70年代 深夜のラジオと音楽革命|ニッポン戦後サブカルチャー史

NHK・Eテレの「ニッポン戦後サブカルチャー史」で第4回70年代(1)深夜のラジオと音楽革命が放送されました。70年代、若者たちはラジオの深夜放送に夢中になりました。それは、ここでしか聞けない情報が満載の解放区でした。科学万能を高々にうたう大阪万博で幕を開けた1970年代。しかし、そんな明るいムードとは裏腹な事件が続きました。3月には日本中を震撼させた赤軍派メンバーによるよど号ハイジャック事件、11月には作家の三島由紀夫が割腹自殺。この頃、高度経済成長の光と影が激しく交錯していました。その光の代表がテレビ。所得の向上に伴い70年にはテレビの世帯普及率は90%を突破。ラジオはその煽りをうけ、深刻なリスナー離れが進んでいました。60年代末にラジオ局がうった逆襲の一手が若いリスナーを狙った深夜の番組改革でした。スポンサーがほとんどつかない深夜番組は低予算のためディスクジョッキーは国内のアナウンサーやディレクターがつとめ、彼らは金を使わず知恵を使ったのです。それまでの硬いアナウンサー口調とは異なる砕けたしゃべりが衝撃を与えました。まるで友達かのように語りかけてくるディスクジョッキーの声を若者たちは食い入るように聞きました。深夜だからこそ、若者だけの話題や小さなブームメントもどんどん取り上げられました。そこでかかる音楽はヒットソングばかりでなく、独自の価値観で面白い、新しいと感じるもの。70年代の深夜放送を代表するディスクジョッキーの一人である亀渕昭信(かめぶちあきのぶ)さんは深夜放送黄金期を迎える前夜、60年代末のある曲のヒットに深夜放送の未知の可能性を感じたと言います。それはザ・フォーク・クルセダーズの「帰ってきたヨッパライ」です。テープを早回しした奇妙な歌は急遽シングルカットされ年間チャート2位の大ヒットとなりました。やがて深夜放送は若者が心を通わせ繋がる、大きな広場になっていきました。70年に終結したナイジェリアのビアフラ戦争。ディスクジョッキーの亀渕昭信さんはこの戦争で生まれた100万人もの難民の支援策について話していると、わずか3日のうちに外務大臣あてに2000枚もの支援を訴えるハガキが届きました。外務省はこの声にこたえ、国内の備蓄米5000トンを送ることを決めました。1972年2月に起こったあさま山荘事件は、わずかに燻り続けていた政治と闘争の時代の終わりを告げる象徴的な事件でした。おりしも高度経済成長でサラリーマン人口が急増。良い大学、良い会社へが幸せへの近道と悟ったかのような若者たちは「しらけ世代」と揶揄されました。深夜放送はいつしか、そんな彼らのささやかな抵抗の場となり、曲のリクエストだけでなく身近な出来事や思いをつづって投稿。人気番組に届くハガキは週2万通にもおよびました。そんな投稿ハガキから次々と名物コーナーが生まれました。ネットのない70年代、深夜ラジオには若者たちが集い昼間の大人の世界とは全く異なる空間を作り出していたのです。

 

サブカルチャーの伝道師 林美雄

70年代の名物ディスクジョッキーの中で異彩を放つのが林美雄(はやしよしお)さん。スポンサーがつかない午前3時からパックインミュージックを担当。サブカルチャーを紹介し続けた伝説のDJです。林美雄さんがかける曲は当時のヒットチャートとは無縁の曲ばかり。それはまだ大きな流れにはなっていないけれど、これまでとは違う何かでした。まだ売れていないけれど面白いものを自分の耳と足で探し出すDJでした。1967年、林美雄さんはTBSに入社。同期には新人時代から輝いていた久米宏さんがいました。その久米宏さんが病に倒れた時にピンチヒッターとして林美雄さんはマイクの前に立ちました。「八月の濡れた砂」という映画に林美雄さんは感銘をうけ、主題歌を番組でかけたいと思いました。ところがレコード化されていなかったため自ら撮影所を訪れ録音することに。林美雄さんは時代に埋もれてしまいそうな音楽や映画、人物を紹介することが自らの使命だと考えるようになりました。それは大量生産、大量消費の時代へのアンチテーゼだったのかもしれません。パックインミュージックは知る人ぞ知る番組として徐々に話題になり、名物コーナーも生まれました。リスナーが創作したニュースを林美雄さんがアナウンサー口調でまじめに読むことで独特なナンセンスを生み出しました。一風変わった林美雄さんの番組は音楽業界や映画業界のスタッフからも注目され、彼らはいつしか林美雄さんのスタジオに集まるようになり、そこは最新情報の行き交うサロンとなりました。そんな林美雄さんのラジオからは時代を切り開く様々なヒット曲が生まれていきました。中でも格別な存在が荒井由美さん。彼女の才能にいち早く気づいた林美雄さんは幾度もスタジオのゲストに呼び、曲を紹介し続けました。

 

70年代 激動の音楽シーン

70年代初頭は暗いニュースが目立ちました。71年のニクソンショックで1ドル360円時代が崩壊し、国内の物価が上昇。73年にはオイルショック。庶民の暮らしは圧迫され閉塞感が蔓延していきました。そんな時代、音楽シーンではアイドルの歌謡曲やグループサウンズに加え、新たな潮流が生まれていました。それはフォークソング。さらに時代の閉塞感を打ち破ろうと次々と新たな音楽的実験も生まれました。その一つがロックです。ロックを日本に持ち込んだ先駆けの一人が内田裕也(うちだゆうや)さん。ロックは英語で歌うものというのが内田裕也さんの主張であり通説でした。一方、そんな通説に対する革命をもくろんだバンドが「はっぴいえんど」です。彼らのロックを日本語で歌い上げ大論争を巻き起こしました。くしくも70年代は日本の製造業が躍進し、海外へと進出。メイドインジャパンの名声が広がる一方、物ばかり輸出して顔が見えないと批判もされ始めていました。はっぴいえんどはそんな時代に日本語によるロックを創造。それは今の音楽シーンに繋がる扉を開く実験でした。メンバーの一人だった細野晴臣さんは新たに「キャラメル・ママ」を結成。各々がミュージシャンでありながら音楽全体に気を配るプロデューサーでもありました。レコード会社に取り仕切られた、それまでの音楽作りから離れミュージシャンが主導となるプロデュースを目指したのです。そこに現れたのは荒井由美さん。デビュー前すでにシンガーソングライターとして自分のスタイルを確立して荒井由美さんですが、細野さんたちはその魅力をさらに引き出すための音作りを徹底的に追求。次々に名曲が生まれました。1973年は同棲するカップルの貧しい暮らしや純情を歌う4畳半フォークの全盛期。ところが荒井由美さんは優雅で洗練されたメロディーにのせて煌びやかな都会に生きる女性の情景を歌いました。ビブラードをきかせない変わった歌唱法も異色で、ぶっきらぼうで冷たいと言われたこともありました。しかし、時代は彼女に味方しました。万博後、落ち込んだ乗客を取り戻すため国鉄が全国展開したキャンペーン・ディスカバージャパン。「私を再発見するために」と女性の個人旅行を勧めたこのキャンペーンは大ヒット。女性が主役のカルチャーが生まれるきっかけともなりました。そんな時代の音楽として荒井由美さんの新しい女性目線の歌ほどふさわしいものはありませんでした。そして彼女はニューミュージックの旗手となったのです。