ウィリアム・ターナーの「難破船」|美の巨人たち

ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーの「難破船」は、嵐の海の一瞬を切り取った風景画です。

「難破船」

ターナーが「難破船」を描いた1805年、大英帝国の誇りをかけた戦いが起こりました。ヨーロッパへの侵攻を進めていたフランスのナポレオン軍とのトラファルガーの海戦です。イギリスは世界最強といわれた海軍の力でナポレオンを撃破。この戦いの勝利で多くの国民が海に強い関心を抱いていました。

風景画家が見つめた景色

ターナー「自画像」

ターナーは生涯家庭を持たず、ただ絵のために生きた人でした。1775年、ロンドンの理髪店の家に生まれましたが、幼い頃から人とのコミュニケーションが苦手でした。一人で絵を描いては店頭に飾る毎日。絵筆をとることで孤独な心が救われていたのです。だからこそ、絵では誰にも負けたくなかったと言います。

ほとんど独学にも関わらず、14歳で授業料免除の特待生としてロイヤルアカデミー美術学校に入学。人と接するのが苦手だった影響でしょうか、ターナーが主に描いたのは風景でした。そして、最も多かったのが海の絵。その中で「難破船」はターナーの名を世にとどろかせた作品です。圧倒的な迫力で当時の人々の心をわしづかみにしたのです。

1802年、ターナーは風景画の新たなモチーフを求めフランスへ旅立ちました。そして、ドーバー海峡を渡る船に乗った時、嵐と遭遇。あわや転覆の危機にみまわれながら命からがら海を渡ったターナー。この体験がターナーを「難破船」へと向かわせました。描いたのは人々に容赦なく牙をむく狂暴な荒波でした。

それまでも海の絵を描いていたターナーですが、難破というテーマを描いたのは実はこの絵が初めてでした。それまでの絵は海の美しさを描いていました。しかし、自身も難破寸前の体験にあい海を見つめる目が変わったのです。

ターナーはこの絵で波の「動き」を「海の圧倒的な力」の象徴として描きました。それは嵐を体験したターナーにとって自然の本当の姿を描くという新しい風景画への挑戦だったのだと思います。(テート・ブリテン学芸員デイヴィット・ブラウン)

風景画家がなぜ人物を?

人とのコミュニケーションが苦手だったターナー。それまで描いてきた風景画の中にも人物の姿はほとんどみられませんでした。それにも関わらず「難破船」には死の淵で漂う人たちの鬼気迫る様子がとてもリアルに描写されています。

ターナーが「難破船」を描いた1年前、イギリスでは1冊の本が再販され大ブームを起こしていました。ウィリアム・ファルコナーの「難破船」です。この本は、作家自身の難破体験をもとに綴られた詩集です。

「難破船」に人々の姿が描かれている理由の一つとして、ターナーがこの本に影響を受けたということが考えられます。自然の力を描くには人間のドラマを絵画に取り入れることが有効な手段だということに気が付いたのです。(テート・ブリテン学芸員デイヴィット・ブラウン)

そして、ターナーが描いたのは恐怖に震え惨めに叫びちらす女、あまりの状況に現実から目をそむける男。今にも波に飲み込まれてしまいそうな船もあれば、すでに無人となってしまった救命ボートも。死への絶望と生への渇望。極限状態であらわになる様々な人間の弱さが見事に描きわけられています。

ターナーは作品の中で弱者と強者といった二項対立の技法をよく用いますが、この難破船では「人間」対「海」という二つの対立を描くことで海の力を大きさを誇張したのです。(テート・ブリテン学芸員デイヴィット・ブラウン)

漁船に込めた想い

しかし、画面の右側の船を見ると、狂暴な荒波にさからって力強く進んでいく船の姿が。乗組員たちにはおびえる様子などみじんもありません。

この船は漁船なんです。ターナーはこの頃、このような小型の漁船を多く描いていました。(国立海洋博物館 学芸員クリスティーン・ライディング)

この漁船はスポットライトを浴びているかのように輝いています。実はこの輝く漁船こそ、ターナーが本当に描きたかったものを象徴しているというのです。

この国では「シップ オブ ステイト」という言葉をよく用います。「船は国」という意味で、ターナーもまた度々絵にこの言葉を重ねています。難破船では、嵐に向かう勇敢な漁船に海洋国家イギリスの姿を重ねたのでしょう。(国立海洋博物館 学芸員クリスティーン・ライディング)

ターナーが目指したのは、単に漁師が活躍する海の物語ではありません。一枚の風景画の中に圧倒的な力にも恐れず立ち向かう海洋国家イギリスの誇りを描き込めたのです。

「美の巨人たち」
ターナーの「難破船」

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