60年代新宿カルチャー 大島渚|ニッポン戦後サブカルチャー史

1960年代、日本は高度経済成長真っ只中。若者たちは、あらゆる権威にNOを突きつけました。そんな時代のエネルギーが豊かなサブカルチャーを育んでいきました。時代を象徴する街は新宿。そこでは若きクリエイターたちが火花をちらし沸騰していました。なぜ若者たちはあれほど自由奔放でいられたのでしょうか?そして彼らは何を夢見ていたのでしょうか?

 

所得倍増を掲げる池田内閣の発足で幕を開けた60年代。戦後の焼け野原から「東洋の奇跡」と賞賛される復興を遂げた日本は、豊かさの象徴だったアメリカ流の暮らしを夢見るようになっていました。

 

当時の娯楽の王道、映画の世界では黒澤明、小津安二郎など大監督たちが名作を作り、人々は銀幕のスターに夢中になりました。

 

そんな時代のムードに反旗を翻す革命児が大島渚さんです。彼は「この国は本当に幸せなのか?」と鋭く問い続けました。人は彼を「怒りの人」と呼びました。戦時中に父を亡くし貧困のどん底を経験した大島渚さんは、貧しい者を蔑む権威や権力を憎み、はみ出した人間の屈辱感を描くことが表現者としての自分の使命と感じるようになりました。

 

1959年、皇太子ご成婚の様子は全国に生中継され、これを機にテレビの普及台数が100万台を突破。歌あり、笑いあり、ドラマあり、ブラウン管の奥には家族そろって楽しめる夢の世界がつまっていました。

 

急速なテレビの普及に危機感を抱いた映画会社は、若手新人監督を起用。若者を主人公にした斬新なストーリー、ダイナミックな演出の作品を世に問いました。白羽の矢が立った一人が27歳の大島渚さんでした。入社5年目、異例の抜擢でした。

 

「青春残酷物語」は、ルールなどないかのごとく奔放に生きる若者たちの生態を緊張感あふれる映像で描きました。大島渚さんが次回作のテーマに選んだのは安保闘争。日米安保条約の強行採決に反対する学生や市民30万人余りが国会を取り囲みました。1ヶ月の攻防戦の末、デモは鎮圧され東大生が亡くなる事件が起きました。

 

大島渚さんは、60年安保での学生運動の挫折というこれまでの映画にない題材を選び、戦後の左翼運動のあり方に疑問を投げかけました。しかし、映画は封切り4日後、会社の判断で上映中止となり、大島渚さんは独立を決め「創造社」を設立しました。

 

1968年、日本のGNPはアメリカに次いで世界2位になりましたが、大島渚さんは経済大国の影の部分に焦点を当てました。映画「少年」は、実際に大阪であった事件を題材にしました。主人公は戦争で負傷した父親に代わって当たり屋として生活費を稼ぐ少年。生きるために犯罪の深みにハマっていく少年と家族。高度経済成長下で誰からも手が差し伸べられない不条理を描きました。

 

1969年、全共闘運動が激しさを増し、世界ではベトナム戦争の激化を受け大規模な抗議、反戦デモが同時多発的に発生しました。アメリカでは大学生を中心に組織された反戦運動が全米で数百万人規模に拡大。黒人の公民権運動などとも結びついていきました。フランスでも、ベトナム戦争やプラハの春などに抗議し、国家による抑圧に反発する1000万人が自由・平等・自治を掲げ各地でゼネストなどを繰り返していました。

 

若者たちの沸騰都市 新宿

60年代半ば、新しい物を求める若者たちがこぞって向かったのは新宿でした。当時の新宿は若者たちにとって祝祭の街。人が集えば火花が散り、次々と新たな文化が生まれヒッピー、フーテン、アングラ、サイケなどアンダーグラウンドな若者文化と政治運動が交錯する新宿では、いつも何かが起こっていました。

 

そんな新宿の息吹を伝え続けたのが「新宿プレイマップ」タイトル通りの街の広報誌ですが、新宿をこよなく愛する人たちのディープな体験がつづられ、ファンは全国にいたと言います。

 

60年代初頭、都会を象徴する街と言えば銀座でした。ところが1964年、そんな雰囲気をあざ笑うかのように現れたのが「みゆき族」独特なファッションに身を包み、ズタ袋を持って無目的に徘徊。みゆき族は銀座のイメージダウンになると街を追い出され、たどり着いたのが新宿でした。

 

新宿は様々なタイプの人が集まることが運命付けられていた街です。300年前、甲州街道最初の宿場町・内藤新宿に始まり、大正時代には東京西部と都心を結ぶ鉄道網が開通しターミナルに。終戦翌年、GHQによる工商制度廃止を機に焼け野原に最初に出現したのが赤線地帯。政府に認められた合法的な売春エリアでした。

 

1958年、売春防止法で赤線は姿を消しましたが、盛り場の混沌とした文化は残りました。ちょうどこの頃から新宿は若者の街へ変わっていきました。60年代に入ると、新宿は既成の価値観にとらわれない自由な考え方や行動を求める若者たちを引き寄せ始めました。大島渚さんもそんな新宿に惹きつけられた一人でした。

 

若者の街 新宿の終わり

1968年10月、角材で武装した2000人の学生と、これに便乗した数千人の一般人が新宿駅になだれ込みホームと線路を占拠。この辺りから新宿は徐々に新都心へと変貌し始めました。街中いたる所で浄化作戦が始まり、新宿から60年代の新宿が姿を消していきました。

 

「新宿プレイマップ」もタイトルから新宿の文字が消え、店の紹介記事や最新のファッション情報が中心の普通のタウン誌へと生まれ変わり、ほどなくして廃刊。60年代の終わり、万博特需に沸く日本に開発の波が押し寄せ、新宿も西口で新都心計画の工事が着々と進行。新都心への通路にするため西口地下広場を通路へと変更。そこにたむろしていた若者たちは排除されました。

 

そんな時、新宿の終わりを決定的に印象づける事件が起こりました。花園神社を追われた後も新宿にこだわり続けた唐十郎が200人の警官隊が包囲する中、新宿中央公園でゲリラ公演を決行し逮捕されたのです。そして同じ頃、新宿西口では新宿西口フォークゲリラが消えようとしていました。暴徒化を恐れた警察は機動隊を動員し実力排除に踏み切りました。もうそこに怒れる若者の居場所はありませんでした。

「ニッポン戦後サブカルチャー史」
60年代(1)新宿カルチャー 大島渚

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