古より中国を治める者たちの戒めとなってきた言葉があります。
君舟也
民水也
水能載舟
亦能覆舟
筍子
君主という船は、民という水を制御しきれなければ転覆する。
歴代のほとんどの王朝は、民衆の反乱から滅亡への道を辿ってきました。これほどの規模で反乱が繰り返された文明は世界にも例がありません。そして、反乱による混乱の中で現れるのが次の時代を導こうとする英雄たちです。
1800年前、中国は戦乱の世を迎えていました。三国時代です。映画やドラマに数多く描かれてきた三国志の英雄たちの物語。物語の多くは「三国志演義」という虚実の入り混じった小説をもとにしてきました。「三国志演義」の冒頭で語られるのは実際に起きた民衆の反乱「黄巾の乱」です。
黄巾の乱
時の王朝・漢に対し、黄色い布を身に着け蜂起した人々。小説では秩序を乱す賊として描かれ、反逆の原因は妖術使いに惑わされたためとされてきました。しかし、反逆の意外な理由が最新の科学によって明らかになってきました。
漢王朝が滅亡し、三国時代が幕を開けるきっかけとなった黄巾の乱。反逆者たちが最初に蜂起したとされる村が河北省の東董里(とうとうり)です。祠に祀られているのは張角です。張角はこの村で道教の一派「太平道」を開いた人物。信徒となった村人を従え反乱を起こしました。
「三国志演義」では、張角が「風を呼び雨を招いた」と言います。この妖術で多くの村人を惑わせたとされてきました。
村では毎年、張角への敬愛を示す祭りが開かれると言います。
農民たちはなぜ反乱を起こしたのか?
東京都立大学の野上道男名誉教授は、反乱の理由を科学から解き明かしました。野上さんが注目したのは「後漢書」にある黄巾の乱のスローガンでした。
「蒼天すでに死す 黄天まさに立つ」
青は漢王朝の色。これまでは漢になりかわり黄巾軍が天下を取るという宣言だと考えられてきました。しかし、「後漢書」の中にはこんな記述もあります。
光和四年二月、空が黄色くなり太陽が覆われた。東からの日の出が全く明るさがない。
「後漢書」より
光和4年とは、黄巾の乱の3年前。この年、空の異常が起きたのです。野上さんは火山の大噴火ではないかと考えています。
大規模な火山の噴火は、大量の火山物質を成層圏に滞留させます。火山物質が太陽光を反射し、光が弱くなった結果、対流圏の空はくすみ黄色くなるのです。大規模な噴火は大陸を越え、2年に渡って世界中に影響を及ぼします。寒冷化や農業不作です。
「後漢書」には、空が黄色くなった年の夏「6月に雹が降った。大きさは鳥の卵ほどもあった。」翌年には「井戸の中が凍ってしまった」と書かれています。異常気象を示す記述は2年続きました。黄巾の乱が勃発したのは、その次の年のことでした。
飢饉に漢王朝はどう対処したのか?
「後漢書」にはこんな記述があります。
人が人を食べ、白骨が積みあがる悲惨な事態になった。ようやく皇帝は蔵から米や豆を出し、粥を作るよう命じた。しかし、何日経っても死者は減らない。本当に粥の炊き出しが行われているのか疑った皇帝は自ら粥を作ると宣言した。そして、その時実際は炊き出しが行われていなかったことを知った。側近が食料を着服していたのだった。
「後漢書」より
紀元前3世紀から400年もの間君臨してきた漢王朝。その統治の根本となっていたのが儒教です。道徳や礼節を重んじる儒教は、法による統治より人を緩やかに導く徳による統治を重んじます。しかし、徳による政治は上に立つものの意向に左右されることが多く、常に腐敗する危険をはらんでいました。
早稲田大学文学学術院の渡邉義浩教授は、漢の末期に書かれた碑文に注目しています。
兵役につきたくない者は、誰か別な者に金を払って肩代わりしてもらえば良い。これを認めて下さる領主様は、まさに民を愛される徳のあるお方だ。
(劉熊碑より)
兵役につくのは貧しい者でした。豊かな者が貧しい者に血を流させ、それを認めた領主が徳のある人物として称えられる。この碑文が示すのは、貧しい人々を置き去りにするようになった儒教の変貌だと言います。
徳による緩やかな統治の限界をうかがわせる発見が江西省でありました。第9代皇帝・劉賀の墓です。遺体と共に埋葬された副葬品は1万点以上。発掘者を最も驚かせたのは大量の金銀財宝でした。
儒教の教えでは、副葬品が豪華であればあるほど、死者に「孝」つまり孝行を尽くしたと考えられていました。漢の皇帝たちにとっては贅沢も時には美徳でした。
曹操
184年、漢王朝打倒を目指した黄巾の乱は一年で収束しました。しかし、漢王朝の権威は失墜。やがて群雄が割拠する三国時代を迎えました。
その中で時代のリーダーとなったのが曹操でした。曹操は「三国志演義」をはじめとする物語では、圧倒的な武力を背景に力を伸ばした悪役として描かれてきました。
後に王となる曹操も、若き日は漢の役人でした。20歳の時に最初についた役職は洛陽の裁判官。この頃から曹操は独自の姿勢を見せました。例え裕福な有力者でも、法を少しでも犯した者は死刑。それまで、厳しく罰せられることのなかった有力者たちは曹操の追放を画策しました。しかし、理由が見つからず地方の行政長官に栄転させました。
地方でも曹操の姿勢は変わりませんでした。地元の有力者が賄賂を送ろうとしたところ曹操に逮捕されました。漢王朝末期に蔓延していた政治腐敗。それに対して曹操は極めて厳格な姿勢でのぞんでいました。
曹操の墓
2007年、河南省で曹操の墓が発見されました。遺体と共に埋葬された副葬品は質素でした。陶器の鼎や壺。孝行のために豪華な財宝をおさめた漢王朝の皇帝たちとは全く異なったものでした。
曹操は死にあたって、こんな命令を下しています。
私の遺体を包むのは平服を用い、金銀財宝を墓の中におさめてはならない。
400年続いた国を変えようとした曹操。黄巾の乱後の戦乱に身を投じる中、ある人々を傘下に加えることで強力な軍団を作り上げました。
青洲の黄巾軍の残党は100万にのぼった。その青州の兵がみな曹操に服属した。
黄巾軍の残党は青州、今の山東省でゲリラ活動を続けていました。漢王朝に反逆した農民たちの集団を他の勢力は受け入れませんでしたが、曹操はかまわず自分の軍み組み入れたのです。そして、ここから曹操は一気に勢力圏を拡大しました。
しかし、208年に赤壁の戦いで大敗。この時、曹操を破ったのが劉備でした。劉備はその後、曹操のライバルとなり激しい戦いを繰り広げました。
劉備
「正史三国志」は劉備のこんな言葉を残しています。
漢の皇帝陛下の徳はあまねく国に及んでいたのに、不運にも今困難な状況に陥っております。曹操が災いばかりを引き起こし、密に天下をうかがおうとしているからです。曹操を誰を討つことができなかったのは、まさに忠義にもとることではないでしょうか。
劉備は漢王朝を否定しようとする曹操を徹底的に批判。反対に漢王朝を肯定したのです。
漢は衰退しても富裕な有力者の多くは儒教を信奉し続けていました。黄巾軍の残党など貧しい人々を軍団に加えた曹操に対し、劉備は漢の有力者たちの支持を得ようとしたのです。
劉備の右腕だったのが関羽です。関羽は1人で1万の兵に値すると言われた猛将。曹操からいくどとなく陣営に加わるよう勧誘されましたが、劉備に背くことはできないと断り続けました。
劉備だけでなく歴代の権力者もみなそろって重視した儒教の忠義。しかし、曹操はそれさえも否定しました。赤壁の戦い後、劉備らのライバルと戦うために新たな人材を求めた曹操。その布告の文面は儒教への挑戦状ともいうべきものでした。
どこぞの連中が洗練潔白な者だけを用いろと言うが、斉の桓公の逸話を知らないのか。
桓公は紀元前7世紀の名君。かつて自分を暗殺しようとした男を有能だからと宰相に抜擢。国を繁栄させました。
兄嫁に手を出し賄賂を受け取った者で口利き役に恵まれず士官できていない者はいないか。
これは紀元前2世紀に活躍した天才軍師・陣平のこと。誰にも採用されなかった陣平は親友の口利きのおかげで士官に成功。登用した主君は戦で勝利を重ねることができました。
そんな連中よ、顔を上げろ。今の世の中で肩身が狭かろうとかまわない。才能さえあれば私は用いる。
儒教の教えにとらわれず、有能な才能を求めた曹操。それまでになかった全く新しい国作りを目指していきました。
曹操と詩
実は、曹操は自ら詩を作りそれを政治に利用しようとしたと言います。
曹操が作り出したのは新しい文学でした。彼はメロディーをつけた詩を国中で歌わせました。曹操は自然の情景をただ詠むだけでなく、自らを月や枝に例えて心情を吐露しています。こうした詩を理解する者を曹操は徴用し、次々と重臣に抜擢しました。
7世紀に始まった官僚登用試験「科挙」でも詩を作る能力が求められるようになりました。
洛陽城遺跡
遺跡の発掘は2001年から中国の国家プロジェクトとして始まりました。現在、中心にある宮殿を発掘中だと言います。発掘によって、宮殿は曹操の魏の時代に築かれ、その後4世紀、北魏の時代まで200年間用いられてきたことが分かっています。
遺跡の発掘の過程で浮かび上がってきたのが、曹操が理想とした国の姿でした。魏の都は、前の時代の漢の都とほぼ同じ場所に作られました。しかし、その構造は全く異なっていました。漢の時代まで、都とはあくまで王のための場所でした。
築城以衛君
(「呉越春秋」より)
(城を築き以って君を守る)
都とはあくまで王を守るための空間であり、人々が住むことは許されませんでした。
一方、魏の都の設計思想は全く異なっていました。「正史三国志」によれば、その建設に最初に携わったのが曹操でした。曹操は、宮殿の数を減らす代わりにいくつもの通りを整備させました。荷車が通りやすいよう石を敷いています。都での人の移動やモノの流通をスムーズにするためでした。
王ではなく人々のために都を作ろうとした曹操。かつて黄巾の乱の原因になった飢饉についても、画期的な方策を考えだしていました。屯田制の改革です。
屯田制の改革
漢の時代にあった屯田制は、軍隊の食糧を調達するための制度でした。食料輸送が難しい戦地で戦う兵士に、近くの土地を与え開墾させました。戦争が終われば農地は国に返す必要がありました。
この屯田制を曹操は大きく改革しました。耕すのは兵士ではなく、戦争や災害で土地を失った人々。農具や種もみも全て支給し、新たな土地を開墾させました。規定の税を国に納めれば土地を返す必要もなく、ずっとそこで暮らし続けることができました。
220年、曹操は都の建設半ばで亡くなりました。
三国時代の終わり
曹操の死後、魏は蜀を滅ぼし臣下の司馬氏が台頭。曹一族にとって代わりました。そして280年、司馬氏の国・晋が呉を滅ぼし三国志の時代は終わりを告げました。新たな統一王朝となった晋は、曹操とは違い漢王朝の伝統に立ち戻りました。
晋の武帝が都・洛陽に立てた碑文にはこう書かれています。
「魏の時代は難しい時代だった。儒教が廃れていたからだ。」
晋は再び儒教を国教化したのです。その後も中国の歴代王朝は儒教を信奉し続けました。
やがて、儒教を重んじた劉備は称賛され、曹操には悪人という汚名がきせられるようになっていきました。
2007年に発見された曹操の墓で、曹操の頭蓋骨は破壊されていました。墓に入った盗掘者が曹操を悪人とし、乱暴に扱ったと推測されています。そんな長い不遇の時代を経て、曹操の再評価が進もうとしています。
「中国王朝 英雄たちの伝説」
反逆者 三国志の真実
~黄巾の乱から曹操へ~
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