夏目漱石の手紙 若者の能力を引き出す達人|知恵泉

NHK・Eテレの「先人たちの底力 知恵泉」で夏目漱石の手紙 若者の能力を引き出す達人?が放送されました。

 

文豪 夏目漱石 意外な素顔

「吾輩は猫である」「坊ちゃん」「三四郎」など日本の近代文学を代表する作品を生み出した夏目漱石。誰からも一目置かれる近寄りがたい文豪のイメージですが、実際の彼は気さくでユニークでした。本人は意図していないのに何故か笑いを誘ってしまう天然の人でした。そんな夏目漱石を慕って多くの若者が自宅にまで押しかけ弟子として教えをこいました。集まったメンバーは後に日本の文学界を背負うことになる錚々たる顔ぶれ。哲学者で文部大臣もつとめた安部能成(あべよししげ)、児童文学の父といわれる鈴木三重吉(すずきみえきち)、また芥川龍之介も夏目漱石を師と仰ぎました。若者たちは夏目漱石に様々な悩みをもちかけました。そんな彼らに夏目漱石は頻繁に手紙を送り、それぞれの個性に合わせたきめ細かいアドバイスをしました。その結果、多くの若者が能力を開花させ、次々に文壇にデビューしていったのです。

 

型破りな教師 夏目漱石

夏目漱石が「吾輩は猫である」を発表したのは38歳の時です。それまでの夏目漱石は松山の中学や熊本の高校で英語教師として生計を立てていました。夏目漱石は非常に厳格な教師でした。予習をせず安易に単語の意味を聞いてくる生徒には「そんなことは辞書を引けばわかる」と言って応じませんでした。その一方でひょうきんなエピソードも数多く残しています。

夏目漱石が第一高等学校で講師をしていた時のこと。ある日、試験監督をしていた夏目漱石。ふと一人の生徒の答案用紙が目に留まりました。そして「こんな字はありませんよ。お直しなさい」と試験中にも関わらず間違っていると指摘してしまったのです。生徒は答えが分からないから間違えているのにと困惑するしかありませんでした。厳しいながらもユーモア溢れる夏目漱石は生徒たちの人気者に。しかし、夏目漱石は教師という職業に常に疑問を感じていました。

「教師は必ずしも生徒より偉いわけではない。誤った事を教える場合もある。ゆえに生徒は教師が間違っていると思えば抗弁すべきだ」

夏目漱石は教師と生徒は対等であるべきだと感じていたのです。

 

若者に大人気

そんな夏目漱石は教師生活の合間に小説を書き始めました。処女作「吾輩は猫である」が発表されると、夏目漱石に教えをこおうと作家志望の若者が数多く自宅に押しかけるようになりました。面会に時間をとられて小説が書けないと困った夏目漱石に一人が「面会日は木曜日の午後3時に決めたらええんじゃないですかのう」と提案しました。こうして夏目漱石に会いたい人は一週間に一度、決められた時間に集まるようになりました。これが「木曜会」と呼ばれるようになる会合の始まりでした。木曜会は誰もが自由に参加でき、上下関係にとらわれず文学や政治などについて議論しました。夏目漱石は自分が話すというよりも若者たちの話を穏やかに聞いている時が多かったと言います。しかし、ただ聞いていたのではありません。彼らの話しぶり、内容、人との関わり方を細かく観察していたのです。そして、悩みを持ち掛けられるとそれぞれの個性に合った的確なアドバイスを与えました。夏目漱石にとって鋭い観察こそが若者の能力を引き出す第一歩だったのです。

 

知恵その一 「指導者」ではなく「理解者」であれ

森田草平(もりたそうへい)もまた夏目漱石に教えをこいた一人です。森田草平が初めて夏目漱石の家を訪れたのは東京帝国大学の学生だった時。森田は小説家を目指していました。夏目漱石に面会した森田は始終おどおどとした態度。当時の彼は突然考え込んでは部屋に引きこもってしまうなど精神的に不安定な部分がありました。森田は自分の作品を読んで欲しいと夏目漱石に頼みました。「病葉(わくらば)」を読んだ夏目漱石は森田の文章力に感心し、何とかこの青年の才能を伸ばしてやりたいと考えました。夏目漱石は森田に丁寧な感想を送りました。

「君の病葉を拝見しました。よく出来ています。文章などはずいぶん骨を折ったでしょう。趣向もおもしろい」

夏目漱石はまず森田を褒めることで自信をつけさせたのです。夏目漱石の手紙は森田に大きな衝撃を与えました。さらに夏目漱石は手紙の中で小説の感想だけでなく森田自身のことについても指摘しています。

「君はロシア文学を沢山読んでいるんでしょう。君はすでに細君がいるのではないですか。」

夏目漱石は小説の内容から森田の思考やプライベートについての推測をしたのです。森田は驚きました。なぜなら確かに彼はドストエフスキーなどロシアの小説の傾倒しており、伴侶もいることも事実だったからです。夏目漱石の言葉は森田の心を動かしました。

「おれはもはや孤独ではない!そういう感じで私はいっぱいであった」(森田草平)

夏目漱石は森田の趣味やバックグラウンドを素早く見抜くことで、君のことを興味を持って見ているよというメッセージを伝えたのでした。その後、木曜会で交流を深めた夏目漱石。学生の一人にこんな言葉を漏らしています。

「あの男は一挙一動人の批判を恐れている。僕はなるべくあの男を反対にしようしようと努めている」

実は、森田の孤独な性格は彼の生い立ちと深く関係していました。10歳で父親を亡くした時、母親から父が本当の親ではないという事実を告げられたのです。それ以降、自分は何者なのかという疑問が森田の中から消えることはありませんでした。夏目漱石はそんな森田と何度も手紙をやり取りし、まるで本当の父親のように彼の支えになりました。森田のような心を開かない孤独屋タイプには、指導するよりもまずは最大の理解者になる。夏目漱石という支柱を得て森田はその後、小説家として生きる決意をかためていきました。

 

スキャンダルを起こした教え子 その時漱石は…

明治41年3月、27歳の森田草平は栃木県塩原で心中未遂事件を起こしました。このスキャンダルで世間を騒がせた森田は、夏目漱石が世話をした中学教師の職を失いました。窮地に立たされた森田に夏目漱石はこの事件を小説に書くことをすすめました。しかし、そのことを聞いた相手の母親が夏目漱石にやめるよう訴えました。夏目漱石は森田のために深々と頭を下げて母親を説得しました。さらに、自ら朝日新聞とかけあい森田の連載を決めてやりました。このときの小説「煤煙」は大好評を得て、森田は人気作家の仲間入りを果たしました。大きな不祥事を起こした森田を夏目漱石は決して見放さず、最後まで辛抱強く味方でい続けたのでした。


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