古より繰り返されてきた戦の数々。そこで生まれる勝者と敗者。そして、そんな戦いの歴史はたいてい勝者が一方的に語ってきたものです。
敗者の多くは殺されたり自害をしたり、まさに死人に口なし。そうでない者も世間の片隅に追いやられ語ることも許されません。そのイメージは悪くなるばかりです。
近年、歴史研究の現場ではこれまで勝者が語ってきた歴史に多くの疑問が生まれています。彼らの記録から発見された改ざん、誇張、ねつ造のあと。
果たして勝者はどこまで真実を伝えているのでしょうか。そこに隠された敗者の歴史とは…
「日本書紀」の裏を読め!
国が編纂した歴史書いわゆる「正史」とされるものには、どこまで本当のことが書かれているのでしょうか。
現存する我が国最古の正史が「日本書紀」です。7世紀、天武天皇の命により編纂が始まり720年に完成しました。神代の時代から第41代 持統天皇の御世までの歴史が全30巻にわたって書かれています。
編纂は当時の中国・唐にならって始められたものです。日本が中国にも負けない立派な歴史を持つ国であることを内外に示すことが目的でした。唐からやって来た学者も加わった一大国家プロジェクトです。
「日本書紀」の中で最も有名な場面は645年、大化の改新の始まりである乙巳の変(いっしのへん)です。中大兄皇子、中臣鎌足らが宮中で蘇我入鹿を殺害。蘇我氏を滅ぼした政変です。
入鹿は天皇家の乗っ取りを企む危険人物として成敗されました。勝者である中大兄皇子らが正義のヒーローとして歴史にその名を刻んだ一方、殺された蘇我入鹿は悪事を企んだ逆臣として後の世に語り継がれることになりました。
知恵その一 英雄になりたければ悪者をつくれ
近年、「日本書紀」の記述には不自然な点がいくつもあることが分かってきました。乙巳の変が書かれた巻24は、唐から来た中国人の学者が書いたものだとされています。クライマックスのセリフに修正が見られます。
豈天孫をもちて 鞍作に代へむや
「日本書紀」より
「天孫」とは天皇、「鞍作」とは入鹿のこと。「どうして、天皇を入鹿にかえられましょうか」という意味です。入鹿が天皇になろうとしているという重要な記述ですが、ここに中国人ならあり得ない文法上の間違いがあります。これは誰か中国語の苦手な日本人が書き換えたのではないかと指摘されています。加筆か改ざんか。
文章の修正だけではありません。書かれている内容自体、事実と異なる点がいくつも見つかりました。
特に蘇我氏が4代にわたっていかに悪事をはたらいていたかということを描写した部分は事実無根と思われる事柄が書き連ねられているのです。
蘇我大臣蝦夷 己が祖廟を立てて 八佾の舞をす
「日本書紀」巻24 皇極元年
入鹿の父・蝦夷が先祖の墓の前で八佾(やつら)の舞を舞ったという意味です。八佾の舞とは、中国では天子のみに許された特別な舞のこと。それを天皇の臣下の分際で舞うとは傲慢だと批難しているのです。
ところが、史実では八佾の舞がこの時代の日本に伝わっていたという記録はありません。
蝦夷が八佾の舞を舞ったというこの話、論語にそっくりな話が出てきます。論語では王様に仕える重臣が主君をさしおいて八佾の舞を舞ったことを非難しています。
さらに、蝦夷と入鹿の親子が天皇の宮廷を見下ろす甘樫丘に、大邸宅を建設したとも記されています。天皇の宮廷よりも高い位置に自らの邸宅を作るとはなんとも不遜な態度、蘇我氏が天皇に成り代わろうと企んでいるに違いないと断罪します。
しかし2005年、甘樫丘の邸宅跡とされる地で行われた発掘調査で見つかったのは武器庫や兵舎とみられる遺構の数々。調査の結果、邸宅とされた建物は外敵から都を守るために見晴らしの良い丘の上にもうけられた公的な要塞だった可能性が出てきました。蘇我氏が野望を持っていたとされる証拠自体が怪しくなってきたのです。
なぜ、そこまでして蘇我氏を悪者にする必要があったのでしょうか。そこには勝者にとって都合の悪い歴史の真実が隠されていました。
乙巳の変をきっかけに始まった大化の改新で、日本は新たに律令国家として生まれ変わるべく、一大改革を進めていきました。その中心となったのが中大兄皇子です。
ところが663年、白村江の戦いで日本軍は唐と新羅の連合軍に大敗北をきっしました。朝鮮半島での外交上の足掛かりを失ったこの出兵を主導したのが中大兄皇子でした。
国を導く英雄に政治上の汚点があってはならない、英雄の失敗から人々の目をそらさなければなりませんでした。蘇我氏はまさに中大兄皇子を英雄として描くための引き立て役だったのです。さらに、中大兄皇子にとって不都合だったのは蘇我氏の才能でした。
藤原氏に代々伝えられてきた記録「藤氏家伝」に日本書紀にはない歴史記述があります。
入鹿と中臣鎌足は当代一の秀才が集まる学問所に共に通っていました。鎌足が遅れて入ると入鹿は立ち上がって礼をした。学問所の師がいうことには「私のところに出入りするもので入鹿の才能に及ぶ者はおらぬ」
描かれているのは礼儀正しく学問所で一番の秀才であった入鹿の姿です。国家の英雄・中大兄皇子にとって存在してはならない男だったのです。
巧みに作られた英雄の物語の裏には、決して語られることのない敗者の真の姿が描かれているのです。
「徳川実紀」の裏を読む!
文化6年(1809)幕府は徳川代々の偉業を伝えるべく公式の歴史書の編纂をはじめました。それが「徳川実紀」です。家康から10代将軍まで516冊にわたってその歴史が記されています。
その中の「東照宮御実紀」には徳川家康の生涯が綴られています。神君と呼ばれ神と崇められる存在となっていた家康。その記述の裏にあるものとは…
知恵その二 自慢話に気をつけろ!
そもそもなぜ家康は征夷大将軍となり幕府を開くことができたのしょうか?「徳川実紀」はその記述から始まります。
家康が幕府が開くことができた理由として書かれているのは「出自」です。家康の出自は水尾天皇にあると書かれています。
水尾天皇とは第56代・清和天皇のことです。鎌倉幕府の源頼朝をはじめ歴代の征夷大将軍は清和天皇から始まる清和源氏の流れをくむ者がほとんどです。この家系の者こそ征夷大将軍にふさわしいという認識が当時あったのです。秀吉や信長が征夷大将軍になりたくてもなれなかったのは清和天皇の家系ではなかったから、家康はなるべくしてなったというわけなのですが本当のところは…
ねつ造の歴史も、それが一たび正史に書かれてしまえば、それが歴史の真実かのごとく伝わっていきます。
このように家康の威光をいかに高めるかを主眼にすすめられた「徳川実紀」ですが、一つ大きな問題に直面していました。それは、豊臣家を滅ぼしたことをどう正当化するかです。
そもそも、徳川家は豊臣家の一家臣。家臣が主君を討つという家康の行為。「徳川実紀」にはこれを正当化するための仕掛けが随所に施されています。
まずは、天正12年(1584)小牧・長久手の戦いです。若き家康と秀吉の唯一の直接対決です。この戦いで家康は秀吉の裏をかき大勝利をあげました。「徳川実紀」にはこのとき秀吉が「誰が家康を海道一の弓取りと言ったのかほとんど日本一ではないか。戦術の巧みさは私及ぶところではない。」と語ったと記されています。しかし、「徳川実紀」以外に秀吉がこのようなことを語ったという史料はありません。
極めつけは大坂の陣。豊臣秀頼とその母・淀殿との最終決戦の場面です。まずは慶長19年(1614)大坂冬の陣、豊臣方10万に対し徳川方は20万の兵力で大坂城に襲い掛かりました。ところが、真田丸からの激しい攻撃に阻まれ大坂城の本丸を攻めあぐねました。苦戦する家康ですが、このときの様子を「徳川実紀」をこう記しています。
いよいよ本丸を潰しましょうと家康につめよる家臣たち。すると家康は「太閤の恩を思うと秀頼を討つのは忍びない。本丸には決して手を出してはならない。」と答えました。豊臣方に対してみせた家康の人徳に家臣たちは大感激して涙涙。
家康の慈悲深い行動によって、あえて本丸を潰さなかったのだとアピールしています。
そして慶長20年の大坂夏の陣で、家康は大坂城を一気に攻め落とし秀頼親子を自害に追い込みました。しかし、「徳川実紀」はそこでも家康の慈悲の心を強調しました。
戦の最中、豊臣方の使者が徳川の陣を訪れ、城を出たいので乗り物を用意して欲しいと依頼してきたと書かれています。家康はさっそく秀頼親子の命を救おうと準備にとりかかりましたが、そうしているあいだに家臣たちが家康に内緒で城に攻撃を仕掛けてしまったと言うのです。驚いた家康が家臣たちになぜ攻撃をしかけたのかと問うと、家臣たちは「生かしておくと後の禍になります。天下の無事にはかえられません。」と答えました。家臣たちの天下を思う心に家康は理解を示し、やむおえず攻撃を認めたのです。
家康は決して権力や天下が欲しかったのではない、天下泰平のために涙を飲んで豊臣家を滅ぼさざるおえなかったと書かれているのです。
「先人たちの底力 知恵泉」
歴史は勝者によってつくられる 正史の裏を読む
この記事のコメント
日本書紀には一書に曰くという他書物の引用記事が前提条件になる書き出しや日本旧記という具体的な書物名が記されていますよ。景行天皇の九州征服譚には不自然な行程が存在しています。九州の東側では征服戦が西側では凱旋の記述になってます。東からではなく西から征服に出発したことになり、征服戦を行った主が違っているのだと分かります。