元日本兵・横井庄一のグアムでの28年間|ザ!世界仰天ニュース

日本テレビの「ザ!世界仰天ニュース」で元日本兵・横井庄一さんのグアムでの28年間について放送されました。1972年に元日本兵の横井庄一(よこいしょういち)さんがグアム島のジャングルで発見され31年ぶりに日本に帰ってきました。死と隣り合わせのジャングル生活とは一体どんなものだったのでしょうか?

 

横井庄一さんは名古屋で洋服の仕立て業を営んでいましたが、26歳の時に招集され満州へ。そして29歳の時、何の情報も与えられないまま送り込まれたのは、当時日本が占領していた大宮島、現在のグアム島でした。アメリカ軍は日本本土の空襲の拠点として日本占領下にあったグアム・サイパンの奪還を狙っていました。日本はそれを阻止するため2万人を超える兵隊をグアム島に送り込んだのです。横井庄一さんの母は女手一つで一人息子を育て上げた人。親孝行をしたいというのが横井庄一さんの願いでした。横井庄一さんは飛行場の建設と食料の運搬を担当しました。1944年6月11日、アメリカ軍の徹底的な攻撃が開始され7月21日、アメリカ軍4万5000人が上陸を開始し、戦力の違いは明らかでした。横井庄一さんの所属する第38連隊はアメリカ軍上陸の初日に9割近い戦死者を出しました。司令部との連絡が絶たれ孤立。それでも日本は必ず勝つと信じてジャングルに身を潜め援軍が来る日を待つことになりました。横井庄一さんは年下の衛生兵長の志知さんと海軍軍属の中畠さんと共に川に沿ってジャングルの奥深くへと入っていきました。わずか2ヶ月でグアムはアメリカの手に落ちました。しかし、その状況すら知らず横井庄一さんたちはひたすら身を隠し、いつ襲われるか分からない恐怖と戦っていました。最も深刻なのは空腹でした。食料のある所は敵に見つかる危険が高かったからです。ヤシの実などで食いつなぎ、常に飢えている状態でした。そんな時、見つけたのがソテツという植物。しかし、ソテツの実には有毒成分が含まれていて苦しみました。それでも他に食べる物がなかったため、ソテツを何とか食べようと工夫しました。後にソテツは実を割って4日以上水にさらせば毒が抜けて食べられることが分かりました。

 

その頃グアムは日本空襲の拠点となりB29爆撃機が大量に配備されアメリカ軍は島にいる日本兵を徹底的に探しました。見つかったら殺されると横井庄一さんは思っていました。そんな時、横井庄一さんたちは洞窟の中で自決した日本兵を見つけました。「敵の捕虜となり辱めを受けるぐらいなら自決せよ」と兵士たちは教え込まれていました。しかし、横井庄一さんは母のためにも絶対に生きて日本に帰りたいと強く思っていました。アメリカ兵が去った後にはビスケットや缶詰、タバコ、マッチなどが残されていました。惨めでしたが、生きるためにその残りを食べました。希望を捨てないため彼らは満月を数え1ヶ月ごとに木に刻んで年月を把握しました。仕立て屋の仕事をし手先が器用だった横井庄一さんは籠を作り仕掛けにしてネズミなどの小動物を捕まえ、川にも仕掛けうなぎやエビを捕まえました。過酷な生活環境を少しでもマシなものにしたいと彼らは研究を始めました。水筒を半分に割り飲み口に竹をさして持ち手にしフライパンを作ったり、水筒の半分でおろし金を作ったりしました。ヤシの中の白い果肉のような物をおろし金でおろし、それを絞るとココナッツミルクがとれました。何でもココナッツミルクで煮込んで食べるとご馳走でした。

 

1年ほど過ぎた頃、広島・長崎に原子爆弾が投下され1945年8月15日に無条件降伏し日本は戦争に負けました。そしてグアムのジャングルでも終戦を伝える呼びかけやビラがまかれ、多くの日本兵が投降しました。終戦の翌年には約900人が日本への生還を果たしています。しかし、横井庄一さんたちは罠だと思い出て行きませんでした。終戦を伝えるための日本兵探しは終戦から5年が経っても続けられていました。横井庄一さんたちは穴を掘って地下で生き延びる方法を選びました。そして穴掘りと並行してランプを作る研究を行いました。ココナッツミルクを火にかけアクを取り、アクを再び火にかけると油と水が分離。この油にヤシの繊維を編んで浸して燃やしランプとしました。この油を手にいれたことで食生活も変わりました。ソテツの実を砕いた粉に食材をつけて油であげ天ぷらに。完成した穴の出入り口は竹で作ったスノコや葉っぱで隠しました。木の梯子を1.5mほど降りると居住スペースに。しかし、横井庄一さんと年下の2人とは意見が分かれ度々言い争うようになっていました。そして横井庄一さんは2人と決別し穴を出て1人で暮らすことに。しかし、決別したはずの2人も手伝ってくれ3ヶ月で横井庄一さんの穴が完成しました。それは深さ1.8mに奥行き6mの空間。そこに棚やかまど、竹の葉を敷いた寝床を作りました。さらには5年かけて井戸や水洗トイレまで設置。そして草履や機織り機まで作り服も作りました。大変なことでしたが物を作り上げるという充実した喜びが味わえたと言います。

 

1960年、グアムのジャングルで横井庄一さんたちとは別行動をしていた日本兵2人が発見され帰還。彼らはまだジャングルに日本兵が潜んでいると語りました。日本政府は調査団をくみグアムでの日本兵探しを3週間行いましたが、誰も見つけ出すことは出来ませんでした。横井庄一さんたちは日本は本当い負けたのだと気づき始め、自力で島を脱出することを計画。海岸線を偵察するため高い山の頂へ。しかし海岸線を覆う木は伐採され海が丸見えに。そこは戦争のあとなど欠片もなくきれいに整備されていて、見たことももない立派な道路もありました。敵に見つからずに海へ出る方法はないと悟りました。この年、これまでとはケタ違いの台風がグアムを襲い、実が流され食べ物が全くなくなってしまいました。ジャングルに次の実がなるまで1年もの間、横井庄一さんは野草だけで食いつなぎました。

 

1964年、横井庄一さんは久しぶりに志知さんと中畠さんの穴を訪ねました。しかし、2人は死んでいました。死因は分からなかったものの、何者かに襲われた形跡はありませんでした。1967年、パンナム航空の東京-グアム便が就航。横井庄一さんが穴で隠れ暮らすグアム島へ日本人観光客が押し寄せていました。そして1972年、横井庄一さんは鹿狩りに来た地元の親子と遭遇。横井庄一さんはようやく発見され帰国。苦労を共にした志知さん、中畠さんの遺骨も同じ飛行機で帰国し遺族の元に届けられました。

 

日本に帰って半年後、横井庄一さんの花嫁候補が一般公募され美保子さんと結婚。そして新婚旅行で再びグアム島を訪れました。その後、横井庄一さんは陶芸に打ち込みジャングル生活より短い25年の戦後の生活を送り1997年、82歳で戦友たちのもとへ飛び立ちました。




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