神の数式1「標準理論」~この世は何からできているのか~|NHKスペシャル

鉛筆の尖った方を下にして机に立てることはできません。
どれだけ完璧に垂直にしたとしてもです。

そんな鉛筆が倒れる何でもない現象が、ある科学的大発見の大元になっています。

 

スイスにあるヨーロッパ合同原子核研究機構で2012年7月、一つの素粒子が発見されたという発表がありました。それはヒッグス粒子。人類が捜し求めてきた最後の素粒子の発見として、最先端科学になじみのない人たちまでが沸いた世紀の大発見と言われました。

 

この世に創造主がいるとしたら、どんな設計図に基づいて宇宙をつくりあげたのか。

アインシュタインをはじめ物理学者たちは、いわば神の設計図を発見しそれを数学の言葉=数式で書き表したいと血眼になってきました。神の数式の誕生です。

 

これまでも、物理学者たちはいろいろな現象を数式で表すことに一応の成功をおさめてきました。けれども、あらゆる現象を寸分の狂いもなく、しかもたった一つの数式で説明することが出来たなら、それこそが創造主の設計図、つまり神の数式と言えるのではないかと物理学者はその数式を求める野望にとり付かれています。

 

ヨーロッパ合同原子核研究機構の裏庭に一つの数式が刻まれています。これこそが物理学者たちが神の数式にもっとも近いと考える最先端の数式です。数式の一行目には、この世界を作り上げている物質の最小単位、つまり素粒子がどんな性質を持っているのかを表す数式が書かれています。

 

素粒子は4種類。

  • 原子の中をくるくる回っている電子(e)
  • 原子の中心の原子核を作り上げているクォークと名づけられた(u)と(d)
  • 原子核から時折飛び出してくることがある気まぐれな素粒子ニュートリノ(ν)

 

これらの素粒子を原子の中にまとめたり動かしたりしているものの正体は何でしょうか?

 

電子を原子核に引き寄せているのが電磁気力。そして2種類のクォークをまとめ原子核を作り上げているのが「強い核力」と呼ばれる力。ニュートリノの原子核から飛び出させていた原因は「弱い核力」と呼ばれる力です。

 

物理学者たちは4つの素粒子と3つの力が完全に理解できると、オーロラや台風だけでなくこの世の全てが説明できると信じています。物理学者は、この神の数式に最も近い数式にどうやって辿り着いたのでしょうか?

 

ディラック方程式

1920年代後半のイギリス・ケンブリッジ大学にポール・ディラックという若き物理学者がいました。万物を説明する数式を探したいと、ディラックの興味はまず4種類の素粒子のうちで唯一発見されていた電子に向かいました。すでに電子はマイナスの電気を持っていることが分かっていました。さらにその性質を表す数式も知られていました。シュレディンガー方程式です。この数式を使えば電子のエネルギーなどをほぼ正しく求めることが可能でした。

 

ところが、その電子にシュレディンガー方程式では説明のつかない性質があることが分かってきました。いわば地球のように自転をし、さらに磁石のような性質を持っているという事実。なぜ自然は自転する磁石のような不思議な性質を電子に与えたのか。ディラックはその性質を説明できる新しい数式を作り出したいと考えたのです。

 

新しい数式を作ろうというディラックのアプローチは非常に変わっていました。それまでは実験や観測結果をそのまま数式に置き換えれば良いと考えられていましたが、ディラックは自分の美的感覚に従うことにしたのです。ディラックの座右の銘は「物理法則は数学的に美しくなければならない」です。

 

3ヶ月間、書斎に篭りっきりになったディラックは、外部との接触を一切断ち切りました。そして1928年にディラック方程式を発表。電子の自転や磁石といった謎めいた性質を全て正確に説明することが出来たのです。さらに、その後見つかったニュートリノやクォークなど物質の最小単位である全ての素粒子の性質が、ディラック方程式で説明できることまで分かりました。

 

オッペンハイマー 無限大の問題

1930年代、アメリカ西海岸に電磁気力の数式に挑む一人の物理学者ロバート・オッペンハイマーがいました。オッペンハイマーが目をつけたのはゲージ対称性。そして、電磁気力の性質を表す数式が誕生しました。数式から導き出された世界は興味深いものでした。

 

電子は光子と呼ばれる光の粒を放ち、それが電子と原子核を結び付けているというもの。電磁気力を伝える実態もまた粒のような存在だと言うのです。ところが、実際に数式を使ってみると粒子のエネルギーは無限大という数値になってしまい、それはあらゆる物質が存在してはならないということを意味しました。

 

1939年9月、ドイツがポーランドへ侵攻し第2次世界大戦が始まりました。さらに、アメリカの物理学者テルミがウランの核分裂連鎖反応に成功。多くの物理学者が原爆の開発へと駆り立てられることになったのです。オッペンハンマーはマンハッタン計画の責任者に任命され、神の数式へ近づくための研究は無限大の問題を解消できないまま姿を消しました。戦後、無限大の問題は解決されました。

 

ヤンの数式

1950年代、中国のチェンニン・ヤンは強い核力と弱い核力に挑みました。ヤンは原子核の中にゲージ対称性と似た美しさが存在しないか調べ始めました。そして辿り着いたのが物理学者にとっても超難解だと言われる非可換ゲージ対称性。そして、1954年にヤンの数式が出来ました。ところが強い核力や弱い核力を伝える粒子の重さが、どう計算しても全てゼロになってしまうという矛盾。重さがゼロなのは光子だけで、他の粒子は全て重さを持つはずだったのです。その後まもなくヤンの理論について議論するという学者はほとんどいなくなりました。ヤン自身も理論の完成をあきらめました。

 

全ての謎が解かれるまでにはヒッグス粒子の発見を待たねばなりませんでした。

 

倒れてしまう鉛筆問題&自発的対称性の破れ

1960年代、アメリカ・シカゴにそれまでとは全くタイプの異なる物理学者が登場しました。日本生まれの南部陽一郎(なんぶよういちろう)です。

 

1960年代始め、南部が最も興味を持っていたのは倒れてしまう鉛筆の問題でした。鉛筆を真っ直ぐに立てる設計図は回転対称性を実現するように描かれています。そして設計図通り実際に鉛筆を立ててみると、現実は設計図通りの回転対称性を持った状態にはなりません。設計図には対称性があるのに実際に起きる現実には対象性はない。その後、ノーベル賞に輝く「自発的対称性の破れ」と呼ばる現象です。

 

南部は、自発的対称性の破れが自然界の設計図でも起きえると閃いたのです。倒れる鉛筆という身近な存在から生まれた自発的対称性の破れは、誰もが予想しなかった大発見だったのです。

 

ヒッグス粒子

強い核力からクォークの重さが自動的に生まれることは分かりましたが、強い核力を感じない電子やニュートリノ、弱い核力を伝える粒子などの重さが数式上はどうしてもゼロになるという問題が残っていました。この問題にヒッグス粒子という新手のアイディアで挑むことになるのがスティーブン・ワインバーグです。

 

ワインバーグは、クォーク以外の粒子にも重さを持たせるため、南部が提唱した自発的対称性の破れを応用できないか悩み続けていました。そしてついに、それまでの物理学者が決して踏み出さなかった禁断の領域へと足を踏み入れます。それは、この世には存在しない都合の良い粒子を理論に持ち込むこと。その都合の良い素粒子は、最初は空間にほとんど存在しないにも関わらず、その後勝手に空間を埋め尽くすような粒子だと言います。

 

これは最初は完璧な美しさを保っていた世界が、その後勝手にその美しさを失うという南部の考え方を応用したものでした。ワインバーグによると、ヒッグス粒子に邪魔されることで電子などが行く手を阻まれ動きにくくなります。その動きにくさこそが重さの正体だと言うのです。

 

ところが当時、ワインバーグの理論の評判は決していいものではありませんでした。ヒッグス粒子があまりに都合がよすぎるという違和感を一部の物理学者が拭い去れなかったのです。

 

標準理論の完成

2010年、ヒッグス粒子を見つけるため人類史上最大のエネルギーを空間の一点に注ぎこむ実験装置が動き始めました。2年以上にわたる実験を経てヒッグス粒子がたたき出されたと思われるシグナルがとらえられたのです。ワインバーグの理論が実証されたと世界中が称えました。

 

こうして物理学者たちが辿り着いた一つの数式、この世界を作る4種類の素粒子と3つの力を矛盾なく書き表した「標準理論」が完成したのです。

 

宇宙は設計図である神の数式に従って誕生し、当初は設計図通りの完璧な対称性を保っていました。そこではあらゆる素粒子に重さがなくバラバラに飛び回っていました。しかし、ヒッグス粒子などが引き起こす自発的対称性の破れによって、素粒子に重さが生まれました。その結果、素粒子がまとまり原子が作られ星々が輝き始め銀河も形成されていきました。

 

今、私たちの暮らしが存在することも神の数式に織り込まれていたと物理学者たちは考えているのです。ヒッグス粒子の発見により、標準理論はこの世界に説明できない現象はないとまで言われるようになっています。しかし、標準理論を構築した物理学者たちは理論の完成を喜ぶよりも、その先を目指し始めています。

 

素粒子の世界では、素粒子があまりに軽いため、それまで考えに入れる必要がなかった重力です。今、物理学の最先端では重力をも取り入れなければ本物の神の数式には辿り着けないという考え方が支配的になっています。




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