小野田元少尉の帰還 ~極秘文書が語る日比外交~|ETV特集

NHK・Eテレの「ETV特集」で小野田元少尉の帰還 ~極秘文書が語る日比外交~が放送されました。

元陸軍少尉・小野田寛郎(おのだひろお)はフィリピン・ルバング島の密林で終戦後も29年間に渡って戦闘を続けた後に投降しました。1974年3月12日、帰国した小野田寛郎を経済成長の中にあった日本の国民は驚きと熱狂を持って迎えました。帰還から43年が経った今、当時の極秘資料が次々に発掘され救出までの舞台裏が明らかになりました。

 

フィリピン・ルバング島は首都マニラから150km、約2万人が暮らしています。昭和19年の大晦日、22歳の小野田寛郎は命令によりルバング島に着任しました。島には秘密飛行場があり、小野田寛郎たちはこの警備にあたりました。数百人の日本兵は島民の家を兵舎にし、食糧を徴発しました。

 

太平洋戦争で南方に戦線を拡大した日本は、1943年に入ると劣勢に陥り玉砕が相次ぎました。日本本土に向かって北上するアメリカ軍と日本軍との主戦場になったのが、かつてアメリカが統治していたフィリピンでした。1944年10月のレイテ戦では、物量に勝るアメリカ軍を前に日本兵の97%が死亡しました。フィリピン戦線で最大の被害が出たのが首都マニラの市街戦でした。多数の民間人が日米の戦いに巻き込まれ命を落としました。太平洋戦争で100万人以上のフィリピン人が亡くなったと言われています。

 

小野田寛郎がいたルバング島は南北10キロ、東西30キロ、中央部を密林に覆われていました。アメリカ軍の攻撃が始まったのは1945年2月末のことでした。わずか3日間の戦闘で日本軍はほぼ壊滅。生き残った日本兵も大部分がアメリカ軍に投降していきました。一方、小野田寛郎は追跡を逃れ森に向かいました。ここから29年にわたる潜伏生活が始まりました。

 

1945年8月15日に日本は敗戦しましたが、ルバング島のジャングルにその知らせは届きませんでした。この時、森の中には4人の日本兵が残っていました。小野田寛郎少尉、島田庄一(しまだしょういち)伍長、赤津勇一(あかつゆういち)一等兵、小塚金七(こづかきんしち)一等兵です。彼らは投降を拒み続けました。最近、広島市立大学の永井均(ながいひとし)教授が新たな資料を発掘しました。厚生省の職員が帰国直後の小野田寛郎に秘密裏に行った聞き取り調査の記録です。この記録から小野田寛郎の潜伏の目的は島の占領だったことが分かりました。さらに占領は日本軍の再上陸に備えるためだと繰り返し強調していました。

「昭和24年頃になると4名の者は野性の食事にも慣れ、塩は海岸の岩間にできた塩を年に1~2升採取し、肉類は牛を月に2頭位と殺した。わが方の占領地に侵入してくる場合は個人であろうとそこの住民たちの連帯責任であるとの考えに立って報復のため部落に襲撃をかけることにしていた。ブロール部落の住民が何回となく捜索に来たことがあったので夜襲をかけた」(厚生省の聞き取り調査より)

山の中に潜む日本兵は山賊と呼ばれ恐れられました。住民は果物やヤシの実を採りに行くこともできなくなりました。小野田寛郎たちは次第に住民と敵対していったのです。

 

1950年、小野田寛郎たちの生活に異変が起こりました。行動を共にしていた赤津勇一一等兵がフィリピン警察軍に投降し、日本に送り返されたのです。帰国した赤津によって小野田寛郎ら残留日本兵の存在が国と家族に伝えられました。知らせを受けた小野田寛郎の兄・小野田敏郎はフィリピンに救出対の入国を申し入れました。その半年後、日本の外務省にフィリピン政府からの返事が届きました。入国は許可されませんでした。日米の戦闘で国土が破壊されたフィリピンでは、戦後日本人の入国が厳しく制限されていました。

 

島では潜伏を続ける日本兵への反発が高まり、警察軍が討伐に乗り出しました。

「相手はわれわれを殺そうというのであるから積極的にやった。威嚇ではなく必中弾を浴びせたのは53回位。その場所も覚えている」(厚生省の聞き取り調査より)

なぜ、小野田寛郎は住民と敵対しながら命懸けで任務を続けたのでしょうか。後年、NHKの番組でこう答えています。

「ああいう結果になるまで戦い続けるしかやりようがなかったんですよね。その次が負けたくない。特に戦争は負けたら死ななきゃいけないから。だけど戦争に流れていっても普通の人は何も僕みたいにならんでもある程度で帰れたんですけど、どうしても中野学校の教育にあったことで情報院であるところへ入ってしまった」(小野田寛郎)

 

ルバング島に赴く前、小野田寛郎は特殊な訓練を受けていました。現在の静岡県の浜松市二俣にあった陸軍中野学校の分校で、小野田寛郎は3ヶ月の特訓を受けていました。スパイ養成学校だった陸軍中野学校の中で二俣分校では特にゲリラ戦の幹部を養成していました。特に小野田寛郎に影響を与えたのが中野学校で叩きこまれた独特の教えでした。それは「ひとりになってでも草の根をかじってでも生き延びよ」というものでした。主力の撤退後も任務を継続するよう教えられていたのです。

 

終戦から9年目、小野田寛郎の存在が再び日本に知れ渡る出来事が起こりました。ルバング島の南にあるゴンチン海岸で銃撃戦が起きたのです。これにより島田庄一伍長は射殺されました。さらに、残る二人の日本兵をフィリピンの警察軍が射殺もじさず討伐するという報道が出ました。世論が高まり、国会で救出決議案が可決されました。

 

1950年代、フィリピンの対日政策は大きく変わり始めていました。戦争中の民間人殺害などの罪で収監されていた100人を超える日本人戦犯が帰国を許されたのです。恩赦を決めたのはエルピディオ・キリノ大統領でした。自身も日本軍によって妻と3人の子供を殺されていました。キリノは恩赦の理由を「国民に我々の友人となり我が国に長く恩恵をもたらすであろう日本人に対し憎悪の念を残さないために日本とフィリピンは隣国となる運命なのだ」と語っています。キリノの決断の背景には、当時国の後ろ盾となっていたアメリカの反共政策がありました。アジアで台頭してきた中華人民共和国、さらに核開発を進めるソビエトによって冷戦の緊張が高まっていたのです。アメリカは反共の防衛ラインとしてフィリピンに日本との関係改善を迫っていました。1956年、日本とフィリピンの間で賠償協定が締結されました。補償額は当初フィリピンが請求した80億ドルから5億5000万ドルに引き下げられました。賠償は個人には支払われず生産物の提供や建設工事などのサービスで行われ、日本企業進出の足掛かりともなっていきました。

 

1959年10月、フィリピン政府の許可を受け厚生省と家族を含めた大捜索弾がルバング島に向けて出発しました。ヘリコプターを使いジャングルの中に投降を呼びかけるビラを散布。小野田寛郎はこの時、ビラや家族による呼びかけには気が付いていたと語っています。

「工作隊が呼びかけを行っていたのは知っている。散布されたビラ等のなかに姉の名は保江が正しいのに保としか書いてなく納得のゆくものは遂に発見できなかった。兄の敏郎だというのが放送しているのはよく聞いた。お前の一番好きな歌をと”都の空に東風吹きて”を歌うというんだが終わりの方がうわづっていて声帯模写としか考えられず、いよいよ狐がしっぽを出したと思った」

半年にわたる捜索は実りませんでした。小野田寛郎と小塚の実家に死亡告知書が送られ、2人の葬儀は遺骨もないまま行われました。こうしてルバング島の残留日本兵の捜索は打ち切られたのです。しかし、島での被害はその後も続きました。

 

実は日本政府にも残留日本兵が関わったとされる事件が度々報告されていました。捜索打ち切りの3年後、フィリピンの大使館が厚生省に「いわゆるストラグラーなる者と会っている者があり、小野田少尉の写真、至急入手お願い致します」と伝えてきました。しかし、厚生省は外務省を通して「すでに大掛かりな捜索隊を派遣した上、調査を打ち切った本件を蒸し返せば収拾つかない事態に発展することが予測される」と答えました。小野田寛郎の写真はマニラに送られませんでした。フィリピンでもこの時期、残留日本兵に関する報道に変化がでていました。日本兵の情報は迷信だとして、作り話はやめるべきだという論調です。この頃、フィリピンでは日本からの賠償をきっかけとして日本製品の輸入が進み、経済による結びつきが生まれ始めていました。

 

1965年、フィリピンではフェルディナンド・マルコスが大統領の座につきました。そして1969年、日比友好道路の建設が始まりました。フィリピンで初めての円借款事業でした。技術協力も推進され日本との関係は急速に緊密になっていきました。マルコス政権下の最初の5年間で対日貿易額は2億ドルから4億ドルへと倍増しました。

 

1972年10月19日、小野田寛郎は最後の仲間を失いました。

「威嚇射撃をしたところ作業していた住民は逃げ出した。小塚が射撃され最初の一発があたった。腰だめで3発、敵に発射したところ敵の射撃が止んだ。小塚がまだ動かないので見たところ『胸をやられたもうだめだ』と胸をおさえていた。すぐ白目になり血と泡を吹いて倒れた」

小塚の遺体はすぐにマニラに送られ大使館員によって身元の確認が行われました。厚生省には、なぜ救えなかったのか残る一人を絶対助け出せという声が連日届けられました。小野田寛郎の救出は日本中から注目されるようになったのです。小野田寛郎の帰還を成功させるにはマルコス大統領の決断が必要でした。

 

1972年10月、日本とフィリピンによる過去最大規模の捜索が始まりました。一人森に潜み続ける小野田寛郎に肉親たちが呼びかけを続けました。

「寛ちゃん寛ちゃんと女の声がした。姉の声だったのだろう。そのとき格郎兄が『軍人は軍人らしくやれ』と言った。声の調子から間違いなく格郎兄であることがわかった。3日間程聞いていたが自分としては理由があって出ないんだし、これ以上聞いてノスタルジアになっては困るので蛇山に移動した」

捜索は半年に及びましたが、小野田寛郎を救出できませんでした。捜索が続く中でフィリピン政府は島民の被害への補償について日本政府の方針を問いかけてきました。フィリピンの警察軍が発表した被害は死者30人。総額は合わせて100万ドル、日本円で3億円と決められました。

 

1974年2月、ルバング島にやってきた一人の青年が事態を大きく動かしました。探検家の鈴木紀夫(すずきのりお)です。大学中退後、放浪の旅を続けていた鈴木は小野田寛郎に興味を抱きルバング島にやってきました。鈴木は小野田寛郎の目撃情報の多かったロオック町を訪ねました。鈴木は日本人が一人で捜索を行えば小野田寛郎の警戒心が和らぐはずだと考えていました。そこで、森の中に一人テントをはり小野田寛郎が現れるのを待ちました。

「和歌山ポイント付近を行動していると、突然目の前に蚊帳があるのに気がついた。不意に一人が立ち上がったのでよしと銃を構えた。男は初めは呆然としていたが『日本人だ』というから自分は『小野田だ』と言ったところ『小野田少尉殿でありますか私は鈴木です』と言い『戦争はもう終わっているのです。私と一緒にお帰りになりませんか』と話しかけたので『やあやあ』と答えた」

鈴木は小野田寛郎から命令を解除されれば投稿するという約束を取り付けました。鈴木はすぐにそれを日本政府に伝えました。2週間後の1974年3月9日、小野田寛郎は元上官からの命令解除を受けて森を出ました。29年間の潜伏生活が終わりました。

 

残す課題は小野田寛郎の罪をどう許すかでした。この時、マルコス大統領は小野田寛郎が命令を守り続けていたことに注目。マラカニアン宮殿に小野田寛郎を招き盛大な投降式で模範的な兵士として称えることにしたのです。この意向を日本側も歓迎し、協力して式を準備していきました。投降式の模様は衛星中継で全世界に配信されました。マルコスは大統領権限によって小野田寛郎に恩赦を与えました。こうして小野田寛郎は英雄として帰国することを許されたのです。

 

1974年3月12日、小野田寛郎は羽田空港に降り立ちました。日本国民と驚きと熱狂をもって迎えられ、両親と30年ぶりに対面しました。帰国後の小野田寛郎の行動は政府によって綿密に決められていました。皇居への参拝や田中角栄首相との面会が組み込まれ、最も希望していた戦友の墓参りは後回しにされました。

 

小野田寛郎の救出から2週間後、日本側は一連の外交交渉の総仕上げとして3億円の見舞金を贈呈する特使を派遣しました。鈴木善幸です。鈴木の役目は両国の協力関係を確認し、贈呈式でマルコス大統領に見舞金を渡すことでした。しかし、マルコス大統領が見舞金の受け取りを断ったのです。マルコスは小野田寛郎を許したのは純粋な気持ちからだとして「率直に申し上げるので気を悪くされないでほしいが、このような気持ちに金という価値を結び付けることは望ましくないと思う」と語りました。宙に浮いてしまった3億円ですが鈴木は見舞金を持ち帰るわけにはいきませんでした。贈呈式の翌日、日本側は見舞金を政府ではなく民間の基金に寄付するという提案をしました。

「比国において基金を設立することが良い案と思うが比政府がこれに参画することはできない」(マルコス大統領)

結局、民間の基金が設立されることになりました。運用を任されたのは比日友好協会です。基金を使って日本への留学生の支援や語学学校の運営など、両国の友好を促進する事業を行っています。

 

ルバング島から帰国した小野田寛郎は1年後、ブラジルに移住しました。そこで荒れ地を開拓し牧場を作りました。ブラジルに移住を決めるまでの1年間、小野田寛郎は日本で居場所を見つけることはできませんでした。1996年5月21日、小野田寛郎はルバング島を再訪しました。フィリピン空軍の厳重な護衛を受けながら島の集落をまわりました。住民たちが見つめる中、自らの貯えから2万ドルを島に寄付しました。そして2014年、小野田寛郎は91歳でこの世を去りました。




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