左手のピアニストとして今注目されている智内威雄(ちないたけお)さんは、ピアノ演奏の新しい地平を切り開いています。
ピアノの曲は普通両手で弾くことを前提に書かれています。右手はメロディーを左手は伴奏を、両方が合わさって幅広い音域と豊かなハーモニーが生まれます。
左手のピアノ曲はどうしても弾ける音が少なくなります。そこからどうやって豊かなハーモニーを作り出すのか、その秘密はペダルにあります。踏む加減ひとつで音の響きをコントロールしていきます。
音の響きを伸ばしていけば音と音とが重なりますが、伸ばしすぎると不協和音に。その微妙な加減で豊かなハーモニーを作り出すのです。
実はブラームス、ラヴェル、スクリャービンなど世界の名だたる音楽家たちも左手のピアノ曲を作曲しています。
左手のピアニストとして世界的に知られる智内威雄さんは、この世界を独力で切り開いてきました。2013年に演奏活動10周年を迎える智内威雄さん。左手のピアノ曲の可能性を今まで以上にアピールしたいと集大成のコンサートを秋に考えています。
智内威雄さんは、3歳のときからピアノを始め27歳で左手のピアニストに転向しました。それは局所性ジストニアという病気がきっかけでした。普段の生活では右手は問題なく使えますがピアノを弾くとなると右手が意思に反して勝手に動いてしまうのです。物を持つ、字を書くなど日常生活に問題がなくてもピアノに向かうと右手がいうことをきかなくなるのです。原因や治療法がまだ解明されていない難病です。
それでも智内威雄さんは病気を嘆くのではなく、新たな飛躍のきっかけにしようとしてきました。左手用の楽譜を世界に探し演奏法を研究、普通のピアノ曲に負けない演奏をみせようと考えたのです。10年の苦闘の末に左手のピアニストとして認められてきました。
智内威雄さんは、画家の父親と声楽家の母親のもとに生まれました。物心ついた頃から自然と音楽に囲まれ、気づいた時にはピアノの前に座っていました。早くから才能を認められ東京の音楽大学に特待生として進学。大学卒業後はクラシックの本場ドイツの音楽大学に進みました。1年目でイタリアの国際ピアノコンクールで3位入賞。世界的なピアニストに向けて階段を着実に上っていました。
希望に燃えたドイツ時代、運命を一変させる出来事が起こりました。右手が突然違和感に襲われたのです。智内威雄さんは音楽家の治療では世界的権威エッカート・アルテンミュラー医師に救いを求めました。医師の診断は局所性ジストニア。原因も治療法もわからないピアニストにとって致命的な病気でした。
アルテンミュラー医師によると、音楽家の50人に1人が発症していると言います。患者は思うように指が動かないのは自分の技術不足と考え、猛練習で克服しようとしてかえって悪化させるケースが多いと言います。
一時的な症状だと考えていた智内威雄さんですが、一生治らない可能性をアルテンミュラー医師から伝えられました。智内威雄さんは指揮者への転向を進められましたが、幼い頃からのピアニストの夢を諦められませんでした。
そんな智内威雄さんに声をかけたのが、ハノーファー音楽演劇大学のE.S.ネックレベング教授でした。左手だけで演奏できる曲があると教えられたのです。
ヨーロッパでは左手だけで弾くピアノ曲が300年前から作られています。例えばロシア出身の有名ピアニスト、アレクサンドル・スクリャービンが作曲した前奏曲と夜想曲は右手を故障したスクリャービンが左手だけで弾けるように書いた名曲です。両手で弾く曲とはまた違った表現にピアニストとしての新しい世界を見つけました。
しかし、左手の曲は演奏技法がほとんど伝えられていません。先生もおらず模範となる演奏もありません。ひたすら一人で140年前に書かれた楽譜と向き合い格闘する日々。両手で弾くことに慣れたピアニストにとって戸惑いの連続でした。
また苦労に苦労を重ねたのがペダル使いでした。ダンパーペダルを駆使して一つ一つの音に響きという厚みを加えます。ペダルの踏み方を加減することでピアノ全体の響き方を変えるのです。
世界には傷ついたピアニストが数多くいます。両手が使えなくても夢を諦めるなと智内威雄さんが始めたのが、自身が運営するインターネットサイトで自ら編み出した左手の演奏技法の公開です。ピアニストにとって指の運びは企業秘密ですが、それをあえてハッキリと分かるように見せています。左手のピアニストを目指す人が参考にできるように、技を学べるようにと考えてのことでした。
そんな智内威雄さんが今ぶつかっている壁は、楽譜が少ないという現実。左手の曲は300年の歴史がありますが、弾く人が少ないため多くが埋もれたままになっています。図書館や専門店を捜し歩いています。
左手の曲といえば礎を築いた音楽家がいます。20世紀前半に活躍したオーストリアの名ピアニスト、パウル・ウィトゲンシュタインです。ウィトゲンシュタインは27歳の時、第一次世界大戦に従軍。戦闘で右腕を失いました。左手だけでも演奏を続けたいという執念から、ウィトゲンシュタインはラヴェルやブリテンなど当時を代表する作曲家に左手の曲を依頼しました。依頼に応じて数多くの左手の曲が書かれました。
ところが、ウィトゲンシュタインの死後、楽譜の多くは行方が分からなくなりました。智内威雄さんは掘り起こしをこつこつと続けています。曲が見つかるたびにネットで公開し、沢山の人に弾いてもらいたいと考えています。
「ETV特集」
左手のピアニスト
~もうひとつのピアノ・レッスン~
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