90年代 オタクカルチャーと秋葉原|ニッポン戦後サブカルチャー史

NHK・Eテレの「ニッポン戦後サブカルチャー史」で第9回90年代(2)おたく→オタク→OTAKU~オタクカルチャーと秋葉原~が放送されました。オタクカルチャーの祭典ともいえるコミックマーケットが大爆発期を迎えたのは1990年代。90年代はバブル崩壊後の長引く不況を背に、アニメ・ゲーム・マンガ・フィギュアなどオタクカルチャーが一気に花開きました。そのパワーは街をまるごと飲み込み、海外へも波及。「OTAKU」は世界共通語となりました。

 

「オタク」のはじまりは?

1983年、中森明夫が雑誌「漫画ブリッコ」で「おたくの研究」という連載を開始。中森明夫は当時ロリコンマンガやアニメのファンたちを中心に賑わっていたコミックマーケットに足を運び、彼らの姿を次のように描写しました。「ママに買ってきて貰った980円1980円均一のシャツやスラックスを小粋に着こなし、数年前はやったRのマークのリーガルのニセ物スニーカーはいて、ショルダーバッグをパンパンにふくらませてヨタヨタやってくるんだよ、(中略)こういった人たちを、まぁ普通、マニアだとか熱狂的なファンだとか、せーぜーがネクラ族だとかなんとか呼んでるわけだけど、どうもしっくりこない。(中略)それでまぁチョイわけあって我々は彼らを『おたく』と命名し、以後そう呼び伝えることにしたのだ」おたくの由来には諸説ありますが、これをきっかけに知る人ぞ知るものとなっていきました。

 

コミケから見るオタク史

ひらがなの「おたく」からカタカナの「オタク」への変換は90年代に起こりました。コミックマーケットが産声を上げたのは1975年。マンガファンが交流する場として東京虎ノ門の小さな会議室でスタート。時代はまだ「おたく」という言葉が誕生する前。集まったのは約700人。その9割は10代の少女たちでした。当時、少女たちの間で絶大な支持を得ていたのが漫画家・萩尾望都(はぎおもと)の作品。代表作「ポーの一族」は永遠に年をとらない吸血鬼が主人公。この作品に刺激を受けて作られた同人誌などが密かな人気を博していました。一部のマンガ好き少女たちの同好会的存在だったコミケのエネルギーは80年代に入るとより大きなものとなっていきました。時代は70年代後半から続くアニメブーム。1981年にアニメ「起動戦士ガンダム」の劇場公開イベントが行われた新宿には1万人を超えるファンが集結。その熱狂ぶりがマスコミでも大きく報道されアニメが子供だけのものではなく若者文化の一つとして認知されるきっかけとなりました。アニメブーム拡大と共にコミケはアニメファンをも取り込み、参加者を大きく増やしていきました。そして1989年、長きにわたった昭和が幕を閉じ平成の時代へ。そんな中、幼女連続誘拐殺人事件が発生。人々の関心をかきたてたのは容疑者の部屋。ビデオやマンガが大量に積み上げられた様子がセンセーショナルに報道され、オタクという言葉が世間一般に知られるきっかけとなりました。そしてオタクバッシングが起こり、コミケは世間からマイナスの注目を浴びることで皮肉にも参加者数を急激に伸ばしていきました。そして90年代後半、コミケは大爆発時代をむかえました。この頃日本はバブル崩壊後の長引く不況の只中にあり、証券会社や銀行が相次いで破綻。出口の見えない不況は社会全体を大きな不安で包み込みました。そんな中にあってもオタクカルチャーシーンは活気にあふれていました。アニメ業界では「新世紀エヴァンゲリオン」が爆発的ヒットを記録。一大ムーブメントとなり、その経済効果はこれまでで1500億円を超えたとも言われています。ゲーム業界では各メーカーから発売された次世代ゲーム機が市場を席捲。様々な人気ソフトも誕生しました。マンガ業界では1995年に週刊少年ジャンプ発行部数が653万部を記録。これらのブームに支えられオタクの時代が到来しようとしていました。そんな時代、コミケは会場を日本最大規模の会場「東京国際展示場(東京ビッグサイト)」に移して開催。そこに集結したのは40万人を超えるオタクたちでした。

 

90年代 コミケで何が生まれたのか?

90年代のコミケを席捲していたのは二次創作。二次創作とは既存のマンガやアニメなどの物語の設定やキャラクターを利用し創作された独自の作品。二次創作がブームとなったのは80年代。サッカーマンガの名作「キャプテン翼」がきっかけでした。「キャプテン翼」のキャラクターの人間関係や物語の世界観をアレンジした同人誌が登場。特に女性ファンの間で男性の同性愛を題材にした作品が人気に。通常のストーリー構成に必要なヤマバ、オチ、イミがないことを意味する「やおい」系作品がブームに。二次創作は様々な作品やジャンルに波及していきました。そして「美少女戦士セーラームーン」が子供、大人、性別の垣根を超えて爆発的人気に。自分もそのキャラクターになりきるコスプレイヤーが増加。さらにコスプレの対象は当時流行していた格闘ゲームの人気キャラクターにまで及びました。90年代は様々なメディアから大量のコンテンツが登場。キャラクターに強い愛情を持ち、その思い表現するツールとしてコスプレカルチャーが拡大していきました。

 

90年代 オタクの力が街を変えた!

当時、若者カルチャーの中心地として君臨していたのが渋谷でした。1990年にオープンした外資系レコード店を中心に渋谷系と呼ばれる新しいムーブメントが起こりました。さらに渋谷の主役となっていたのが女子高生。ガングロと呼ばれたギャル系メイクや厚底ブーツなどの独特なファッションで街を闊歩。そんな中、渋谷カルチャーとは一線をかくすオタクたちが目指したのは秋葉原でした。戦後、焼け野原となった秋葉原にはラジオ部品を扱う露天商などが集まるようになり、ラジオや無線の愛好家らマニア気質を持った人たちの集まる街となっていきました。高度経済成長へと突入した60年代、冷蔵庫・洗濯機・テレビという三種の神器を求める人々が秋葉原へ。秋葉原は家電の街となり80年代後半まで大きな賑わいをみせました。1990年、ビル全体をコンピューター関連商品にあてた大型専門店がオープン。それをきっかけに主力商品を家電からパソコンへと移行する店舗が急増しました。そして1995年、新型OSの発売が社会現象に。若い男性を中心としたパソコン愛好家たちの熱気が秋葉原の変貌を物語っていました。

 

1998年 秋葉原の大変革

1998年4月、秋葉原ラジオ会館にフィギュアショップが出店。今ではラジオ会館の7割の店舗がオタクカルチャー系の専門店です。しかし1998年以前はそのようなショップは一切ありませんでした。秋葉原ラジオ会館が秋葉原に誕生したのは1962年。以来、家電量販店、オーディオ専門店、マイコンショップなどがひしめき、秋葉原の街の縮図と言われました。しかし1998年にフィギュア店が出店してから勢力図が塗り替えられました。わずか3年でフロア面積全体の半分をオタク系ショップが占めるようになったのです。そのきっかけを作ったのが模型会社社長の宮脇修一。80年代、渋谷に店をかまえていた宮脇は秋葉原へ移転する決断を下しました。秋葉原への出店をきめた1998年にはフィギュアブームの波がきていました。もともと一部のマニアが楽しむ世界だったフィギュアですが、人気のアニメやゲームなど二次元の世界のキャラクターを立体化したフィギュアは多くのファンの心をつかむように。宮脇の店舗は瞬く間に人気となり、それを追うように他の店舗も続々とラジオ会館に出店していったのです。そして2000年代初頭、オタク系ショップは一つのビルから飛び出し、次々と秋葉原の街中へと勢力を拡散していきました。

 

90年代 世界へ拡大したオタクカルチャー

90年代、カタカナの「オタク」はローマ字の「OTAKU」へと変貌を遂げました。1963年にアメリカで「鉄腕アトム」が放送されたのを皮切りに日本のアニメは徐々に欧米に浸透。70年代後半には「UFOロボ グレンダイザー」や「キャンディ・キャンディ」などがフランスで子供たちに大人気となりました。90年代、日本アニメで育った世代が大人となりオタクカルチャーの種は花開きました。特にフランスでは日本アニメ人気が大爆発。その起爆剤となったのは90年代の人気テレビ番組「クラブ・ドロテ」日本アニメファンが爆発的に増加したパリ市内では日本マンガの輸入専門書店も登場。90年代半ばには日本マンガの一大ブームが発生しました。一方、アメリカでも日本のオタクカルチャーが浸透。90年代前半、日本のアニメの熱狂的なファンたちがイベントを開催する動きが各地で起こっていました。アメリカで日本のアニメが流通するきっかけとなったのが70年代後半に登場した日本製の家庭用ビデオデッキでした。当時は日本企業が次々とアメリカへ進出した時代。日本製ビデオデッキが普及する中、日本からアニメのビデオを取り寄せ鑑賞するサークルも各地に誕生。大手レンタルビデオ店にも日本アニメコーナーが設置されました。そんなアメリカのコアなアニメファンを虜にしたのが「おたくのビデオ」です。日本のオタクたちの日常を描いた作品にアメリカの視聴者も感情移入。オタクという言葉の響きも新鮮で、世界語となる一つのきっかけとなりました。その頃、アメリカで旋風を巻き起こしたのが「攻殻機動隊」ビルボードチャートでビデオソフトの週間売り上げ1位を獲得。その繊細な描画や世界観が衝撃を与えました。さらに劇場版「ポケットモンスター」が大ヒットし日本アニメブームが到来。一方、アジアでは日本企業が生産拠点を移していく動きの中でアニメやマンガも続々と進出。こうしてオタクカルチャーは世界へと浸透していったのです。

 

2000年代に入りオタクカルチャーはさらに拡大を続けていきました。アートの世界ではオタクカルチャーを現代アートに取り入れた村上隆の作品が世界的な評価を受けました。2004年、ベネチア・ビエンナーレ国際建築展での日本展示館のテーマはおたく。美術のオリンピックと称されるハレの場でオタクは日本代表となりました。そして2014年、フランスで開催されたジャパン・エキスポは20万もの人々を動員。独自の閉鎖性の中から生まれ熟成期間を経て驚きと共に発見されたオタクカルチャーは、今や世界のカルチャーや美意識に影響を与えるほどになっています。