”悪魔の兵器”はこうして誕生した ~原爆 科学者たちの心の闇~

73年前、史上初めて日本に落とされた2発の原爆。一瞬にして20万人もの命を奪った史上最悪とも言える大虐殺。なぜ人類はこの悪魔の兵器を生み出したのでしょうか?

 

 

原爆の研究開発が行われた場所は不思議な荒野の中にあります。切り立った高台の上に突如小さな町が現れます。ロスアラモスです。人口は1万2000人ですが、巨大な国立の科学研究所があります。核兵器などアメリカ最先端の軍事機密を開発する都市です。実は、ここは第二次世界大戦中に原爆開発のために何もない荒野に新たに作られた町です。

 

町の中心にかつてこの町を取り仕切っていた男の銅像が立っています。原爆を開発したロスアラモス研究所の所長ロバート・オッペンハイマーです。

 

ロバート・オッペンハイマー

 

 

私たちはいかなる世界においても邪悪と見なされるものを作りだした。だが、宇宙の知識のように原爆も今後の人々の生活を変えるだろう。

(ロバート・オッペンハイマー)

 

オッペンハイマーはどんな人物だったのか?

オッペンハイマーは自分が世界で最も偉大な天才だと見られたいと思っていました。その願いを叶える道が原爆開発でした。その野心こそが非常に強い動機となっていました。

(スティーブンス工科大学アレックス・ウェラースタイン准教授)

 

オッペンハイマーはニューヨークで生まれました。ハーバード大学を3年で、しかも首席で卒業。核物理学の世界最先端だったドイツに留学した後、25歳でカリフォルニア大学で教鞭をとりました。ハーバードなど12の大学からオファーを受けるほど注目される若き学者でした。

 

 

兄は優秀だと思えない人がいると彼らをひどく傷つけた。兄の不興を買うと本当に辱められた。兄にとって優秀であることがそれほど特別に大事なことだった。

(弟のフランク・オッペンハイマー)

 

しかし、オッペンハイマーはその後、思うような研究成果をあげられずノーベル賞に手が届きませんでした。

 

1939年、オッペンハイマーに決定的な挫折感を抱かせる出来事が起こりました。大学で親しかった同僚アーネスト・ローレンスがノーベル物理学賞を受賞したのです。オッペンハイマーはローレンスにこんな手紙を送っています。

 

あなたに比べて私は常に負け犬だった。それは私の抱える問題の一部であり、今後も変わらないだろう。

(オッペンハイマー)

 

同じ年、第二次世界大戦が始まり、科学者たちの環境は大きく変わっていきました。最新兵器の開発が急ピッチで必要となり、優秀な科学者たちはその協力を求められました。

 

 

その頃には大学の状況が大きく変わっていた。物理学者の多くが大学を離れレーダーなどの研究所に移っていた。みんな話しが来ればすぐに立ち上がり大学を離れていったので、教鞭をとる人はほぼ誰もいなくなっていた。

(ロバート・サーバー)

 

ローレンスらノーベル賞受賞者のもとで原爆の研究チームが組まれました。しかし、実績で劣るオッペンハイマーには声がかかりませんでした。かつて大恐慌の頃に組合活動に熱心に参加したことも影響していました。

 

私は多くの知り合いが軍事的な研究に呼ばれていくのを見て彼らに嫉妬心を抱かずにはいられなかった。

(公聴会の記録より)

 

1942年になってオッペンハイマーはようやくチャンスを掴みました。原爆の理論研究が進んだため実際に爆弾として製造する新たな研究所が必要となり、その所長となる人材が求められていたのです。

 

人選にあたったのは原爆開発計画の陸軍の責任者レスリー・グローブス。複数の候補者と面談を重ねていましたが、周囲にはオッペンハイマーを推す声はありませんでした。

 

オッペンハイマーには2つの大きな不利な点があった。1つは大規模計画を仕切った経験がなかったこと。もう1つはノーベル賞を取っていなかったことである。私はこの計画の指導者に名声を求めていたが、当時の彼にはそれが欠けていた。

(グローブスの回想録より)

 

オッペンハイマーはグローブスとの面会で逆転を狙っていました。原爆開発を成功させる自らのプランを懸命に説明し、自分が所長の座に相応しいと強調しました。グローブスは自分を売り込むオッペンハイマーの野心に惹かれました。

 

オッペンハイマーは世界の歴史に自らの名前を残すチャンスだと考えている。彼は科学者としての名声を賭けると言ったので今後も国家に忠実であり続けるだろう。

(グローブスの部下 覚書より)

 

所長の座を手にしたオッペンハイマーは、すぐにロスアラモスでの成功を確たるものにするために優秀な科学者を集め始めました。まず声をかけたのはトップクラスの科学者たち。プロジェクトの重要性をアピールすると共に、最高の研究ができると誘いました。

 

これは非常に大きな計画で仕事をしてもらうために十分魅力的な環境にする。

(ベーテへの手紙より)

 

若い科学者たちには大物科学者と研究できると誘いました。引き寄せられるように人材が集まりました。ロバート・クローンは大学を卒業したばかりの23歳の時にロスアラモス研究所に加わりました。

 

それまで物理学の教科書で見ていた有名な人々と会えて圧倒された。あの頃の最高の科学者たちと出会えた経験は私にとって価値のあることで他のこととは比べようがないのだ。

(ロバート・クローン)

 

科学者たちの説得に成功したオッペンハイマー。最終的にロスアラモスには300人の科学者が集まり、原爆開発に突き進んでいきました。

 

オッペンハイマーはグローブスや陸軍と手を組み原爆を作るための莫大な資金と非常に多くの人材を手にした。それは間違いなく悪魔に魂を売り引き換えに力を得るファウスト的契約の典型だった。オッペンハイマーは完全に目がくらみ、この兵器を作り上げるという非常に激烈な情熱になった。

(フリーマン・ダイソン)

 

原爆の開発はどのように始まったのか?

1939年、原爆開発について憑りつかれたかのように周囲に働きかけていた男がいました。無名の物理学者レオ・シラードです。ドイツから亡命してきたユダヤ人でした。

 

私が原爆に強い興味を持ったのは、ドイツが私たちより先に開発していると考えたからだ。ドイツに原爆を投下されないためには自分たちも開発するしかなかった。

(レオ・シラード 音声テープより)

 

1930年代、レオ・シラードはドイツに暮らしていました。そこでシラードはナチスによって日に日に激しくなるユダヤ人排除を目の当たりにしました。身の危険を感じたシラードは間一髪のタイミングでドイツから逃れました。

 

私はある日、列車でベルリンから逃れた。その日の列車は空っぽだったが翌日は超満員となり出発が止められ乗客が列車から降ろされた。全員がナチスに尋問された。常識的な考えは全く通用しなかった。

(レオ・シラード)

 

亡命したシラードが辿り着いたのはアメリカ・ニューヨーク。同じ亡命した科学者の助けを得てコロンビア大学の非常勤講師の職を得ました。

 

レオ・シラードはある科学のニュースを聞いて衝撃を受けました。物質を構成する原子の中核にある原子核が2つに割れることが実験で証明されたというものでした。もし、原子核を連鎖的に分裂させることができれば、そのとき放出される巨大なエネルギーによって非常に強力な爆弾が作られてしまうとシラードは考えました。シラードが何より衝撃を受けたのがその実験を成功させたのがドイツであることでした。

 

核分裂発見のニュースから半年余り、第二次世界大戦が始まりました。ドイツは世界中を征服するかの勢いで進軍を続けていました。

 

当時、ドイツは核物理学研究の世界の中心地で優秀な科学者を数多く抱えていました。ドイツは原爆開発を進めていると確信したシラードは、ヒトラーが原爆を手にし世界を支配する日を恐れました。

 

アメリカが先に原爆を開発しなければならないと焦りを募らせたシラードは大統領に手紙を書きました。しかし、シラードは無名の科学者でした。そこでドイツ時代の恩師アルベルト・アインシュタインを巻き込みました。

 

シラードはアインシュタインを訪ね、原爆開発の必要性を説明し大統領宛ての手紙にサインをさせました。

 

アインシュタインは原爆のことを初めて耳にした。彼はすぐに理解して必要なことは惜しまず尽力する態度を示してくれた。

(レオ・シラード)

 

レオ・シラードの危機感が原爆開発という悪魔への道を開いたのです。

 

原爆開発はどのように巨大プロジェクトへと発展したのか?

中心となったのはアメリカ科学界のドンだったヴァニーヴァー・ブッシュです。

 

多くの人は原爆の開発計画は大統領や軍の最高幹部らが主導して決定したと思っているだろう。だが、そのようなことは起こらなかったし起こるはずがなかった。現実は科学者が物理学を説明しても無駄だったし、大統領も軍も多くを理解していなかったのだ。

(ブッシュの回想録より)

 

ヴァニーヴァー・ブッシュはどんな人物だったのか?

ルーズベルト大統領の側近で科学顧問だったのがヴァニーヴァー・ブッシュでした。ブッシュが大統領の絶大な信頼を得ていたのは、戦争中に科学者たちを総動員し最新兵器を次々と世に送り出したからでした。

 

ブッシュはいつも聞いていた。それは本当にこの戦争に役立ち勝ちにつながるようなものなのか、この戦争に!と。

(当時のブッシュの記事より)

 

日本の家屋を効率的に焼き払うために開発された焼夷弾。高温で燃える油を入れ、数十万の人々を焼き殺しました。塹壕に隠れた日本兵を圧倒的な火力であぶり出した火炎放射器。射程を従来の2倍以上にしていました。

 

こうした兵器開発はヴァニーヴァー・ブッシュがルーズベルトに直談判して実現させた科学研究開発局が全て担っていました。軍が必要とする兵器開発を大学などの民間科学力が支える全く新たな組織でした。

 

原爆を作ることが目的ではない。戦争に科学技術を活用しただけだ。誘導ミサイルもロケットもそうさ。こうなることは必然だったんだよ。文明が学ぶことの一つだった。科学がもたらした恵みなんだ。

(ヴァニーヴァー・ブッシュ)

 

ブッシュはMITとハーバード大学で博士号を取った後、42歳の若さでMITの副学長となった超エリート科学者でした。1939年にカーネギー研究所の所長に就任し、科学界のドンとなりました。

 

なぜブッシュは兵器開発に全力を傾けたのか?

科学は病気をなくし生活水準を向上させているのに、物理科学への資金援助は大幅にカットされ完全にうち捨てられた。

(ブッシュの手紙より)

 

戦争が始まる前の1930年代、アメリカを覆った世界大恐慌。機械化が人の仕事を奪ったと言われ「科学者は恐慌を引き起こした一因」と目の敵にされました。博士課程を修了しても科学者の多くは仕事に就けませんでした。

 

ブッシュは強い決意で戦争にのぞんでいました。この戦争に貢献し、科学者の地位をあげると。

 

この戦争は科学技術が左右する。どんな手を使ってでも武器を軍に与えなくてはならない。もっと強力な爆弾を造りあげて他人の頭上に落とすのも悪いことではない。

(ブッシュの回想録・手紙より)

 

ブッシュが手掛けた兵器開発の中で最大のプロジェクトが原爆開発でした。しかし、それは大きな賭けでした。当初、開発成功の可能性は10%と言われていた中で大統領に進言しました。

 

一つだけ確かなことは原爆の爆発力は既存の爆弾の何千倍も大きく戦争の勝利を決定的にするでしょう。

(大統領への手紙より)

 

第二次世界大戦へ

ブッシュが本格的に原爆開発に乗り出した直後、日本軍による真珠湾攻撃でアメリカは第二次世界大戦に参戦しました。

 

極秘事項として承認された原爆開発計画の予算額は20倍規模に膨れ上がり、最終的には20億ドル(現在の約3兆円)にもなりました。

 

ブッシュの言うままに計画を認めた大統領はたった一つだけ要求を出しました。戦争中に開発を間に合わせること。

 

極秘だった原爆開発は1942年6月、「マンハッタン計画」と呼ばれるようになり、全米で28か所に研究関連施設が建設されました。ブッシュはワシントンで大統領のもと5人の最高政策グループの中心メンバーとして全体をとりしきりました。

 

レオ・シラードはシカゴ大学で原爆の原料プルトニウムの研究製造で中心的な役割を果たしました。オッペンハイマーはロスアラモス研究所を指揮していました。

 

1943年4月にロスアラモス研究所は完成。全米からのべ300人の科学者が集まり、その家族らも合わせ6000人が暮らしました。計画は国家機密だったため町は有刺鉄線で囲われ厳重なセキュリティがしかれました。

 

疑いの目

国家機密として極秘に巨額の開発費がつぎこまれていた原爆開発。しかし、疑問の目が向き始めました。

 

1943年、多額の使途不明金が陸軍の予算に計上されたことを見逃さず、追求する調査が動きだしたのです。軍事支出の無駄を追求する活動で名をはせていたハリー・トルーマン上院議員でした。不正支出ではないかと疑っていました。

 

ルーズベルト政権は国家機密を盾に調査を拒み、原爆計画が公になることを防いでいました。

 

ブッシュ「もし我々が戦争が終わるまでに原爆を開発できなければ窮地に陥るかもしれません。」

ルーズベルト「そうだね。戦争が終わってしまえば原爆の開発も我々の手でできなくなるだろうね。」

(ブッシュの回想録より)

 

国民が知らない中で進んだ原爆開発は、後戻りのできないものになっていきました。

 

1944年、ドイツの原爆開発の状況を探るために送り込んでいた諜報部隊から「ドイツはまだ本格的な開発に乗り出していない」と情報が入りました。アメリカが開発を始めた最大の理由だったナチスドイツの原爆製造。実は、ドイツは戦線拡大により戦費が膨れ上がり費用のかかる原爆開発を早くに断念していたのです。

 

アメリカは脅威がないとわかるまで幽霊を追いかけていたのです。

(作家リチャード・ローズ)

 

ドイツの開発断念は1942年6月のこと。それはまさにアメリカが「マンハッタン計画」を立ち上げたタイミングでした。

 

しかし、そのあとも原爆開発は止まりませんでした。

 

なぜ科学者たちは研究開発を止めなかったのか?

1944年冬、科学者たちの中で開発に対する疑問が沸き上がっていました。この頃、原爆の開発を急ぐ理由は薄れていました。ドイツは原爆の開発をしておらず、しかも降伏は時間の問題となっていました。

 

ロバード・ウィルソンは科学者同士で話し合う場をもうけようとしました。しかし、集会の開催を聞きつけたオッペンハイマーに呼び出されました。

 

 

オッペンハイマーは私に集会をやらないように説得してきた。彼は私に「集会を開いたら軍の人たちともめることになる」と警告してきた。もめごとが起こることはオッペンハイマーの一番の心配事だった。

(ロバート・ウィルソン)

 

ウィルソンはオッペンハイマーの指示に従わず集会を開催。50人程の科学者が集まったと言います。しかし、その中にはオッペンハイマーもいました。

 

 

オッペンハイマーが来たのでミーティングは緊張感に包まれた。私たちは開発を続けるべきかやめるべきか、とても重大な議論だった。私たちがやっていることは倫理的に間違っているのかもしれない。

(ロバート・ウィルソン)

 

オッペンハイマーが立ち上がり話し始めたと言います。

 

世界が恐ろしい爆弾を目の当たりにすれば戦争という選択肢を捨てるに違いない。そうすれば平和の秩序が守られるはずだ。原爆の存在を世界に示すためにも戦争が終わるまでになんとしても完成させなければならない。

(ウィルソンの証言より)

 

オッペンハイマーが語ったのは原爆を開発する目的。これまでの目的とは全く違うものでした。

 

 

オッペンハイマーの目標は原爆を完成させ、それを使うことでした。その目標を達成することを誰にも邪魔されたくなかったのです。

(スティーブンス工科大学アレックス・ウェラースタイン准教授)

 

科学者たちが集会を開くたびにオッペンハイマーは出席し、新たな開発理由を訴え説得を続けました。

 

 

私たちは多くが爆弾を作ることに疑念を抱きましたが、軍事的なプロジェクトにおいてそれを表明するうべはなかった。仮に誰かが口にすればその人はロスアラモスから放り出されただろう。

(ロイ・グラウバーさん)

 

結局、彼らは研究開発に戻っていきました。このプロジェクトを抜けるアメリカの科学者は一人もいなかったのです。

 

 

恐ろしい未来がわかっていながら現状に甘んじて何も変えようとしなかった。長い期間を経てその状況を受け入れるというのはなんとも奇妙な感覚だ。それは人間のほとんどの活動で同じなのでしょうが。

(ロイ・グラウバーさん)

 

オッペンハイマーはなぜ世界平和のためという新しい開発理由を語り始めたのか?

ノーベル賞物理学者のニールス・ボーアはロスアラモスを訪れオッペンハイマーにこう尋ねていました。

 

「それは十分に大きいかね。」

 

ボーアは原爆の破壊力が大きければ人々は戦争を放棄するという考えの持ち主でした。ボーアの新しい考えをオッペンハイマーは興味深く聞いていました。

 

 

ボーアの話はオッペンハイマーが原爆開発の意義を見直す助けとなりました。彼はただ人を殺害するだけでなく何らかの目的を求めていたのです。

(作家リチャード・ローズ)

 

ルーズベルトの死

この頃、原爆開発に疑念を抱いたのはロスアラモスの科学者だけではありませんでした。レオ・シラードは大きく揺れていました。

 

1945年春にドイツとの戦争はまもなく終わるとわかっていた。私は自問し始めた原爆開発を続ける目的は何なのか。もし最初の爆弾が完成したとき日本との戦争が続いていたら爆弾はどのように使われるのか。

(レオ・シラード)

 

シラードは自分の抱いた懸念を大統領に伝えようと再び手紙を送りました。1945年4月、シラードとルーズベルト大統領との面会が決まりました。ところが…

 

オフィスに戻って5分もせずに助手が部屋に来てこう言った。「たった今ラジオで聞いたのだがルーズベルト大統領が亡くなったらしい」私はその場で茫然と立ち尽くしてしまった。

(レオ・シラード)

 

このことが原爆開発計画に大きく影響を与えていきました。

 

ルーズベルト急死の1か月前、政権の内部ではいまだに原爆が完成していないことを問題視する声が上がっていました。

 

途方もない金と人材を使っている計画がもし失敗することになれば容赦のない調査と批判にさらされることになる。

(ジェームズ・バーンズの手紙より)

 

後ろ盾のルーズベルトを失ったブッシュは国民の糾弾の矢面に立つことを恐れていました。

 

私の負担は増え続ける一方で支えてくれる人間は減っている。本当に危うい状況で私は重大な問題に巻き込まれるかもしれない。

(ブッシュの手紙より)

 

新大統領に就任したのはハリー・トルーマン。かつて使途不明の巨額の軍事支出を原爆開発費だとは知らずに追求していました。急遽、陸軍とのミーティングが設定され原爆開発に20億ドルをつぎこんでいると告げられました。トルーマンは驚き、大変な状況だと把握しました。

 

原爆はアメリカの科学の達成と戦争で努力し成功したことを誇る根拠となる。例え完成した原爆で実験の成功を見せてもアメリカの大衆がその意義を十分に理解することはない。原爆を投下することが人々の意識に十分な影響を与える唯一の方法である。

(ブッシュの覚書・回想録より)

 

決意をかためたブッシュのもとに待ち望んでいた情報が届きました。

 

原爆は8月1日に手に入る

 

原爆はついに完成の目途がついたのです。

 

1945年5月、ドイツが降伏。原爆開発のきっかけとなったナチス・ヒトラーの脅威は完全になくなりました。残りの対戦国は日本だけでした。

 

アメリカは東京大空襲をはじめとする日本本土への徹底した焼夷弾空爆を行いました。降伏は時間の問題とみられていました。

 

暫定委員会

新大統領トルーマンのもとでブッシュの要請をきっかけに一つの組織が立ち上がりました。原爆の使用法などを具体的に検討し大統領に勧告する「暫定委員会」です。出席者はグローブスら軍人や政治家とブッシュやオッペンハイマーら科学者たちでした。議論は原爆の投下を前提に進められていきました。

 

レオ・シラードは、暫定委員会は原爆は使用すべきという立場の人間でかためられていたと言います。

 

ブッシュは20億ドルも費やした責任から成果を示そうとしていた。軍は原爆投下を決意していた。関係者はみな自分たちはやったのだ、成功させたと見せつけたかった。

(レオ・シラード)

 

原爆を投下する目的は何なのか?委員会で決められました。

 

可能な限り多数の住民に深刻な心理的影響を与えるべきである

 

どのような場所に原爆を落とすべきであるか、具体的な提案をしたのはブッシュの側近の科学者ジェイムス・コナントでした。

 

最も望ましい目標は多数の労働者を雇用し、かつ労働者の住宅にぎっしりと囲われた軍需工場だろう。

(暫定委員会議事録より)

 

一般市民の住宅が立ち並ぶ場所に原爆を投下する、委員会の結論としてトルーマン大統領に勧告されました。

 

投下予定地は複数の候補から広島・長崎に決まっていきました。科学者が提案し開発した原爆は、科学者たちの意見により多くの一般市民の上に落とされようとしていました。

 

完成した原爆は本当に日本に投下すべきなのか?一通の意見書が暫定委員会に出されていました。

 

 

アメリカがもしこの無差別破壊の新兵器を人類の頭上に最初に投下するならば、全世界の人々の支持を失うだろう。

 

提出したのはレオ・シラードらシカゴ大学で研究していた科学者たち。日本に対して原爆を直接使用するのではなく、デモンストレーションを行い日本人にその破壊力を見せた上で降伏を迫るべきだと提案しました。

 

暫定委員会はこの意見書を諮問機関である科学顧問団に検討させることにしました。科学顧問団の代表はオッペンハイマーでした。シラードらの提案を却下し、新たな勧告書を暫定委員会に提出しました。

 

原爆のデモンストレーションでは戦争を終結させる見込みがない。直接的軍事仕様以外に賛同できる案は考えられない。

 

しかし、アメリカの科学誌の研究者はシラードら投下反対の意見書を出した科学者たちにも厳しい視線を向けています。

 

 

科学者たちは誰一人として守秘義務を破りませんでした。当時はエドワード・スノーデンのような人はいなかったのです。原爆を使うのは間違っていると言いながら外に向けて話すことはありませんでした。彼ら自身にもそれほどの強い気持ちはなかったのです。これは重要なポイントだと思います。

(アリゾナ州立大学パスカル・ザッカリー教授)

 

科学者らは原爆投下という道を選んだのです。

 

原爆投下の時の思い

 

広島への原爆投下が発表された時、私は兄のオフィスのすぐ近くにいた。そのニュースはスピーカーから全体に拡散されて「原爆が投下され広島が壊滅した」と伝えられた。最初の反応は「不発弾ではなくて良かった」だった。

突然多くの人が殺されたという恐怖が沸き上がってきた。なぜか、そのときまで被害にあう人々のことを考えていなかった。実際の写真を見るまでもなく本当にむごたらしい気持ちになった。

それでも、最初に頭によぎったのはうまくいって良かっただった。

(弟のフランク・オッペンハイマー)

 

 

私たちの最初の反応は満足感だった。「今それが成されたのだ。長年私たちが携わってきた仕事が戦争に貢献したのだ。」2つ目の反応は言うまでもなくある種のショックと恐怖だった。なんてことをしてしまったのだろう。

(ハンス・ベーテ)

 

悲劇は終わりませんでした。3日後、2発目の原爆が長崎に落とされました。広島型とは仕組みの異なる量産しやすい原爆でした。再び7万人もの命が犠牲となりました。

 

終戦後、科学者たちは何を思っていたのか?

オッペンハイマーは一躍英雄となり科学者の象徴として全米にその名が知られるようになりました。

 

 

戦前と戦後で兄は変わってしまった。悦に入っているとでも言うのか、兄は自分が世界を大きく変えたんだと思っていたのだと思う。戦後、私は兄とかなり口論をした。私は原子爆弾の危険性について人々にもっとよく知らしめておけば結果は大きく違ったと感じていた。しかし、兄は「そんな時間はなかった」と言っていた。

(弟のフランク・オッペンハイマー)

 

オッペンハイマーは自分の成し遂げた原爆開発を次のように語っています。

 

 

核兵器の使用方法は広島で確立された。核兵器は攻撃性があり突然で恐怖の武器である。世界はその存在を知り最終的には人々と国と文化間の関係に革命的な変化が起きていくだろう。

(ロバート・オッペンハイマー)

 

しかし、この後オッペンハイマーの人生は激変していきました。プリンストン高等研究所の所長に転身し、国の原子力政策にも携わりましたが、そこで政治家と対立。かつて組合活動で共産主義に傾倒していた過去も暴かれ、赤狩りにあり公職追放となりました。

 

1967年、オッペンハイマーは62歳で亡くなりました。

 

 

祖父は戦時中の自分の取り組みを悪いと感じていなかったと思います。私には理解するのが難しいのです。8歳の娘に祖父が何をしたのか聞かれて「強力な爆弾を作るのはいいアイディアでそれによって多くの人を殺さないようにした」というと困惑します。子供に説明することさえ難しいのです。

(孫のチャールズ・オッペンハイマー)

 

レオ・シラードはナチスドイツを恐れ、原爆開発のきっかけを作ったことをこう振り返っています。

 

原爆を作らねばならなかった。もしドイツに先を越されたら降伏しろと強要されたのだから。私は罪悪感を感じたことはない。

(レオ・シラード)

 

戦後は核軍縮運動に積極的に参加し、自ら製造に関わった原爆の国際管理を訴えました。

 

ヴァニーヴァー・ブッシュは原爆開発をこう振り返っています。

 

 

原爆は結局世に出るのもだった。それが劇的な形で現れただけだ。文明を進歩させるためだ。実験を見せても誰も現実を直視しない。世界は原爆と生きていくしかない。それを身にしみて理解したよ。

(ヴァニーヴァー・ブッシュ)

 

ブッシュは原爆開発を通して結びついた軍と科学界の関係をより一層強化しようとしました。ブッシュが創設した会社は今や世界一と言われる軍事ミサイルメーカーとなっています。売上額は年間2兆円にのぼります。

 

1974年、84歳で死んだブッシュ。死ぬ直前にこんな言葉を書き残しています。

 

敵国よりもより強い武器を持とうとして兵器は進化し、こうしたことは永遠に続く。ある人種を殲滅してしまうような原子力の戦争が起こるだろう。しかし、それは人類をはじめの状態に戻し、また同じ事が繰り返されるのだろう。

(ブッシュの回想録より)

 

「悪魔の兵器」誕生の裏には、関わった人間それぞれの思惑や大義がありました。人類はまた同じ悲劇を繰り返していくのでしょうか。

 

「BS1スペシャル」
”悪魔の兵器”はこうして誕生した
~原爆 科学者たちの心の闇~

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