反逆者 北京占領 ~李自成の乱からドルゴンへ~|中国王朝 英雄たちの伝説

中国に250年以上君臨し強固な支配を誇った明帝国ですが、17世紀前半大きく揺れていました。国内のいくつもの地域で民衆の反乱が勃発。東北の国境では満州族との戦いが続いていました。力を伸ばした満州族が長城を越える機会をうかがっていたのです。

 

李自成の生まれ

1991年、黄土高原の一角にある李継遷村で李自成(りじせい)が生まれた家が発見されました。窰洞(やおとん)とは、崖の斜面に横穴を掘って作った住居。この地域にはいくつも古い窰洞が残されています。村の人々は、李自成の時代からずっと窰洞で暮らしてきました。

 

李自成が生まれたのは明王朝の末期ですが、このころ災害が何年も続いていたる所で飢饉が発生していました。おびただしい数の人々が飢えが原因で命を失いました。極限まで飢えた時は土まで食べたと言います。

 

深刻な飢饉にも関わらず、農村では税の負担が増えるばかりでした。畑の収穫高を上回る税が課せられた大きな理由は戦争でした。東北の国境をおびやかす満州族などとの戦争を続けた明は、戦費調達のため臨時の税を何度も徴収。飢饉に苦しむ人々が救済されることはほとんどありませんでした。

 

李自成が反乱に身を投じた経緯

李自成の家は先祖代々農家でしたが、明の悪名高い制度に苦しめられました。養馬戸という制度です。これは国が所有する馬を人々に飼育させる制度。もし馬が死亡すると飼育を担当した家が弁償しなければならないという理不尽なもの。誰もが養馬戸となるのを恐れていました。ところが、李自成の家は何度も養馬戸を割り当てられ、弁償のため土地を売り没落しました。

 

やがて、成人した李自成は食べるために職を探しました。ようやく交通の中継点に置かれた役所に採用されました。しかし、国は経費節減のため人員を大幅に削減。李自成もリストラにあってしまったのです。

 

いかに努力し、いかに働こうと報われない社会の矛盾。李自成はついに反乱に身を投じることになりました。李自成が加わったのは出身地で蜂起した反乱軍。そこですぐさま頭角を現しました。勢いよく走る馬のようだと形容された李自成。勇猛で仲間たちから頼られました。さらに、義を重んじる人柄を慕い多くの農民が配下に加わりました。

 

反乱に参加して5年、李自成は仲間たちからリーダーになることを求められました。その後、李自成の軍は急速に勢力を伸ばし数十万人に。各地で蜂起した反乱軍の中でも一大勢力となっていきました。

 

李自成が率いる反乱軍が勢力を伸ばした理由は何だったのでしょうか?その理由はスローガンにありました。

「均田免賦」

李自成は身分に関わらず農地を均等に分け、一定期間税も免除すると宣言したのです。

 

人々に支持された背景

河南省にある康百万荘園は、明後期の大地主の住まいです。第六代当主の康紹敬(こうしょうけい)が家が繁栄するきっかけを作ったと言います。康紹敬は親しくなった官僚を接待院に招き、手厚くもてなしたと言います。そこで得た利権を使って膨大な利益をあげ、土地を買い集めたのです。

 

明の末期、大地主の増加が社会を蝕み、土地を奪われた農民たちが大量の流民となっていました。こうした流民たちが李自成の「均田免賦」というスローガンを熱狂的に支持したのです。

 

さらに、李自成は「追賍助餉(ついしょうじょしょう)」という新たなスローガンも掲げました。大地主などの財産を没収し、反乱軍の資金にあてることを宣言したのです。このスローガンの標的となったのが福王常洵、明の王族の一人でした。明の末期、王族たちも各地で広大な土地を所有していました。彼らには税の徴収を思い通りにできるという特権がありました。多額の税を取り立てたため、人々から激しく憎まれていました。

 

李自成が福王を襲ったのは、反乱に身を投じて10年目のことでした。反乱軍は大きな抵抗も受けず福王をとらえました。福王は体重180キロ、丸まると肥え太っていました。命乞いをする福王を李自成は叱責。そして、反乱軍の前で福王を殺害。その血と肉を混ぜ幸福を呼ぶ酒「福禄酒」と名付けました。これを反乱軍の兵士たちとすすりあったと言います。その後、李自成は福王の莫大な財産を没収し、飢えた人々に分け与えました。人々は次々と反乱軍に加わりました。

 

明王朝の腐敗

万暦帝は李自成が生まれた頃の明を治めていた皇帝です。万暦帝について資料はこう記しています。

明は神宗(万暦帝)に滅ぶ

彼が明王朝を滅亡に導いたと言うのです。

 

万暦帝の墓が発掘されたのは1957年。遺体は絹に金や銀の糸を織り込んだ錦という布で覆われていました。傍らには青花磁器をはじめ、いくつもの豪華な副葬品がおさめられていました。生前にかぶっていた金の冠もありました。

 

万暦帝は帝位にあった大半の期間、政治に関心を示さず浪費を重ねました。集まった税も個人のために使い国にとって必要な経費が不足。地方の役人に欠員が出ても補充されないほどでした。

 

皇帝だけでなくその周囲も腐敗していました。2010年、万暦帝の側近の墓が北京郊外で発見されました。出土した墓誌によると、墓の主が属したのは司礼監。皇帝に上奏する文書を扱う機関で、宦官だけで構成されていました。宦官とは去勢された官吏のこと。子孫ができないため、将来その一族が力を持つことはありません。皇帝の寵愛を受けると私的な使用人として権力をふるいました。

 

宦官に便宜をはかってもらうため名馬や珍しい宝物を賄賂として贈るものが後を絶たない

「明史」より

 

宦官の権力をより強くしたのは東廠という組織でした。東廠とは、宦官が支配したいわゆる秘密警察。官僚から市井の人々まで、その動静を監視しました。宦官たちは社会の隅々まで監視の網を張り巡らせていました。

 

明の半ば以降、宦官の政治を批判した多くの官僚が失脚を余儀なくされました。万暦帝の時代には有能な官僚たちが次々と政治の表舞台から遠ざかりました。宮廷を支配したのは贅沢に溺れる皇帝と宦官ばかりでした。

 

北京占領

1644年、李自成の軍は反乱軍の中でも最大の勢力となっていました。破竹の勢いで北京に向けて進攻。迎えうつために派遣された明の軍も戦わずして投降しました。ついに明の都・北京にいたった反乱軍は激しく攻め立てました。城内で迎えうつ明軍の士気は低く、戦いは2日で終わりました。李自成は農民たちを率いて堂々と北京に入場しました。李自成が反乱に身を投じてから13年、ついに中国の支配者となったのです。

 

李自成は自らにつかえる官僚を登用し始めると共に、皇帝即位の準備を始めました。しかし、その天下はわずか42日で終わりを告げることになりました。きっかけは満州族との戦いでした。

 

満州族との戦い

当時、勢力を拡大していた満州族に対して長城で国境の守りを固めていたのが呉三桂(ごさんけい)です。その呉三桂が満州族に寝返ったのです。李自成は自ら20万の大軍を率いて討伐に向かいました。

 

しかし、迎えうつ満州族と呉三桂の軍は強力でした。李自成の軍は壊滅的な敗北。軍の勢いは失われ、やがて紫禁城からの逃亡を余儀なくされました。

 

満州族は勝利の勢いのままに北京に入場。中国王朝の支配者となりました。

 

李自成はわずかな仲間と共に逃亡を続け、長江流域で命を落としました。一説には山の中をさまよっていたところを盗賊と間違われ、村人に殺されたと言います。

 

呉三桂が寝返った理由

北京に入った李自成にとって最大の課題は、軍を養い国を動かす費用をいかに捻出するかということでした。李自成は「追賍助餉」というスローガンの対象を有力な官僚や軍人にも広げ、大量の金銀の提供を命じました。ところが、これに多くの有力者が反発。李自成は応じない人々を処罰。呉三桂の父親も含まれていました。このことが呉三桂が寝返る原因の一つとなったのです。

 

李自成が反乱軍だった時には人々に熱狂的に支持されたスローガン。それは貧しい人々の願いにこたえるものでした。しかし、国を治めるにあたってはそのどれもが現実的なものではありませんでした。李自成は新しい時代を切り開くことができないまま歴史の舞台から去ったのです。

 

満州族

満州族とは、古くから中国東北部に分布した民族です。騎馬の技術にたけ、勇猛さで知られていました。17世紀に入ると力を蓄え、虎視眈々と明を狙っていました。李自成の乱に乗じて長城を越え、ついに都・北京を占領。新たな王朝・清を開きました。この時、軍を率いていたのは摂政王ドルゴン。彼が礎を築いた清は、その後250年以上に渡って中国に君臨することになりました。

 

反乱直後の中国をどのように統治したのか?

人々の暮らしを良くするために刑罰を軽くし税を軽減する

賄賂を受けた者はどんな大きな功績があったとしても決して登用し続けることはない

 

ドルゴンは苦しんできた人々には寛容に、官僚たちには規律正しく清廉であることを求めました。かつて李自成が乱を起こして正そうとした社会の矛盾に速やかに対応したのです。

 

さらにドルゴンは農民たちへの対策も着実に進めました。土地を失った人々に荒れ地を分け与え、開墾を奨励。その土地の税は3年間免除しました。李自成の均田免賦とは異なり、将来の税収を見越した現実的な政策でした。さらに、明の官僚たちも積極的に登用。新しい政策の実現にあたらせました。

 

ドルゴンのミイラ?

2006年、北京市内の工事現場で一体のミイラが発見されました。このミイラはドルゴンである可能性があると指摘され大きな話題を呼びました。その理由の一つとされたのはミイラの左足。6本の指がありました。満州族の人々の間では、ドルゴンの一族には6本指の者がいると言い伝えられてきました。さらに、ミイラは龍の刺繍のある服を着ていました。龍は漢民族の間では皇帝の象徴です。

 

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