佐良直美(さがらなおみ)さんは、1967年に「世界は二人のために」で歌手デビュー。この曲は結婚式のウェディングソングとして人気に火がつき、デビュー曲にもかかわらず120万枚の売り上げを記録。パンツスタイルで薄化粧、中性的な雰囲気で女性から圧倒的な支持を得ました。
そして、デビューからわずか半年でレコード大賞新人賞を受賞。NHK紅白歌合戦にも13回連続で出場。歌い手だけでなく、紅組の司会者に5回も抜擢されました。
歌だけでなくマルチな才能を発揮した佐良直美さんは、昭和芸能史に残るレジェンドでした。
ところが、デビューから20年経った1987年、突如芸能活動を休止。様々な憶測が流れる中、表舞台から姿を消しました。
現在74歳となった佐良直美さんは、動物たちの保護施設プライベートシェルターを運営しています。犬50匹、猫100匹を保護し、常時5人のスタッフがいると言います。
芸能界から消えた真相を初告白
1945年、東京都世田谷区で生まれました。生粋のお嬢様として育ち、幼少期は乗馬にバイオリンを習いました。そんな佐良直美さんが憧れていた職業は…
最初は音楽の勉強のためとライブハウスで歌う仕事を始めた佐良直美さん。偶然、会場を訪れていたレコード会社のディレクターからスカウトされ、22歳でデビュー。
デビューから1年、佐良直美さんは運命の女性と出会いました。ドラマプロデューサーの石井ふく子(いしいふくこ)さんです。石井さんは以前から佐良直美さんのファンだと周囲に公言していました。それを佐良直美さんの祖母が耳にし、佐良直美さんは花束を持参し石井さんに感謝の気持ちを伝えに行きました。
この生真面目な姿を見て、石井ふく子さんは「絶対に女優でも成功するはず!」と思ったそうです。歌手だった佐良直美さんを自分のドラマに女優として起用。それが「女と味噌汁」です。すると、これをきっかけに仕事のオファーが殺到。時代の寵児となりました。
しかし、そんな佐良直美さんを待っていたのは殺人的スケジュール。歌番組だけでも1日3本を掛け持ち、間をぬってバラエティ番組やドラマに出演。移動中にも雑誌の新聞の取材を受ける忙しさ。中でも年末はディナーショーにレコード大賞と多忙を極めました。
そんな佐良直美さんにとって最もプレッシャーだったのが紅白の司会。真面目だった佐良直美さんは、自ら出演者の前口上を考えていました。
そんな中、マスコミの取材は過熱。あることないことを書き立てられプライベートが全くない状態でした。
ついにストレスが爆発しました。自宅を抜け出してはあてもなく街を徘徊。酔っぱらうと石井ふく子さんに電話をかけました。石井ふく子さんは、佐良直美さんの誰にも言えない愚痴を文句も言わず聞いてくれたと言います。
そして、どんなに夜遅くても車で迎えに来ては家まで送り届けてくれたと言います。
心を許せる石井ふく子さんの支えもあり、その後も何とか仕事を続けていた佐良直美さん。ところが1987年に芸能界を去る決定的な事件が起こりました。
ある日、いつものようにステージに立った佐良直美さん。しかし、声が出ませんでした。医師の診断を受けると声帯にポリープができていました。1年間の歌手活動禁止を言い渡されました。手術をしたものの再発の危険がある喉のポリープは歌手にとって致命的でした。
自分にとって最も大事な歌を失ったことで、佐良直美さんは芸能界から去ることを決意しました。この時、唯一報告したのが石井ふく子さんでした。
なぜ動物たちと暮らすようになったのか?
芸能界から消えた後、共に生活していた動物たちと静かに暮らそうと那須塩原に移住した佐良直美さん。そんなある日、風邪で寝込んでいた佐良直美さんのお腹をめがけて飼い猫が飛びおりてきました。猫はそのまましばらく動きませんでした。
腹部に違和感を感じ、病院で診断を受けると卵巣がんが見つかったのです。早期発見できたため手術だけで命が助かりました。
それ以降、命を救ってくれた恩返しをするため捨てられた動物を見つけるたびに保護してきた佐良直美さん。しかし、その数も160匹を超え、施設で保護するにも限界が…
そこで、ペットの不法投棄を解決しようと動物と人間の絆を作るしつけ教室を開いています。佐良直美さんは、今では当たり前となった家庭犬のしつけに日本でいち早く取り組み、優良家庭犬普及協会の会長をつとめるこの世界のカリスマです。
佐良直美さんは動物のしつけを通し、飼い主の意識改革を推し進めました。そんな彼女のしつけ教室は全国からレッスンに来るほど人気に。
佐良直美さんが今一番力を入れているのが猫の登録制度の推進です。捨て猫を一匹でも減らしたいと活動しています。
「爆報!THEフライデー」
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