戦闘配置されず~肢体不自由児たちの学童疎開~|ETV特集

NHK・Eテレの「ETV特集」で戦闘配置されず~肢体不自由児たちの学童疎開~が放送されました。戦争末期に国が行った学童疎開。アメリカ軍による空襲の危機が本土に迫る中、大都市の子供たちは安全な地方の農村地帯に移されました。それは子供たちを次世代の戦力として温存する学童の戦闘配置とされました。しかし肢体不自由児たちは学童疎開から取り残されました。そのことは肢体不自由児の学校に残されているフィルムが物語っています。空襲が始まっても子供たちはやむなく避難生活を都内の校舎で送っていたのです。肢体不自由児たちはなぜ学童疎開から取り残されたのでしょうか?

 

東京世田谷にある都立・光明特別支援学校は日本で初めての肢体不自由児の学校として昭和7年に開校しました。肢体不自由児とは主に脳性麻痺や筋ジストロフィーなどによって手や足などに障害がある子供です。現在、光明学校では小学生から高校生まで約150人が学んでいます。2年前の創立80年を機に学校に残されていた資料や写真の検証が進められています。元教諭の松本昌介さん(78歳)は在職中に偶然、開校当時からの古い資料を見つけました。松本さんが見つけたのは今から70年近く前の光明学校の疎開生活を記録した資料でした。さらに学校の倉庫からは16ミリフィルムも出てきました。そこには太平洋戦争末期に東京世田谷の校舎で子供たちが集団生活した様子も映されていました。校舎で避難生活をしたので教員たちは「現地疎開」と呼びました。昭和19年の秋までに東京の子供たちのほとんどが地方へ疎開していきました。開戦から2年が経ち太平洋戦争は日本の敗色が濃くなっていました。日本政府はアメリカ軍による本土への空襲が迫っていると考え、昭和19年1月、大都市の工場や家屋の疎開を決定。空襲に備えて一部の木造住宅密集地の建物を壊したり工場の移転を行いました。さらに6月、閣議決定で大都市の児童たちを学校ごとに地方へ集団疎開させることを決めました。その実施要領により東京都など対象の各都道府県が疎開の手はずを整えることに。宿泊施設・移動手段・引率教職員の体制・疎開先での教育内容を整え、経費の一部も国が工面しました。ところが、国が推し進める学童疎開の対象から虚弱児童は外されました。虚弱児童の項目には肢体不自由児もあげられました。国は疎開の目的を「人的にも物的にもいわゆる戦闘配置を整え国家戦略の増強に寄与せしめることを狙っておるのであります」と述べていました。国の方針に基づいて東京都長官は「帝都ノ学童疎開ハ将来ノ国防力ノ培養デアリマシテ学童ノ戦闘配置ヲ示スモノデアリマス」と明言。光明学校のあった世田谷区では国民学校33校すべてが長野県や新潟県に疎開が決まりましたが、唯一光明学校だけが取り残されました。当時の校長である松本保平さんは光明学校も集団疎開に入れてもらおうと東京都に直接掛け合いましたがダメでした。そこで松本校長は昭和19年7月、当時はまだ農地が広がっていた世田谷の校舎で子供たちと合宿生活をすることにしました。都心から通う生徒が多かったので、ここに避難させる方が安全だと考えてのことでした。当時、光明学校に通っていた115人のうち59人が親元を離れて学校に寝泊りすることに。校庭には防空壕を4つ作り子供たちと教職員150人が避難できるようにしました。

 

昭和20年3月10日、東京大空襲が起こり光明学校の子供たちは世田谷の校庭から燃える町を見ていました。東京大空襲を見て危険を感じた松本校長は一人で疎開地を探しに出かけました。真っ先に向かったのは東京からの疎開を多く受け入れていた長野県。空きがあるかもしれないと紹介されたのは旧・上山田村でした。しかし、訪ねた役場では村長が会ってくれず追い返されました。そこで松本校長は村中のホテルや旅館に直接お願いに回りました。温泉組合の役員たちは松本校長の様子をみかねて村長を説得。ついに村長との面会が実現したのです。そして村長は松本校長の一途さにほだされ頼みを聞き入れることにしました。こうして光明学校の子供たちの疎開に村長が経営する宿を貸してもらえることに。疎開先は確保できましたが、次はそこまでに移動手段が必要でした。そこで松本校長は鉄道局に3日通い続け、客車1両を貸し切ってもらえることになりました。さらに子供たちの治療器具の輸送という課題もありました。そこで松本校長は学校近くの陸軍の部隊長に直訴。トラック10台で治療器具を運搬してもらえることになりました。そして昭和20年5月15日、光明学校の子供たち50人と教職員、付き添いの親などを連れた列車が上野駅を出発しました。そのわずか10日後、東京の世田谷が空襲に見舞われ光明学校の校舎は焼け落ちてしまいました。

 

昭和20年8月、太平洋戦争が終わりました。疎開していた普通学校の子供たちは次々と親の元へ戻り、ほとんどの疎開児童は終戦翌年の3月までに親元に帰りました。しかし松本校長たちは子供たちと東京に戻ることに不安を拭えませんでした。校舎が焼け再建のめどは立っておらず、そのまま廃校になるかもしれなかったのです。松本校長たちは上山田村で光明学校の運営を続けて行くことにしました。その結果、50人の子供たちのほとんどが上山田村に残ることになりました。しかし疎開が終了したことで国の補助金は打ち切られ、教職員たちは農家をまわり村の人たちから食料を提供してもらいました。一方、松本校長は上京して文部省にかけあい2ヵ月後、再び補助金を出してもらえることに。昭和24年5月、光明学校の新校舎が完成し子供たちが東京に戻ってきました。松本校長と子供たちの戦争が終わりました。

 

昭和22年、中学までの教育を義務化する新しい制度が始まりましたが、肢体不自由児の義務教育化は実施されないままでした。松本校長は再出発した光明学校で肢体不自由児たちの教育の充実を訴えていきました。昭和29年、全国の教育研究者の大会に出席し「肢体不自由児も教育を受けることで有能な社会人となる」「各県に少なくとも1校の肢体不自由児の学校」「全国300の特別学級を早急に設置して欲しい」と訴えました。そして昭和31年に公立の養護学校の設置を促進する法律が制定され、肢体不自由児の学校は全国各地に作られていきました。すべての肢体不自由児に学校教育を受ける権利が保障されたのは昭和54年。ここに肢体不自由児の義務教育が実現したのです。すでに退職していた松本校長はこの時、病に倒れていましたが、その直前まで肢体不自由児たちのために国会へ足を運んでいたと言います。




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