フィンセント・ファン・ゴッホ作「タンギー爺さん」は縦92cm、幅75cmの作品です。
手を重ね座る老人は真っ直ぐこちらを見つめています。男の名はジュリアン・フランソワ・タンギー。パリ時代のゴッホを知る数少ない友人の一人です。
背景は奇妙なことに、なぜか日本の浮世絵でびっしりと埋め尽くされています。その数6枚。
タンギー
タンギーの職業は絵具職人で、当時モンマルトルで小さな画材屋を営んでいました。ゴッホはその店の常連客でした。
1886年、無一文同然でパリに来たゴッホは、弟テオのアパートに転がりこみました。当時、テオはモンマルトルで画商をしていました。そんな厄介者の画家を何かと面倒をみていたのが、近所に住むタンギーでした。
タンギーの画材屋は貧しい画家たちのたまり場でした。それはタンギーが食うや食わずの画家に絵具を貸し、作品をショーウインドウに飾ってくれたからです。ゴッホもそんな老人の恩恵にあずかった一人でした。
実はゴッホは「タンギー爺さん」の他にも、タンギーの肖像画を2枚描いています。
フィンセント・ファン・ゴッホは、1853年オランダで牧師の長男として生まれました。父と同じ道を志すも挫折。37歳という駆け足の人生で画家として生きることが出来たのは10年にすぎません。そのうち32歳からの2年間をモンマルトルで過ごしました。
絵の背景の浮世絵
浮世絵の独創性に驚愕したゴッホは、400点以上もの浮世絵を集めていたと言います。右上の浮世絵は歌川広重の「石薬師」を手本にし、ゴッホ特有の強いタッチで満開の様子を描いています。中央の富士は「さがみ川」の山の重なりはそのままに、空は茜色に変えました。
左上の雪景色の元絵についてはまだ分かっていません。その下は歌川国貞の「三世岩井粂三郎の三浦屋の高尾」を手本にしています。花魁の役者の表情や仕草、背景の菖蒲までほぼ忠実に描いています。左下には朝顔が。右下の花魁は雑誌の表紙を参考にしていました。
なぜゴッホはタンギーの背景に浮世絵を描いたのでしょうか?
聖なる像 イコン
画材屋を開く前、タンギーは獄中にいました。1870年に勃発した普仏戦争にフランスは惨敗。この時、徹底抗戦を主張するパリ市民が蜂起し、自治政府パリ・コミューンを結成。実はこれにタンギーも加わっていたのです。しかし、政府に鎮圧されタンギーは逮捕されました。
そんな経歴を持つ男の画材屋は少し変わっていました。社会的弱者を排除する世の中が許せなかったタンギーは、貧しい画家たちには画材だけでなく食事や一夜の宿まで提供していたのです。そんなタンギーは、画家たちにとって最大の理解者であり庇護者でした。
ゴッホはタンギーについて「もし僕がかなり高齢になるまで生きのびられたらタンギー爺さんのようになるだろう」と言っています。ゴッホにとって「タンギー爺さん」は単なる肖像画ではなく、聖なる像イコンなのです。そのためタンギーの周りには聖人を讃えるかのごとく浮世絵が描かれているのです。
孤独な画家がやっとパリで見つけた芸術的恩恵に対する深い感謝が「タンギー爺さん」でした。
この作品から3年後、ゴッホはピストル自殺をはたしました。その寂しい葬儀の場にもタンギー爺さんは現れました。純粋で孤独な画家を最期まで見届けたのです。
「美の巨人たち」
ゴッホの「タンギー爺さん」
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