自由はこうして奪われた ~治安維持法 10万人の記録~|ETV特集

治安維持法が制定されたのは大正時代末期の1925年。第一条には国体の変革や私有財産制度の否認を目的とした結社を作り加入した場合は、10年以下の懲役または禁錮に処すとあります。具体的には何を取り締まるために作られたのでしょうか?

1917年、ロシアで革命が起こりました。搾取にあえぐ民衆が皇帝を追放。共産主義社会を目指す世界初の政権を樹立しました。その影響は日本にも。大正デモクラシーの中、共産主義の思想が徐々に広がっていきました。政府は普通選挙法の成立を間近に控え、共産主義が勢力を伸ばすことを恐れていたのです。

司法大臣・小川平吉は治安維持法の目的を次のように述べています。

我が国に於いても共産党なるものが組織せられるという次第である。この危険は国家の為に社会の為に防衛しなければならぬ。

こうして生まれた法律が、なぜ多くの人たちを巻き込むことになったのでしょうか?

NHKは司法省や内務省などの公文書400点余りを集め、検挙者に関するデータを抽出し分析。日本国内の検挙者は把握できただけで6万8332人いることが分かりました。

施行から4年目の1928年、それまでほとんどいなかった検挙者が一気に3426人と前の年の170倍に急増。何があったのでしょうか?

三・一五事件

1928年3月、治安維持法による初めての大規模な検挙が行われました。三・一五事件です。全国で共産党の関係者とされた1600人余りが捕まりました。

大竹一燈子さん(104歳)はその時捕まった一人です。母・房子さんと義理の父・三田村四郎さんが共産党員でした。当時、大竹さんは両親から共産党員であることを知らされていなかったと言います。

その日、札幌の警官隊が一家の自宅に突入。大竹さんは母親と共に留置所に連行されました。両親の交友関係などについて取り調べを受けました。

「わかりません」「知りません」をくりかえすうち、刑事は怒りに顔を赤くして怒鳴りはじめ私の頬を何回かなぐった。

男はやさしげな声音でテーブルの上に出した私の片手をやわらかく取ったと思うと、いきなりかたわらにある鉛筆を私の指にはさみ大きな手に力をこめて握った。骨が折れるかと思うほどの痛さに私はワッと泣き出した。

(大竹さんの手記より)

拘留は40日間に及びました。

特高

三・一五事件で捜査を主導したのが内務省のもとにあった特別高等警察(通称・特高)です。

任務は国家に不満や批判を抱く人々を監視し、社会変革を未然に防ぐことでした。中でも共産主義者は最も重要な監視対象でした。

事件が起こってからでは特高警察にとっては汚点になる。事件を起こさないかたちで予防的に運動を抑えていく。予防警察としての性格が強かったと思います。

(小樽商科大学名誉教授 荻野富士夫さん)

三・一五事件のきっかけとなった特高の捜査資料が見つかりました。潜伏させていたスパイがつかんだ共産党に関する極秘情報。70人にのぼる幹部のリストには三田村四郎の名前もありました。しかし、全国に広がる地方組織についてはメンバーの名前やその人数も特定できていませんでした。

そこで、特高は全国31道府県の警官を動員し、疑わしい人物や組織を一網打尽にしたのです。このため、捕まった人の中には大竹さんのように共産党員ではない人も数多く含まれていました。

誰が党員であるか、どこの組織の中にということは分からないから当時のそれぞれの地域の労働運動とか農民運動などの中心的な指導者たちをたぶんその中に党員がいるだろうという形で、おおざっぱな形で芋づる式に引っ張ってきて取り調べをする。

(小樽商科大学名誉教授 荻野富士夫)

谷岡健治さん(84歳)は事件の時、父親が特高の手伝いをしていたと言います。父が三・一五事件について残した記録がありました。そこには捜査での働きが評価され賞金を与えられたこと、事件がきっかけとなり特高に抜擢されたことも記されていました。

感激してるんですよ。この役だっていうので。天皇ですから、天皇の警官ですから。それに選ばれたということは、それこそ子孫に代々伝えるような誇らしいことであったんじゃないでしょうか。

(谷岡健治さん)

戦後、父はすぐに警察を辞めました。

うちの父は個人的にはユーモアあるし、自分が貧しい出でしたからね。困った者を見過ごしておけない。でも、それはそうでもやっぱり弾圧、仕事ですから。一言で言うと権力ですね。天皇の下の警官で。なっちゃうんですね。

(谷岡健治さん)

治安維持法による検挙者は三・一五事件の翌年以降も増え続け1933年には1万4622人。急増の背景には何があったのでしょうか?

二・四事件

1930年まで東京や大阪に集中していた検挙が、1931年以降地方でも増えていました。中でも顕著だったのが1933年の長野でした。

三浦みをさん(74歳)の父親が捕まりました。小学校で教師をしていました。父の立澤千尋さんは共産党との関わりは全くなかったと言います。

立澤さんが捕まったのは二・四事件。小学校の教師を中心に600人余りが検挙されていました。捕まった人の中に共産党員は一人もいなかったと言います。

治安維持法の改正

1928年、治安維持法は改正されました。目的遂行の為にする行為、通称「目的遂行罪」です。党員でなくても共産党の目的を手助けしていれば罰することができるというものでした。

目的遂行罪というのは、文章を配布したりとか、友人と社会科学の文献を読書会で読んだのも将来の共産主義社会を作るための行為だというふうに当局の方が認定すれば目的遂行罪となってしまう。これさえあればなんでも引っかけられる。取締をすることができる。取締の威力を倍増させていった。

(小樽商科大学名誉教授 荻野富士夫)

長野で起きた二・四事件で起訴された教師たちは目的遂行罪に問われていました。

当時、長野の農村は世界恐慌の影響で深刻な不況にみまわれていました。児童の中には身売りする者まで現れました。教師たちは組合を作り、教育費を国が負担することなどを訴えていました。こうした活動が目的遂行罪にあたるとされました。

しかし、立澤さんは組合のメンバーですらありませんでした。なぜ検挙されたのでしょうか?

その手掛かりが日記に残されていました。立澤さんは、仲間の教師に誘われ組合主催の研究会に参加していました。

立澤さんは一日取り調べを受けただけで罪には問われず釈放されました。しかし、検挙されたことが問題となり教壇から追放されました。

自分に国家を否定し現在の教育を否定する様な極悪な思想があったであらうか。勉強しろと言はれて本を見た自分の軽率を悔やむ。眼つぶればまぶたの中に子等の顔あり。耳をすばせば外にて先生と呼ぶ声きこゆ。

(立澤さんの日記より)

治安維持法の改正で目的遂行罪がもりこまれた背景には司法当局の意向がありました。きっかけは三・一五事件。この時、検挙した1600人余りのうち7割以上について共産党員であると特定できず釈放せざるおえなかったのです。この事態に当局は危機感をつのらせていました。

党員ではないが色々活動して居る者がいる。そう云う者を罰する方法がない。

(松阪広政の回顧録より)

しかし、国会に提出された改正法案は審議未了で廃案となりました。そこで政府は新たな手段にうってでました。緊急勅令です。天皇の命令の形で改正案とほぼ同じ内容を施行させたのです。本来、緊急勅令は災害時などに用いる手段ですが、三・一五事件は非常事態であるとして反対する人々を説き伏せました。

その後、国会でも承認された目的遂行罪。適用の範囲は一気に広がっていきました。

特高の取締は著名な文化人にも及びました。小説「蟹工船」の著者・小林多喜二も目的遂行罪に問われました。

小林多喜二

その後、共産党に入った小林多喜二は二度目の検挙で拷問を受け獄死しました。作家の吉野源三郎も有罪判決を受けました。釈放後に執筆したのが「君たちはどう生きるか」でした。

目的遂行罪によって急増した検挙者ですが、1933年にピークをうつと翌年以降は急激に減少しました。一体何があったのでしょうか?

転向政策

この頃、共産党の幹部の間で自らの考えを翻す者が相次ぎました。背景には当局の転向政策がありました。

この時期、内務省は治安維持法に違反した人のうち8割を転向させたと報告。これが検挙者の急減につながっていました。

検挙しても検挙しても、また再び運動に戻ってくる、ということになると彼らを何とか運動から離脱させることも考えなければいけない。力によって思想を押さえつけるだけではなくて、彼らの生き方、考え方のコントロールを図っていったのが転向政策だったと思います。

(小樽商科大学名誉教授 荻野富士夫)

二・四事件で検挙された立澤さんも共産党員ではありませんでしたが、転向したかどうかを確認されていました。その姿勢が認められ1年後、教師への復帰を許されました。しかし、立澤さんを待ち受けていたのは国策への協力でした。

1930年代、日本は長引く不況の出口を求め旧満州に進出していました。移民政策をうち出した政府にとって柱の一つが満蒙開拓青少年義勇軍でした。長野の教師たちは、この義勇軍に児童を送り出すよう割り当てを課されていました。立澤さんも放課後になると教え子の家を訪ね説得を重ねました。

長野県からは全国で最も多い6216人の少年が満州に送り出されることになりました。

植民地での治安維持法

植民地でも数多くの人が治安維持法違反に問われていたことが分かりました。日本国内の検挙者は把握できただけでも6万8332人。一方、植民地の検挙者はのべ3万3322人。中でも8割近くの2万6543人を占めていたのが朝鮮でした。

当時、朝鮮の学校では日本式の教育が徹底され朝鮮語の使用は禁じられていました。シン・ギチョルさんたちはそれに反発。友人たちと読書会を作り言葉や文化を守る活動に取り組んでいました。

朝鮮では1919年の三・一独立運動の後も日本の植民地支配に対する抵抗が続いていました。地下にもぐり独立の機会をうかがう運動家たちも次々に現れました。対応に苦慮した日本政府はその取締に治安維持法を利用することを考えました。

検挙された植民地の人たちの大半が何らかの形で独立運動に関わっていたことが明らかになりました。シン・ギチョルさんは、懲役2年半の実刑判決が下されソウルの刑務所に収監されました。

朝鮮では日本よりも厳しく刑が科されました。日本では誰にも下されなかった死刑判決が朝鮮では59人に下され、刑が執行されました。

兄が刑務所から出てきた時、耳が聞こえなくなっていました。ボーっとしてまるでうつ病のようでした。結局、学校へは戻れませんでした。名簿に赤線が引かれ前科があるとされたためです。

(妹のシン・ゼチョルさん)

成立当初、主に共産党を取り締まることを想定して作られた治安維持法。10年間にわたる取締によって1935年に共産党は事実上壊滅。治安維持法は当初の役割を終えたかにみえました。

ところが、その後も検挙は続けられていました。

1941年の改正

1937年、日中戦争が始まり、日本は本格的な戦時体制に突入。治安維持法に新たな役割が求められていたのです。

総力戦体制、戦時体制が強化されていく中で国家が認定する日本精神というものにそぐわないものに対してはより厳しく対処する。新たな取締り対象を見つけ出していく、えぐり出していく。そこに治安維持法が襲いかかった。

(小樽商科大学名誉教授 荻野富士夫)

しかし、司法当局は目的遂行罪の運用に行き詰りを感じていました。1941年、治安維持法は再び改正されました。もともと7条だった条文は65条に増え、目的遂行罪の適用範囲は大幅に広がりました。

改正が行われた1941年、地方で最も検挙が増えたのが北海道でした。

松本五郎さん(97歳)が検挙されたのは師範学校の5年生の時でした。美術部で絵画に打ち込んでいました。友人たちと開いたレコードコンサート、北の大地で生き抜く子供たち、これらの絵が共産主義の啓蒙につながるとされたのです。

いきなり質問さ。「貴様は共産主義を信奉して同級生、下級生を啓蒙したろう」って。びっくりして、「そんなこと考えたこともありません」って言ったらね、「貴様は警察をなめる気か」って恫喝さ。震え上がりましたね。

(松本五郎さん)

松本さんは自白を促され、共産主義を信奉したと手記に書くよう命じられました。

書けないのね。だからね「分かりません」って言ったらね、本を出してきて「これ見ていいから書け」って言うんだよ。れっきとした教本さ。マルクス主義のね。そういうふうなね強要だね、によってできた尋問調書なんですよ。

(松本五郎さん)

特高が自白にこだわった背景には1941年の法改正がありました。自白に基づく尋問調書を検察が提出すれば、証拠として採用されるようになったのです。

戦前は捜査段階の自白調書というのは、一般の刑事裁判で有罪証拠として使うことができなかったんですね。そういう中で戦争体制が徐々に始まっていくってことで治安維持法の事件については捜査機関の人たちは、これでは武器が不十分だということで証拠能力を認めるという改正がでてくるということになるわけですね。

(九州大学名誉教授 内田博文さん)

手記を書くように命じられた松本さんは、追い詰められていました。しらみやネズミが蠢く留置所に1か月以上も放置されていたからです。

しまいにはノイローゼみたいになって、頭の髪の毛が針金みたいになるんですよ。触ったら頭痛いのね。完全に病的だなというようなことは感じたんだけどね。

(松本五郎さん)

松本さんは自白で作られた尋問調書に拇印を押すよう求められました。早く出たいため松本さんは拇印を押したと言います。

裁判では尋問調書が証拠となり有罪が確定。懲役1年6か月。執行猶予はついたものの、すでに拘留されてから1年が過ぎ、太平洋戦争が始まっていました。師範学校は退学になり、松本さんは戦地へ赴きました。

戦後 治安維持法の廃止

特高は敗戦をむかえてもなお任務を続けていました。戦後の混乱に乗じて天皇制を否定するものがいないか監視を続けていたのです。

1945年10月4日、GHQは日本政府に対し治安維持法の廃止を命じました。戦後も収監されていた人たちは、この時一斉に釈放されました。

一方、特高の多くは人権を侵害した責任を問われ罷免されました。こうして20年に及ぶ治安維持法の時代は幕を閉じたのです。

治安維持法が制定された時、国会ではこんな意見が出されていました。

この法律は法文は明確でないということは疑いのないことである。濫用せられるということは火をみるよりも明らかである。

(坂東幸太郎 議員)

誤って之を用いましたならば無辜の民を傷つくる兇器となる虞がある。

(徳川義親 議員)

しかし、法案は賛成多数で可決。指摘された懸念は現実となりました。

松本五郎さんは各地に出向き自らの体験を語り続けています。

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