戦国の風雲児である織田信長の天下統一への原動力となったのは、若き家臣たち親衛隊の存在です。多くは織田信長が若い頃に自ら声をかけスカウトした変わり者ばかりでした。
若き信長の孤独
織田信長
天文3年(1534年)、織田信長は尾張で生まれました。父はこの地を治めていた有力武将の一人である織田信秀。信長はその嫡男でした。
しっかり勉強するようにと言われて寺にやってきた信長ですが、手習いもそこそこに習字の紙を松の枝にひっかけると、そのまま寺を抜け出して近所の子供たちと遊びに行ってしまったと言います。人から命令されるのが大嫌いで、自分がやりたいと思ったら即行動という少年でした。
年頃を迎えてもその振る舞いは自由奔放で、町を歩く時もだらしない服装でブラブラ。裾の短い袴に腰には荒縄と瓢箪。およそ織田家の嫡男とは思えない行儀の悪さに人々は信長を「大うつけ」、非常識な愚か者だと噂しました。
重臣たちも跡取りらしからぬ信長の行いに眉をひそめ、織田家の行く末を心配しました。そんな中、父・信秀だけは周囲がなんと言おうと信長を温かく見守り続けました。
ところが天文21年(1552年)、最大の理解者である父・信秀が病死。信長は若くして家督を継ぐことになりました。しかし、重臣たちは信長を軽んじ、弟・信勝に心を寄せるように。信長は城を飛び出し自ら家臣をスカウトし出しました。
相撲大会では見事な取組を披露した力自慢の相撲取りを、諸国を回って見聞を広めている巡礼者を次々と家臣に取り立てていきました。能力さえあれば誰でも家臣になれるという評判が広まると、直訴する者も現れました。平野甚右衛門(ひらのじんえもん)は、後に家臣の中で一番武勇に優れていると評価されるようになりました。
集まった男たちは、多くが長男でないという共通点がありました。通常、武士の領地を受け継ぐのは長男です。次男以下の弟たちはただの居候です。そのため一人前とは認められず、日々肩身の狭い思いをしていました。
信長は彼らを可愛がり豊臣秀吉は「はげねずみ」、平野甚右衛門は「津島小法師」など一人一人にあだ名をつけました。
親衛隊よ!立ち上がれ
今川義元
天文23年(1554年)、尾張に危機が訪れました。三河・遠江・駿河を支配する今川義元が尾張の信長領に侵攻してきたのです。信長はただちに織田家全軍を動員するべく重臣たちを集めました。
ところが、代々織田家に仕えてきた林秀貞と弟の林通具が出兵を拒否。やむおえず信長は織田家全軍の3分の1にも満たない親衛隊を引き連れ砦に急行し、日の出と共に攻撃を開始しました。9時間にわたる激戦の末、信長はようやく砦を攻め落とし今川義元の侵攻を食い止めました。
しかし、信長の本陣に喜びはありませんでした。親衛隊は死体の山ができるほど犠牲をだし、目もあてられない有様だったのです。
それから信長は親衛隊の強化に取り組みました。まずは武器の改良。槍の長さを一般的に使われる4mから6mを超えるものに変更。長ければ長いほど敵に届きやすく有利になります。
しかし、長い槍は最初の一突きをかわされると逆に不利になってしまいます。そこで信長は戦い方も一新。槍を持つ者を集め、みなで一斉にかまえさせる戦法「槍ぶすま」を導入。個々の力は弱くても集団で戦えば力は数倍になり犠牲をおさえられます。
さらに、信長が訓練で盛んに行ったのが鷹狩り。獲物を探しに行く鳥見という役割はそれまで一人一人バラバラに行かせていましたが、2人1組にし獲物を見つけると一人が信長に報告し、もう一人はそのまま見張ります。信長が到着するまで見張り続けるため、多少獲物が移動しても逃すことがありません。狩の成功は鳥見がもたらす情報によって決まると信長は鷹狩りを戦に見立て、情報をつかんだ者が勝つと繰り返し親衛隊に説きました。
また、信長は親衛隊を素早く動かす仕組みも整えました。当時、一般的に家臣は大名の城から離れたところに領地を持ち農業を営みながら暮らしていました。大名が兵を集める時は領地から城へ馳せ参ずるため時間がかかりました。
一方、信長の親衛隊は領地を持たない次男以下だったため、彼らを城近くに住まわせました。これなら戦の時、一声かければすぐにでも動員できる上、集団訓練も頻繁に行うことができます。
信長と親衛隊 目指すは天下!
弘治2年(1556年)、織田家は信長の親衛隊と古参の家臣が対立していました。最大の障害は重臣の林秀貞と林通具。林兄弟は信長に反旗を翻し弟・信勝を織田家の当主にすえようと画策していました。
信長は親衛隊を残し一人で林兄弟の城を訪れました。しかし、林兄弟との話し合いは決裂。2日後、林兄弟が挙兵し、それに呼応して信長の弟・信勝をはじめ尾張の東半分にある城の武将たちが一斉に蜂起。1700の兵で信長の城を目指してきました。
これに対して、信長は親衛隊700人と共に出陣。林軍の勢いはすさまじく、親衛隊は次々討たれていきました。
敵の大将である林通具は、自身の刀を手に前線に立ち信長軍相手に暴れ回りました。親衛隊の一人である黒田半平が林通具に斬りかかりました。2人の斬り合いは数時間にも及び、黒田半平は左手を切り落とされてしまいました。
しかし、信長が現れ林通具は斬られました。大将を失った林軍は総崩れ。戦いは信長軍の勝利に終わりました。
親衛隊の力によって謀反をおさえた信長は、名実共に織田家を統一。戦国大名として天下に名乗りを上げることになりました。
親衛隊は信長を今なおそばで守り続ける
桶狭間の戦いに勝った信長は、その後も数々の強敵を破りました。それらの勝利の原動力はやはり親衛隊でした。
天下統一を目前にした天正10年6月2日、本能寺に泊まっていた信長を明智光秀が襲撃。この時、親衛隊は別の場所に宿をとっており信長のもとにはわずかな供回りしかいませんでした。燃えさかる炎の中、信長は49歳で生涯を終えました。
知らせを聞いた親衛隊はわずかな手勢で明智軍に突撃。激戦を繰り広げ散っていきました。その数112名。
京都の阿弥陀寺には、信長の遺骨を葬ったという墓がたてられています。周りには親衛隊112名の墓が信長を囲むようにたっています。信長に愛された男たちは最期の瞬間までその恩に報いようと力の限りを尽くしたのです。
「歴史秘話ヒストリア」
俺たちノブナガ親衛隊
~織田信長と家臣たち 青春の絆~
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