反逆者 挫折と革命 ~太平天国の乱から孫文へ~|中国王朝 英雄たちの伝説

洪秀全の生い立ち

洪秀全(こうしゅうぜん)は1814年、広東省広州の官禄坿の農家の三男として生まれました。洪秀全の家族は客家(はっか)に属していました。客家には「よそ者」という意味があります。過去の王朝が滅んだ時などに故郷を追われ流民となった漢民族の人々です。

 

18世紀以降、客家は広東省に多く移住。その大半が大地主のもとで小作農として働いていました。客家の人々は地元の小作農よりも安い賃金で働いたため、働き口を奪う者として敵視されることも多く、自衛のためにかたまって暮らしていました。

 

家は貧しかったものの洪秀全は幼い頃から勉強熱心だったため、両親は自分たちの食べ物を減らして塾の費用を工面しました。全ては洪秀全を科挙に合格させるためでした。

 

科挙とは中国で7世紀から続いてきた官僚の採用試験。主な授業は儒教と詩作。男性であれば身分を問わず受験をすることができた。

 

洪秀全は7歳から塾に通い、14歳から15年間で4回科挙を受けたものの全て落ちてしまいました。洪秀全が通った塾には優秀な教師はおらず、勉強は半ば独学でした。

 

この頃、科挙の試験制度に深刻な問題が起きていたことが近年分かってきました。科挙を受ける学生の管理をする「学政」と呼ばれる官僚がいて、広東学政だった李泰交が1834年の正月に自殺。自殺をした時の遺書にはこう書かれています。

 

答案用紙に記しが書き込まれ、採点監がそれを目印に手心を加えているようです。一目見ただけでは分からない巧妙な暗号が書きこまれたものもあります。こうした不正をする受験者も愚かですが、それを受け入れた採点監も愚かです。こんな不正を取り締まることができなかった私は死をもって詫びるしかありません。石に落ちる一滴の水のようなものですが、誰か私の声に耳を傾けて下さることを願います。

 

受験者と採点監が共謀した深刻な不正。背景にあったのは科挙の倍率の急激な上昇でした。

 

17世紀には人口8000万人前後だった清は、洪秀全が生きた19世紀には4億に。科挙の試験がますます狭き門になる中、実力での合格を諦め不正を働くケースが増えていました。不正を告発した監督官の自殺。清王朝は公にしませんでしたが、受験生だった洪秀全には伝わっていたかもしれません。

 

清王朝の支配に綻びが見え始めた19世紀。この頃、中国の利権を狙い欧米列強が侵出。1840年、イギリスとの間でアヘン戦争が勃発。清は大敗。時代は大きな転換点を迎えていました。

 

キリスト教との出会い

19世紀、欧米の宣教師たちは積極的な布教活動を行っていました。洪秀全がキリスト教と出会ったのは19歳の時。宣教師が街角で配布していた布教パンフレットを手にしたのがきっかけでした。

 

儒教は嘘に満ちていませんか?みなさん幼い頃から儒教の勉強を続けてきたのに70歳80歳になっても科挙に合格できない者がいるなんて。

(布教パンフレット「勧世良言」より)

 

洪秀全はこのパンフレットをずっと持ち歩いていたと言います。

 

23歳の時、洪秀全は3度目の科挙の受験に失敗。失意の中で帰宅した自宅で不思議な夢を見ました。

 

夢の中、天にのぼった洪秀全。金髪で黒い服を着た一人の老人と出会いました。「洪秀全よ、まずそなたの体を清めよう」そういって老人は洪秀全の内臓を全て取り去り、代わりに新しい真っ赤な臓腑を埋め込みました。そして老人は剣を渡して「そなたの天命はこの剣をふるい腐敗した世を正しい方向に導くことだ」と言いました。

「太平天日」より

 

その後、もう一度科挙を受験するも不合格に終わった洪秀全。ついに、夢の教えに従うことを決意しました。

 

洪秀全は独学でキリスト教を学び始めました。その新しい価値観こそが腐敗した世を変える力だと信じたのです。

 

上帝教設立

洪秀全は30歳の時に上帝教という教団を設立。当初は聖書に基づく布教をしていましたが、信者はなかなか集まりませんでした。

 

洪秀全は上帝以外は神ではないとし、儒教や道教の寺院を仲間と共に破壊。さらに、そこに神のお告げが下り、洪秀全は神の息子でありキリストの弟だということに。異端ともいえる教えでしたが、多くの人々が洪秀全の言葉に耳を傾け崇めるように。3年で信者の数は2万にもおよびました。その信者のほとんどが貧しい客家の人々でした。

 

客家の人々が加わった背景には清への強い不満がありました。アヘン戦争で破れ、巨額の賠償金を背負った清は土地の税を増額。その負担が重くのしかかったのが小作農だった客家の人々でした。

 

太平天国の乱

1851年、37歳の洪秀全は兵を挙げました。太平天国の乱の勃発です。突然起きた反乱に清が後手にまわる中、洪秀全たちは南部の都市を次々攻略していきました。

 

太平天国軍のことを清は「長髪賊」と呼びました。国が決めた髪型・辮髪を結っていなかったからです。辮髪は清を支配する少数民族、満州族独特の風習です。17世紀に清王朝ができて以来、国の大多数を占める漢民族を始め全国民に強制されてきました。

 

しかし、ほとんどが客家、すなわち漢民族だった太平天国軍の兵士は腐敗した清の支配に反発。辮髪をほどいたり切り落としたりしました。太平天国の乱は満州族を倒し漢民族を復興させる滅満興漢の戦いでもあったのです。

 

太平天国軍が陣頭に掲げていた旗にはこう書かれています。

 

専斬臨陣退縮
(陣にのぞんでもし下がればもっぱら斬る)

 

敵を前にして逃げ出した者は即座に殺すということです。この決死の覚悟を支えたものは何だったのでしょうか?

 

太平王洪秀全檄文

2001年、太平天国の意外な遺品が見つかりました。発見したのは地元の歴史研究者・李強さん。見つかったのは「太平王洪秀全檄文」です。「太平王洪秀全檄文」は洪秀全が人々に反乱への参加を呼び掛けたビラです。

 

檄文の発見は大々的に報じられました。太平天国の乱に関する記録は、清王朝が燃やしてしまったため極めて貴重なものです。ビラは反乱の初期に出されたものでした。強調されているのはキリスト教の教えでも満州族への反発でもなく、どんな新しい国を築くかということでした。

 

我々は一つでも優れた技能がある者は身分を問わず千人のリーダーにします。富める者が分け与え貧しい民が決して見捨てられないようにします。もし権威をかさに貧しい者から略奪する者があれば、誰であろうと即刻処刑します。

 

身分を問わずに人材を登用する、貧富の差をなくす。洪秀全は全く新しい平等な世の中を築くことを宣言していました。

 

洪秀全が目指した世界

洪秀全はこの社会を支配する皇帝という存在にまで疑問の目を向けていきました。

 

神である上帝以外には帝などと名乗らせてはいけない。帝などと名乗る大それた者は永遠に地獄に落ちるだろう。その罪の先駆けは秦の政である。

(洪秀全「原道覚世訓」より)

 

秦の政とは始皇帝のこと。洪秀全は始皇帝以来2000年続いてきた皇帝支配の歴史そのものを否定したのです。20世紀に訪れることになる皇帝なき世界。それを最初に目指したのは洪秀全だったのです。

 

太平天国の建国

洪秀全たちは挙兵して2年で南京に迫りました。清は高さ20メートル、全長25キロもの城壁で守りを固めていました。清に比べ装備に乏しい太平天国軍でしたが、士気高く一気に城壁をのぼりました。当初2万人だった反乱軍は20万人にまでふくれあがっていました。その圧倒的な数を前に清の軍はなすすべなく敗れ去りました。

 

洪秀全は南京という地名を「天京」と改め、ここを都とする太平天国の建国を宣言。当時、南京に住んでいた90万の人々もそのまま太平天国の国民となりました。以後11年にわたり南京を治めた太平天国。彼らはどのような社会を築いたのでしょうか?後にその痕跡は破壊されたため謎に包まれてきました。

 

太平天国の国民になることを願い各地から様々な階層の人々が集まりました。

 

南京占領から2年後、太平天国軍は清の都・北京の攻略を目指しました。しかし、これが衰退へのきっかけとなりました。清に向かった軍が清の軍に大敗したのです。その理由は、南京から食料が届かず食料不足に陥ったためでした。

 

太平天国の限界

太平天国軍は最初に蜂起した時から、全員で食料や財産を出し合い均等に分配していました。そのため、南京をおとした後も90万人の市民から食料を集めて倉庫に納めた後、軍と市民に均等に分配しようとしました。

 

人数が膨れ上がりすぎ、90万人から食料を集めるのも分けるのも難しいものでした。どうするか迷っているだけで北京へ行った軍隊に食料を届けることができませんでした。

 

北京攻略の失敗後も洪秀全は平等であることにこだわり続けました。洪秀全は巨大な倉庫「聖庫」をいくつも作らせ、人々が財産を提供してくれるのを待ちました。しかし、人々は応じませんでした。太平天国の高すぎる理想に戸惑いや疑問を感じる人が増えていたのです。

 

やがて、太平天国は収穫や収入の一部を税として集めるようになり、平等の理想は失われていきました。

 

太平天国が勢いを失う中、清は次第に攻勢に転じました。その最大の力となったのはアメリカやイギリスなど欧米列強からの援軍でした。当初、列強は太平天国と友好関係を築こうとしました。しかし、求めていたアヘンの取引などを洪秀全に拒否されました。そこで、取引を認めた清に手を貸したのです。

 

反乱の末期、洪秀全は側近に政治をゆだね、言われるがままに判を押し続けたと言います。着ていた服の黄色は、皇帝だけに許された色。その姿は洪秀全が否定しようとした皇帝そのものでした。

 

太平天国の終わり

劣勢に転じた反乱軍が、再び勢いを取り戻すことはありませんでした。占領した都市を次々失った太平天国軍。1864年、ついに南京も清の軍隊に包囲されました。南京にこもる反乱軍は食料もなくなり、絶望的な状況に陥っていました。

 

洪秀全は庭に生える雑草を神が与えてくれた食料に違いないと周囲に勧めました。しかし、誰も従わず一人口にし続けたと言います。清の軍の包囲が続く中、洪秀全は病でこの世を去りました。享年50。

 

洪秀全の死から1カ月後、南京は陥落。清の軍は洪秀全の遺体を掘り出し焼き払いました。貧しい農民だった洪秀全が、蜂起してから13年。太平天国の乱は終わりました。

 

孫文

孫文は洪秀全と同じ広東省で生まれました。生まれたのは太平天国の乱終結から2年後でした。孫文の父は農業のかたわら出稼ぎで生計を支えました。

 

幼い頃、孫文は太平天国軍に参加した村人から洪秀全の話を何度も聞かされていました。後に側近となった胡去非によれば、自分のことを「洪秀全第二」と呼んでいたと言います。

 

36歳の孫文が書いた「太平天国戦史」は清王朝の目を逃れるため日本で出版されました。この頃、すでに革命運動に身を投じていた孫文は、太平天国の戦いを徹底的に分析していました。

 

洪秀全が失敗したのは、彼が武力で劣っていたからではない。はっきりしたのは彼には戦う前の準備が足りなかったことだ。

 

孫文は革命を推し進める上で「外交」と「革命資金の調達」を重視しました。孫文は、アメリカやイギリス、日本などを頻繁に訪れ中国の近代化の必要性をとき、援助を求めました。孫文の外交活動は功を奏しました。清王朝は次第に列強の支援を失い孤立していったのです。

 

さらに、孫文は海外からの資金調達に奔走。日本でも犬養毅や渋沢栄一などと交流し調達に成功。こうして得た莫大な資金を中国各地の革命勢力に送りました。

 

そして1911年10月、中国各地で革命勢力が一斉に蜂起。辛亥革命です。1912年、清の皇帝・溥儀は退位を決断。清王朝は滅びました。

 

1912年、孫文は中華民国の初代臨時大総統に就任。就任時の宣言書で孫文は革命の総決算とも言うべき理想をときました。「五族共和」です。

 

五族とは漢民族や満州族など清王朝の時代の主要な5つの民族のこと

 

その5つの民族が違いを越えて一つになることを説いたのです。

 

かつて、皇帝なき平等な世を目指しながらも満州族打倒をとなえ続けた洪秀全。それに対して孫文は、満州族も含む多様な民族もあってこその中国だと宣言したのです。洪秀全に憧れ、その失敗を学び続けた孫文。彼は周囲にどれだけ推されても、最後まで皇帝になろうとすることはありませんでした。皇帝の時代は孫文によって終わりを告げたのです。

 

孫文が最も大切にした言葉があります。

天下為公
(天下は公のため、民のためにある)

 

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