エドヴァルド・ムンク「太陽」|美の巨人たち

エドヴァルド・ムンクは、フィヨルドの国ノルウェーが生んだ天才画家です。「太陽」はムンクの生涯の中で最も巨大な作品です。また鮮やかに光輝く問題作でもあるのです。

 

舞台は海辺の岩場。水平線から昇る朝日が眩しい程の光を放っています。ムンクという画家のイメージを覆すような激しく色鮮やかな世界。放射状に広がるスペクトルの光線が花火の破裂のような力で画面全体を覆っています。際立つのは色の華やかさ。ばら色に染まった岩場と海はキルトのように色彩と質感が塗り分けられています。

 

エドヴァルド・ムンクは、軍医の父クリスチャン・ムンクの長男として1863年に生まれました。ムンクに暗い影が忍び寄ったのは5歳の時。母親を結核で亡くしてしまいました。快活だった父はふさぎこみ、時に激しやすくなりムンク自身その性格を受け継いだと語っています。

 

再び喪失の悲しみに襲われたのは15歳の時。姉のソフィーを母親と同じ病で亡くしました。この姉の死が初期の傑作「病める子」を生み出すことになります。命への痛切、染み渡る悲しみ、パレット内部で刻まれたキャンパスの痛み。この1枚からムンクは出発したのです。

 

そのムンクが描いた「太陽」は周囲を照らすような力強い作品です。希望に満ちた鮮やかな色彩。彼はこの光溢れる世界にどうやって辿り着いたのでしょうか?

 

ノルウェー南部の海沿いにあるオースゴールストランという小さな猟師町に、ムンクが夏を過ごした別荘があります。20代の頃、パリやベルリンで活動していたムンクは夏になると毎年のようにオースゴールストランを訪れ絵の制作に励みました。静かな海、湾曲した海岸線、浜辺にはゴツゴツとした石が転がっていました。フィヨルドは作品の重要な舞台でした。

 

「叫び」は30歳の時の作品です。画家の鋭敏な神経に襲い掛かる通りすがりの人間との埋めようのない深い断絶。溶け込む色彩は恐ろしい音楽の旋律のように、うねるような曲線を描いています。

僕は立ち止まりフィヨルドを眺めていた。雲が赤くなった。血のように。自然をつらぬく叫びのようなものを感じた。

(エドヴァルド・ムンク)

 

ムンクは人間の精神に焦点を当てた連作を「生命のフリーズ」と名づけ作品を発表していきました。「生命のダンス」は男女の群れがダンスをしている絵です。愛の世界に期待を膨らませて踏み入れる若い女性。踊りながらつながることのない愛の孤独、諦めと絶望が描かれています。

 

私の芸術は沈みゆく船の無線技師が発する遭難信号のようなものだった

(エドヴァルド・ムンク)

 

そのムンクが描いた「太陽」は特有の不安定な曲線は消え、海からのぼる朝日が眩しいまでに輝いています。なぜムンクはそれまで一切描こうとしなかった輝く太陽をモチーフにしたのでしょうか?

 

ムンクは生涯結婚することはありませんでした。病的なまでに結婚を避けていたのです。ムンクは美男子でノルウェーを代表する画家だったため、言い寄る女性たちは沢山いました。しかし、精神の自由を守ろうとしていたムンクは女性というものに絶望していたのです。

 

ムンクの恋人だったトゥラ・ラルセンは、結婚を断るムンクにピストルを持ち出して自殺しようとしました。ムンクはとめようとしましたが、ピストルが暴発しムンクの左手の中指の骨を粉砕。この事件を境にムンクは変貌しました。

 

事件以来、放浪と漂泊の旅を続けたムンクはクラーゲリョーで暮らし始めました。そして生涯の大作「太陽」に打ち込みました。この時もう一人のムンクが生まれたのです。

 

トゥラ・ラルセンとの事件以降、ムンクは神経症の発作に苦しみました。そして、コペンハーゲンにあった病院で治療のために8ヶ月の入院生活を送りました。精神科医によって当時最先端の電気治療を受けたと言われています。

 

ノルウェーに戻ったムンクは、友人からオスロ大学講堂の壁画のコンペを知らされ応募しました。かつてのムンクは夜の画家でした。夕暮れ、白夜を舞台に人間の精神を見つめた画家でした。

 

そのムンクが初めて太陽に挑んだのです。独特のうねるような曲線はどこにもなく薔薇色に染まった岩場は力強い輪郭でかたちどられています。陸と海とを分かつ青々とした緑が明るい光に照らされています。鮮やかな青の水平線、奔放な筆さばき、色彩のリズム。放射状に広がるスペクトルの光線は花火のように輝きを炸裂させ画面全体を覆っています。

 

エドヴァルド・ムンクは生まれ変わるように太陽という生命の根源へと向かって行ったのです。



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