80年代 おいしい生活って何? 広告文化と原宿・渋谷物語|ニッポン戦後サブカルチャー史

街にはモノがあふれ、不思議なコピーが宙を舞っていた時代のホットスポットは、最先端の業界人が終結する原宿でした。そして若者の街として劇的に生まれ変わったのが渋谷でした。

 

広告・出版・アートに演劇と新しいカルチャーが続々登場。そこには時代を切り開く驚きのクリエイター達がいました。

 

80年代は広告黄金時代!

80年代は、それまでにない様々な広告表現が一気に花開いた時代でした。未曾有の物質的豊かさの中、次から次へと新商品が登場。モノを買う消費という行為自体が、自己実現になるという気分が社会に広がっていました。

 

もはや広告は、商品の機能や値段の違いを訴えるだけではすまなくなっていました。むしろ商品そのものの機能ではなく、イメージの差異化を競うようになったのです。そして広告が次々に流行語を生みました。

 

80年代、企業の広告費は好景気を背景に一気に上昇。すでに1980年の時点で10年前と比べて3倍に。1989年には約5兆円にもふくらみました。

 

商品そのものではなくある価値観を表現する、広告は自立した表現になりうるのか、という冒険の第一線を走っていたのがコピーライター糸井重里さんです。

 

「じぶん、新発見」
「不思議。大好き。」
「おいしい生活」

 

これらのコピーには、スポンサーである百貨店の商品をPRしようという意図は直接的には見ません。その代わりに同時代を生きる消費者のライフスタイルへの意識に訴えかけました。80年代の広告は、単なる商品広告の枠を越えて私たちの生活を揺さぶりました。

 

高度消費社会の中で、モノはモノ自体の価値とは別に幸せカッコイイという記号としての価値を持つように。そんな中で、コピーは人々のライフスタイル自体に訴えかけるメッセージとなっていきました。

 

昭和軽薄体の出現

昭和軽薄体とは、80年代前半に現れた砕けたしゃべり口調が特徴の独特な文体のこと。

 

「たまらなくE」「至Qですよ」「何々でR」など日本語の音をアルファベットで表記するABC文体、「こーゆーふーに」など伸ばして表記したり、本来カタカナでないものをカタカナ表記にするなどの文章が、80年代エッセイやコラムで流行しました。

 

昭和軽薄体は、それまでの言葉というものを一度解体するようなインパクトを持ちました。

 

先鋭クリエイター 原宿へ

不思議な広告が世をにぎわしていた頃、原宿が注目の街となっていきました。タケノコ族やローラー族などが次々と出現。何かといえば若者たちが集まり、新しいカルチャーが生み出されていきました。なぜそれが原宿だったのでしょうか?

 

原宿には戦後アメリカ軍の兵舎であるワシントンハイツがありました。街には米軍向けの商店が増えアメリカ文化のニオイが漂っていました。そんな日本の中のアメリカを象徴していたのが神宮前交差点にあった原宿セントラルアパート。米軍関係者の共同住宅だったこのアパートには、60年代から徐々に文化人が住むように。

 

70年代には新進のファッションデザイナーが事務所をかまえ、近くで店を開業する者も現れました。そして80年代にはカメラマン、コピーライター、イラストレーターといった業界人が集うように。原宿セントラルアパートをはじめ、原宿には異業種のクリエイター達がごく自然に交流する場所が半径1km以内にひしめき合っていました。

 

その拠点の一つがピテカントロプス・エレクトスです。ここは日本初のクラブと言われ、海外からもアーティストが来日。パフォーマンスやアートイベントなどが行われた最先端の表現の場でした。

 

渋谷カルチャーの仕掛け人

 

原宿を中心に生まれた先鋭的な文化は、大量消費社会と結びつきながら変容していきました。その舞台となったのが渋谷。いまや東京カルチャーの代名詞として世界的に知られるSHIBUYAの始まりも80年代でした。

 

きっかけは区役所通り。70年代初頭、区役所通りは区役所と簡易旅館が数軒ある通りにすぎませんでした。ところが70年代後半、突如変貌して行きました。1973年に大型のファッションビルがオープンすると歩道が拡張・整備され名前も公園通りへと改名。ヨーロッパ風の赤い電話ボックスも設置され華やかさが演出されていきました。

 

この公園通りの開発に乗り出したのが、ある百貨店グループ。その中心にいたのが経営者の堤清二と、増田通二でした。堤清二は百貨店の経営者でありながら、辻井喬という作家としての顔も持っていました。

 

そんな堤清二は様々な文化事業を展開。前衛的な演劇を行う劇場、まだ日本であまり紹介されていない現代美術を扱う美術館、ミニシアター系の映画館や大型レコードショップなど文化の最先端を紹介すると同時に、新しい表現を受け入れる土壌を生み出していきました。

 

堤清二の精神を受け継ぎ、渋谷の街作りをさらに進めていったのが増田通二でした。増田通二はファッションビル展開の一環として、公園通りのタウン誌の製作を思いつきました。そんな時、増田通二の前に現れたのが萩原朔美や榎本了壱たちでした。

 

雑誌編集のノウハウがない彼らに編集をまかせ、1974年に「ビックリハウス」が創刊されました。「ビックリハウス」は次第にパロディ色の強いカルチャー誌となり読者投稿の名企画を連発。若い読者を巻き込んで独特の盛り上がりを見せていきました。

 

最近ビックリしたことを投稿するコーナー「ビックラゲーション」、面白フレーズをカレンダー形式にした「御教訓カレンダー」、書道の腕ではなくネタで勝負する「筆おろし塾」などがありました。常連の投稿者はハウサーと呼ばれ、その中には後に新しい文化の担い手となるクリエイター達も名を連ねていました。

 

80’s 渋谷では何でも起こった!

そんな公園通りが生み出す文化を発信していたのはNHKの若者向け番組「YOU」です。そこでは糸井重里さんを司会に、人気のアーティストが数多く出演しました。

 

そんな渋谷では日常的にアートを楽しむイベントも目立っていました。当時はまだ珍しかったウォールペインティングの数々。それまで美術館の中にあったアートが外に飛び出し、渋谷の街の景色を変えました。

 

さらに、日常的に誰もが知っている広告を題材にしたパロディーの美術展も開催されました。まじめな美術とは一味違うアートは評判となり、会場には若者が長蛇の列をなしました。

 

欲望と消費の80年代

80年代後半、世はバブル経済へと突入。その追い風を受けながら人々の消費への欲望はどんどん膨らんでいきました。そして「24時間タタカエマスカ」とつぶやきながら華やかな消費のために働き続けました。日本社会はフル回転し続けたのです。そんな過剰な消費の後に残されていたのはどんな風景だったのでしょうか?

 

1989年、冷戦は終結し世界は一つへと向かっていくかに見えました。そして、豊かさの頂点を極めた日本の一つの時代もまた終わろうとしていました。糸井重里はかつて「おいしい生活」についてこう語っています。

 

あれ、言葉自体にアナーキーなところがあるでしょ。(略)おいしい生活なんて、ホントはないんですよね。幸せの青い鳥にすぎない。ただ言ってみればそっちの方向に向かっている状態を指している、みたいなことなのね。(略)デパートにはいいものも変なものもある。その変なものも人によってはいいものかもしれない。その矛盾を露呈させたいのね。

 

「ニッポン戦後サブカルチャー史」
第7回 80年代(2)おいしい生活って何?広告文化と原宿・渋谷物語