2009年7月14日、18名のパーティーが北海道中央部にそびえるトムラウシ山を目指して出発しました。北海道の最高峰・旭岳の5合目までをロープーウェイで上がり、そこから登頂したあと山々の稜線をつたって、最終的にトムラウシ山へと登頂するルート。途中、無人の山小屋に宿泊しながら2泊3日で踏破する本格的なツアー登山でした。
北海道とはいえ真夏なら気温は10℃前後になり比較的穏やか、景色も美しく登山愛好家にとっては憧れの地でした。東京の旅行会社が企画したこのツアーは50~60代の登山客15名に、経験が豊富なプロのガイド3名が同行。万全の体制でのぞんでいました。さらに、一番短い人でも6年の登山歴があり、装備もしっかりしたものでした。
初日は天気も良く、参加者たちは意気揚々と登山を開始しました。その日は順調にルートを消化し、山小屋に宿泊。2日目も早朝5時に小屋を発ちました。しかし、出発時から降っていた弱い雨が次第に強まり山道はぬかるみと化していました。それでも15時前には予定通り、2日目の宿泊地となる山小屋に到着しました。
しかし、そこにはすでに他のパーティーが宿泊していたため十分なスペースが確保できず、濡れた装備が乾かせない状態でした。その後は思い思いに夜を過ごした参加者たち。旅の話で盛り上がり遅くまで起きていた者もいれば、喧噪を避け早々に床についた者もいました。
深夜3時、雨脚は強まり暴風雨と化していました。雨が小屋の中に染みこんで満足に眠れない者も多数いました。そしてこの状況こそが後の悲劇に大きな影響を及ぼすことになったのです。
翌朝、ガイドは天候の回復を考慮して予定より30分遅い、朝5時半に出発することに。さらに、トムラウシ山への登頂は諦め、迂回ルートを通って下山することを決定しました。参加者たちは登山経験豊富とはいえ、ほとんどが素人。山のプロであるガイドに従うのは当たり前のことでした。
結局、5時30分にパーティーは山小屋を出発しました。途中、木道を通り岩場のロックガーデンへ。真っ直ぐ進むとトムラウシ山にぶつかりますが、頂上には上らず反時計回りで迂回し、麓へ下山していくルートでした。
しかし、山の稜線に出て木道にさしかかった頃、パーティーに物凄い強風と激しい雨が襲いました。ガイドたちが予想した天候の回復は遅れていたのです。しかも、風を遮るものがない稜線に出た時に風雨は最も激しくなってしまったのです。パーティーはそれでも前進を続け、北沼と呼ばれるトムラウシ山の見どころの一つまで到達しました。
しかし、氾濫した水が幅2メートル程の流れとなって行く手を遮っていました。それでも、膝下くらいの水量だったため2人のガイドが川に入り、参加者たちが渡るのを必死に介助しました。しかし、山崎ガイド(仮名)が転倒しずぶぬれになってしまいました。一方で、先に渡った参加者は全員が渡り切るまで待機。強風が吹きつける岩場で、1時間~1時間半もの間待たされることになったのです。
参加者たちは次々と異変を起こし、中には意識を失う者もいました。さらに、ガイドリーダーの西原さん(仮名)の様子もおかしくなってしまいました。判断ができない西原さんに代わり、2人のガイドが相談した結果、行動不能になった参加者はその場で救援を待つことに。
雨が弱まる中、山崎ガイドはその時点で行動可能だった10名を引き連れ下山を始めました。しかし、参加者には次々と異変が起こりました。そして彼らの下山を先導する山崎ガイドにも異変が起こり、座り込んで動けなくなってしまいました。
電波が入るエリアに入り、参加者の一人である前田和子さんは警察に電話しました。場所がわからず山崎ガイドに電話をかわるも呂律が回らずどこにいるのか伝わりませんでした。途中何度も電波が途絶えたりしたこともあり、居場所を伝えられぬままバッテリーは切れてしまいました。山崎ガイドは正気を失っていました。
救助要請を急ぐため、山崎ガイドを残して前田さんと寺井さんは2人で下山することにしました。2人は何とか麓に辿り着き、警察に救助を要請。その日は日が落ちていたため翌朝から捜索が開始されました。陸上自衛隊からも約30人が投入され、ヘリコプターによる懸命な救助活動が展開されました。
しかし、参加者7名に加え途中で異変を起こしたガイドリーダー西原さんの合計8名が命を落とす大惨事となってしまいました。パーティーを襲った謎の異変の正体は何だったのでしょうか?
当時の報道によれば8名全員が凍死していました。事故調査にたずさわった金田正樹医師によると、これらは典型的な低体温症だと言います。低体温症とは、体温の低下にともなって体に異変が生じ、最後には死に至る恐るべき症状です。
症例に個人差はあるものの、通常なら36℃台の体温が1℃下がると寒気に襲われます。35℃になると皮膚感覚が麻痺したようになり、次第に体が震えだし歩行に遅れがちになります。体温が34℃になると、口ごもるような話し方で意味不明な言葉を発するようになります。無関心な表情をしたり軽度の錯乱状態になることで判断力が鈍ったりします。
34℃~32℃になると、もはや真っ直ぐに歩くことは困難に。感情がなくなり不整脈を起こします。32℃~30℃では立つことさえ不可能に。思考が停止し、筋肉が硬直、意識を失う者もでてきます30~28℃になると半昏睡状態となり脈が弱くなります。呼吸数も半減します。28℃~26℃では昏睡状態に。心臓が停止し、死に至ることが多いです。しかし、なぜ真夏に低体温症になってしまったのでしょうか?
事故が起こった日、トムラウシ山の気温はいつもなら10℃前後のところ午前中は6℃、午後は3.8℃でした。確かに寒いですが、この時期のトムラウシ山では想定内の気温で、特別寒かったわけではありません。参加者たちも十分な防寒用具を持っていたと報告されています。
彼らの体温を奪った原因はウェアの湿り具合でした。低体温症にいたる要素は、すでに前日の山小屋から始まっていました。雨でぬれた装備を完全に乾かすことができなかったため、湿った服が徐々に体温を奪ったのです。その後、風速20メートルを超える強風に体温を急激に奪われました。風速が1メートル増すごとに体感温度は1℃下がると言われています。湿った服と強風で体感温度は-10~20℃だったと想定されます。
亡くなった人たちは、ザックの中にダウンジャケットなど防寒具を入れたまま着用せずに倒れていました。これは低体温症により思考が鈍っていたためだと推測されます。参加者は氾濫した沼を渡る時、暴風雨の中に長時間さらされていました。このときに体温は34℃を下回り低体温症になった人が多かったと思われます。
その時点で行動可能だった10名が後に次々と異変を起こしたのは、歩き出したことで冷やされた血液が全身に回り、低体温症が急速に悪化したためだと考えられています。登山中の低体温症は対策が不十分の場合、行動してから5~6時間であらわれます。その後、速ければ2時間で死亡すると言われています。
低体温症を発症し判断力が鈍り始める34℃の段階で何らかの回復措置をとらないと、症状は進行して死に至るケースが多いと言います。しかし、同じ環境下にも関わらず助かった人もいました。生死を分けたものは一体何だったのでしょうか?
亡くなった参加者たちは、前日の山小屋で十分な睡眠をとっていませんでした。疲労が蓄積すると体温を上げるためのエネルギーも不足してしまいます。助かった人たちの多くは防寒具の隙間に雨が入りこまないようにタオルなどで水の侵入を防いでいました。
自力で下山し救助要請をした前田和子さんは、タオルに穴を開けた簡易防寒具を首からかぶり、なるべく体が濡れないように細心の注意を払っていました。また、低体温症が進行する前にフリースなどの防寒具を着用した者もいました。低体温症が進行し、判断力が鈍くなってからでは遅いのです。げんに亡くなった方は防寒具を持っているにも関わらずザックから出すことすら出来なかったのです。
自力で下山した前田さんは、ポケットにすぐ口にできる飴やチョコレートを入れ時々食べていました。一度正気を失ったにも関わらず、チョコレートを摂取したことにより低体温症から回復し、正気を取り戻した参加者もいました。しかし、亡くなった人の多くはザックの中に食料をしまっていました。思考が低下していたこともあって取り出さず、また食べる量も少なかったと言います。つまり熱を生み出すカロリーを多く摂取していた人の生存率が高かったのです。
トムラウシ山遭難事故の原因は一つではありません。ツアー会社の管理責任、ガイドの見通しの甘さ、参加客の山に対する認識不足など複合的なものだったとされています。しかし、何より一番の原因は低低温症という死に至る恐るべき現象が、いまだに世間に正しく認知されていないことに尽きるのではないでしょうか。生還者の前田和子さんはこの経験から、「夜はぐっすり寝ること」と警鐘をならしています。
「奇跡体験!アンビリバボー」
トムラウシ山遭難事故
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