まれ、シベリアから到着したソ連の精鋭部隊に敗退を重ねていきました。
1942年4月、ヒトラーの誕生日を祝う演奏会がベルリンで開かれましたが、ヒトラーは姿を現しませんでした。
アメリカは巨大な破壊力を持つ新兵器の開発に乗り出しました。テネシー州の原野に突如巨大な街が築かれ、最盛期には7万5000の人々が何を作っているのかも知らされず働きました。製造していたのは原子爆弾でした。マンハッタン計画と名付けられたプロジェクトには、ナチスの迫害を逃れたユダヤ人科学者も加わっていました。
一方、ヒトラーも新型兵器の開発に戦局を打開する望みを託しました。弾道ミサイルV2ロケットは成層圏にまで一気に上昇、数百キロ離れた標的に向かう革命的な兵器でした。ロンドンやパリに向けて発射されましたが、命中精度が低く効果は限定的でした。
太平洋の島々では、日本の兵士たちが圧倒的な物量を誇るアメリカ軍に追い詰められていました。ファシズム陣営は瓦解しつつありました。
1943年9月にイタリアが降伏。ムッソリーニは処刑され、その遺体はミラノの広場に吊るされました。
1944年6月、アメリカを中心とした連合軍はノルマンディーに上陸。15万を超える兵士が投入された史上最大の上陸作戦でした。この戦いに敗れたドイツは、西からアメリカとイギリス、東からソ連の猛攻撃を受けることになりました。
その翌月、ヒトラー暗殺未遂事件が起こりました。ナチス幹部が死傷する中、ヒトラーは難を逃れました。首謀者はドイツ軍の将校たちでした。容疑者だけでなく、その家族や親類まで600人以上が逮捕され処刑されました。
1944年8月、ついにドイツ軍が撤退しパリは解放されました。4年間に及ぶヒトラーの支配は終わったのです。
しかし、新たな憎しみが街を覆いました。ナチス協力者に対するリンチでした。それは、ドイツ兵と親しくしていた女性にもおよびました。
ある女性が連れて来られて髪を刈られた。人々は叫び声を上げていた。不幸な女性は口を開いた。「許してください、もうしませんから」目に涙を浮かべてはいなかったが、表情はうつろだった。無害に見えた群衆が人殺しをも厭わないほど乱暴な人たちになってしまった。
(パリ市民の日記)
ソ連でもナチス協力者が処刑されました。処刑された人の多くは、スターリン体制に抵抗するためナチスに協力した人たちでした。
1945年4月、ベルリンに向けてソ連軍の総攻撃が始まりました。白旗を上げた市民はナチスに裏切者とみなされ、白旗を上げなければソ連兵に殺されました。半月に及ぶ攻防戦で15万人以上が犠牲となりました。ヒトラーは、総統官邸の地下壕にこもって指揮をとりました。
ヒトラーはいつも戦場から目を背けていました。暗くなってから行動し、車はあまり破壊されていない道を選びました。彼は自分の目で戦争を見ようとしませんでした。
(ヒトラーの秘書トラウデル・ユンゲ)
陥落寸前のベルリンに、ヒトラーの愛人エヴァ・ブラウンがやってきました。4月28日、ヒトラーは総統官邸の地下壕でエヴァと結婚式を挙げ、2日後に2人は命を絶ちました。
ヒトラーが死の直前、秘書に残した言葉があります。
ナチズムは壊滅した。もう終わりだ。その思想は私と共に消滅する。だが100年後には新たな思想が生まれるだろう。宗教のように新たなナチズムが誕生するだろう。
そして1945年9月2日、第二次世界大戦は終結しました。
冷戦へ
しかし、ヒトラーは戦後の世界に新たな戦争の種子を植え付けていました。アメリカは兵器だけでなく1000人を超えるドイツの科学者を連れ帰りました。
アメリカが喉から手が出るほど欲しかったのは、ヒトラーが最後の望みをかけたV2ロケットの技術でした。この技術からアメリカは大陸間弾道ミサイルを開発しました。
そして、V2ロケットの技術を狙ったのはソ連も同じでした。ソ連は6000人以上のドイツ人を雇い、核をミサイルに搭載し敵を恐怖に陥れました。両国は同じことを考えていたのです。
アメリカとソ連は、ヒトラーの遺産を利用しながら冷戦を繰り広げることになりました。
「あなたたちは知っていた」
独裁者の狂気を押しとどめられなかった世界。ドイツのブーヘンヴァルト強制収容所を連合軍が解放した時のフィルムが残されています。ユダヤ人や政治犯など5万人以上がここで犠牲となりました。
連合軍はこの場所をドイツ人にも見せなければならないと考えました。
収容所は私自身も見なけらばならないと思った。将来、このひどい行いがありもしないでっちあげだと言う人たちが現れたとき自分がこの目で見た証拠を伝え残すためにも。
(連合国軍最高司令官アイゼンハワー)
ドイツ人が見学させられる映像も残されています。一人の女性カメラマンがその時の様子を記しています。
女性は気を失い男性は顔を背け「知らなかったんだ」という声が人々から上がった。すると、解放された収容者たちは怒りをあらわにこう叫んだ。
「いいや、あなたたちは知っていた」
(従軍カメラマン マーガレット・バーグ=ホワイト)
「NHKスペシャル」
新・映像の世紀で第3集「時代は独裁者を求めた」
第2集「グレートファミリー新たな支配者」
第3集「時代は独裁者を求めた」
第4集「世界は秘密と嘘に覆われた」
第5集「若者の反乱が世界に連鎖した」
第6集「あなたのワンカットが世界を変える」
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