時男さん(66歳)は統合失調症と診断され、精神科病院に39年入院していました。時男さんの退院の日は、突然やってきました。2011年に起きた福島第一原発事故です。時男さんが入院していたのは、原発から5キロ圏内にある病院。すぐに避難指示がでました。ところが、避難先で「入院の必要なし」と診断され退院したのです。
時男さんのように原発事故をきっかけに精神科病院を退院した人は数多くいます。「時男さんも、そもそも長期入院の必要はなかった」と退院後の時男さんを見守ってきた精神科医は言います。薬を飲み穏やかに暮らす時男さんと話すたび、その思いを強くすると言います。
現在、時男さんは群馬県で一人暮らしをしています。地域での友人ができた時男さんですが、入院生活であまりにも多くのものを失いました。今の住まいは家賃3万5000円。生活は月8万円の障害者年金でやりくりしています。
5年前に退院した時男さん、その後の生活は戸惑いの連続でした。病院で閉ざされた日々を送っていた40年間に、社会は大きく変化しました。銀行のATMの使い方や切符の買い方など、生活に必要なことを一つ一つ覚えていきました。
最近になってようやく落ち着いた暮らしを取り戻しつつあります。しかし、人生の喜びや苦労を分かち合える人は、かつての入院仲間しかいません。
山口貞二さん(86歳)は、46年もの入院生活を経て一昨年退院しました。時男さんとは原発事故以来の再会です。
今、ようやく得た自由を噛みしめています。
時男さんたちに転機をもたらした原発事故。原発の近くには5つの精神科病院がありました。しかし、事故によって病院は機能を停止。入院していた1000人近い患者の多くが、県外の病院に転院することになりました。そんな中、福島に戻りたいという患者たちが集まってくる病院が福島県立矢吹病院です。
定期的に医師が回診して、診断の見直しを行い、症状が落ち着いている患者が地域に戻るためのサポートをしています。実は、この取り組みが精神医療の驚くべき実態を白日のもとにさらすことになりました。
矢吹病院に転院してきた人は、5年間で52人。実に、半数が25年を超える長期入院生活を送っていました。
精神科病院大国
実は、日本は精神科病院大国。世界の病床の約2割が集中しています。入院期間も他の先進国と比べて突出しています。
日本 270日
こうした日本の精神医療の状況は、人権侵害にあたると国連やWHOなどから何度も勧告を受けてきました。しかし、その内実はこれまでほとんど明かされることはありませんでした。原発事故を機に、その一端が見えてきたのです。
戦後の国の政策
必要のない長期入院が行われているのは、戦後の国の政策によってもたらされたものです。
1951年、国は精神障害者によって年間1000億円の生産が阻害されているとし、隔離収容政策を打ち出しました。当時の国家予算は7500億円。精神障害者による犯罪や、家族が働けなくなることによる巨額な経済的損失を防ぐという理由でした。
その流れに追い打ちをかけたのが、1964年に起きた事件です。アメリカのライシャワー駐日大使が、精神疾患の疑いのある少年に刺されたのです。精神障害者を野放しにせず、収容すべきとの主張が連日メディアで繰り返されました。精神障害者は危険だという風潮が作られていったのです。
国は、精神科病院の医師や看護師数の基準を緩和。患者1人のかける手間を減らし、病床数を増やすほど儲かる仕組みにしました。確実な収益が期待できるようになったことで、他の業種からの参入が相次ぎ、病床数が急増していきました。
しかし、海外では真逆の動きが起きていました。人権意識の高まりから退院がすすめられたのです。そして、日本は世界一の精神科病院大国となったのです。
精神科病院にいるはずのない人も…
長期入院をしてきた患者たちの中には、本来精神科病院にいるはずのない人もいます。
女性には軽度の知的障害があります。しかし、診察したところ精神疾患は認められませんでした。
矢吹病院に転院してきた患者たちの4人に1人が知的障害者。精神疾患のない人もいました。
美千世さん(56歳)は統合失調症です。長年、薬で症状はおさえられていますが30年もの入院生活を送ってきました。
なぜ、美千世さんは長期入院することになったのでしょうか?
時男さんが入院するまで
時男さんの人生の歯車が狂い始めたのは、10代の頃です。高校1年生の時、時男さんは東京へ向かいました。都会で新たな人生をスタートさせたいと希望を抱いていました。
ところが、仕事に打ち込んでいた17歳の時、統合失調症と診断されました。
時男さんは、東京の精神科病院に入院。治療を受け、ほどなくして退院しました。その後、薬さえきちんと飲めば症状が出ることもなく、仕事に意欲を燃やしていました。
しかし、精神障害者への差別が強かった当時、入院したことで家族からも偏見の目が向けられるようになりました。
22歳の時、父親に言われ福島の病院に転院。以来、原発事故の発生まで人生の大半をそこで過ごすことになったのです。
病棟での思いを時男さんは詩にしたためていました。
外に出たい かごの鳥
毎日餌をついばむ
かわいそうだ
しかし 私もかごの鳥
私も同じ運命
毎日食事をし
いつもスケジュールをこなす
早くこの病棟から出たい
私もかごの鳥 私もかごの鳥
外を見る
小鳥たちは自由に大空を飛び交う
私の夢
ちょっとでいいから自由に外で遊んでみたい
新しい生活
病院にない空気を思いっきり吸いたい
当時の病院の関係者を訪ねる
自分は本当に退院できる可能性はなかったのか、時男さんは病院の関係者を訪ねました。元看護師の松本マサヨさん(87歳)は、時男さんが入院していた時の看護師です。
時男さんは、退院する可能性がなかったのか松本さんに聞きました。
時男さんは、元院長の清水允煕(しみずのぶひろ)医師を訪ねました。清水医師は1974年から5年間、主治医として時男さんを診ていました。
当時、清水院長は医師を増やし、できるだけ患者を退院させる方針を打ち出しました。時男さんも、退院の日を迎えるはずでした。しかし、思わぬ理由で叶いませんでした。
その後、清水院長は任期を終え退任。時男さんの入院は続きました。
何が時男さんの退院を阻んだのか
時男さんは、病院から2000ページを超えるカルテを手に入れました。カルテを見ると、体調が良く穏やかに過ごしているという記述が頻繁に出てきます。幻覚などの症状が出たのは23年間で2回。ほとんどありませんでした。その間、時男さんは繰り返し退院を訴え続けていました。
時男さんは、年に一度面会に来る家族にも退院を訴えていました。家族から病院に退院を申し出て欲しいと頼んでいました。しかし、父親の答えは「誰が見ても良くなったら」というそっけないものでした。
当時、退院には家族の意向が大きく反映されていました。家族が退院も強く主張してくれれば、もっと早く出られたのではないか、時男さんは弟に話を聞きました。
弟はただうなずくばかりでした。
国の政策の転換
入院患者が増え続ける状況に、国連の場で非難の声が上がりました。それをうけ1987年、隔離収容政策を転換。患者たちの退院促進を掲げました。グループホームなど地域で自立生活を行う整備が始まりました。
ところが、精神障害者の施設が作られることに住民が抵抗。各地で反対運動が巻き起こったのです。
結局、多くの人が受け皿をなくし、病院での長期入院を余儀なくされました。家族からも地域からも受け入れられず、人生の大半を病院で過ごしてきた患者たちにとって退院は容易ではありませんでした。
美千世さん 退院に向けて
美千世さんは病状も落ち着き退院に向けた準備を始めていました。向かったのは退院後の受け皿となるグループホームです。本来、医師の診断さえあれば退院に家族の許可は必要ありませんが、退院後の生活をスムーズに送れるよう両親が同席しました。美千世さんは「本当は実家に帰りたい」と訴えました。
美千世さんは今、家族から離れ地域での生活を始めようとしています。月に1度、グループホームや作業所を訪ね、少しずつ病院ではない暮らしに馴染もうとしています。
原発事故をきっかけに自由を手にする人がいる一方、全国では今なお長すぎる入院が続いています。日本の精神科病院に1年以上入院している人は18万人。5年以上はおよそ10万人います。
「ETV特集」
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