中馬庚 日本野球の誕生|知恵泉

NHK・Eテレの「先人たちの底力 知恵泉」で中馬庚 侍野球VS.ベースボール 日本野球の誕生が放送されました。

野球が日本人に愛されるようになった原点は、明治時代にあります。当時、日本では欧米列強と結んだ不平等条約への不満が高まっていました。そんな中、ある野球の国際試合が行われました。東京の第一高等学校野球部と横浜の外国人チームとの対戦。立派なスパイクやグラブを身に着けた外国人選手に対し、一校野球部地下足袋に素手。相手は隠し玉を繰り出し勝利をもぎ取ろうとしました。しかし、真っ向勝負を挑んだ一高野球部は見事外国人チームに勝利。日本中の称賛を集めました。この一高野球部を率いたのが中馬庚(ちゅうまかのえ)です。選手そして指導者として日本に野球を広めるため尽力した人物です。ベースボールを野球と訳したのも中馬庚です。中馬庚が追及したのはアメリカのベースボールとは一線を画す礼を重んじる日本の野球道でした。その精神は高校野球をはじめ日本の野球界に大きな影響を与えました。

 

「野球」の名付け親 中馬庚

日本にアメリカからベースボールが伝わったのは明治5年(1872年)のことです。東京大学の前身「開成学校」で当時数学教師として招かれていたホーレス・ウィルソンが授業のかたわらに教え始めたのが最初だと言われています。その頃、中馬庚は鹿児島で幼少期を過ごしていました。中馬庚は12歳で西郷隆盛をしのんで設立された三州義塾に入学しました。そこで何より重んじられたのが侍精神でした。中馬庚は幼い頃から心を磨くことの大切さを叩きこまれて育ちました。

明治21年、中馬庚は鹿児島から上京し東京大学教養学部の前身である第一高等中学校に入学しました。ここで初めてベースボールと出会いました。一高では他校に先駆けて生徒たちのクラブ活動としてベースボール会が作られていました。ベースボール会に入った中馬庚はその楽しさにのめり込んでいきました。

明治23年5月、大きな転機となる出来事が起こりました。対外試合の最中、暴力事件が起こったのです。対戦相手は明治学院。試合は6回までに6対0と一高は明治学院に大きなリードを許していました。敗色濃厚な戦況にベンチも応援団もイライラが募っていました。その時、遅れて試合会場にやってきた明治学院の教師に一高の応援をしていた生徒が言いがかりをつけ石を投げてケガを負わせたのです。騒動はプレーをしていた選手たちをも交えた大乱闘に発展。試合中止となってしまいました。この時、暴力を受けた教師がアメリカ人だったことから外務大臣までのりだす大騒ぎになってしまいました。

 

知恵その一 何よりもまず心を磨け

この日から中馬庚たちのベースボールに対する姿勢は一変しました。スポーツとして楽しむ以上に精神鍛錬の場として日夜ストイックなまでに厳しい練習に没頭するようになったのです。中馬庚は率先して部員たちを引っ張りました。朝起きて練習を始めそのまま授業へ。授業の合間のわずかな休み時間にもグラウンドに出て練習。放課後は日が暮れるまで練習。食事と勉強の時間以外は練習に打ち込みました。

練習中は「痛い」という言葉は禁止でした。当時まだグラブはなく素手でプレーしていた中、強い打球を受ければ、それを受け止める手の痛みは相当なものでした。単に技術を磨くだけでなく心を強くすることこそが大切なのだと考えていたのです。

こうして事件から半年後、一高は明治学院と再戦することになりました。中馬庚は一番。先頭バッターとして打席に立ちました。初回、中馬庚はボール球に手を出し打ち上げてしまいました。明らかにアウトになるような凡打でしたが、中馬庚は一塁まで全力疾走。何事にも全力でぶつかるという日頃練習でつちかってきた精神を実践しました。今でこそ当たり前のプレーですが当時はアウトになることが分かっているのに走っても仕方がないと考える選手も多くいたのです。すると、このプレーが相手のエラーを誘い捕球に失敗。その間に中馬庚はさらなる全力疾走で二塁へ。チャンスを広げました。その後、三番打者の犠牲フライで先制のホームイン。一高はその後も全力プレーで攻撃を続け26対2の大差で明治学院に圧勝しました。日頃の厳しい練習による技術の向上はもちろん、どんな小さなプレーにも全力で取り組むという姿勢が呼び込んだ勝利でした。

「わが一高は精神修養し品性を研ぐことでアメリカのベースボールを本来のものから一変させた」(「野球部史」より)

野球の強豪校として一高の躍進が知れ渡るにつれ、「何よりもまず心を磨け」という中馬庚たちの精神もまた全国の学校に広がっていくことになりました。

 

日本野球の誕生

明治26年、中馬庚は一高を卒業し東京帝国大学へ進学しました。卒業後も中馬庚は一高ベースボール会の顧問・監督として後輩の指導をになうことになりました。選手から指導者へ。この頃から中馬庚は「ベースボールを世の中に広めたい」という夢を抱くようになりました。当時、野球は一高を中心に学校でクラブ活動として行われていましたが、あくまでも一部のエリート校に限定されていたものでした。

 

知恵二 自分なりのルールブックを作れ

当時使われたベースボールの解説書は英語で書かれていました。野球がアメリカから持ち込まれたのが高等教育を行う現場だったこともあり、ルールブックや解説書など英語のものをそのまま使用していたのです。中馬庚はまずベースボールという言葉を日本語に訳すことにしました。テニスが庭球と訳されたようにベースボールにも親しみやすい日本語が必要だと考えたのです。「ball in the field(野原で行う球遊び)」から野球と訳すことにしました。一高ベースボール会は野球部に解明。さらに中馬庚は、日本で初めての一般向けの専門書「野球」を出版。基本的なルールやプレーの仕方をイラスト入りで詳しく解説しました。しかし、中馬庚の解説書は単にアメリカの解説書を訳したものではありません。例えば捕球。ボールをキャッチする時には必ず両手で丁寧にとるよう徹底して語られています。さらに「片手で捕るのは心も体も怠けている者のすることだ」とも書いています。単にボールを捕れば良いのではなく気を抜くことなく一球一球全力でボールに飛びついていくという中馬庚自らが実践してきた精神の大切さを説いています。さらに、中馬庚が訴えたのはフェアプレーの精神です。

明治28年、アメリカで新しいルールが導入されました。それはインフィールドフライ。例えば、塁に走者がいて打者が内野フライを打ったとします。この時、野手がボールを捕ればアウトは一つです。ところが、わざとボールを落とせばランナーとバッター2つのアウトをとることができます。インフィールドフライとは、このようなズルいプレーを禁止するルールです。ところが、中馬庚はこのルールの導入に反対しました。野球では相手を騙すようなズルいプレーはありえないのだから、それを排除するようなルールなど必要ないはずだと言うのです。野球はベースボールとは違う、自分たちなりのルールブックを作れば良いという中馬庚の固い信念でした。

明治29年5月、中馬庚率いる一高野球部はアメリカ人を中心とする横浜外国人倶楽部と対戦することになりました。ところが、初めて見る外国人チームに部員たちは愕然としました。当時、日本の男性の平均身長が157cmの時代、それを遥かに上回る180cm以上の男たち。足にはスパイクを履き、手には立派なグラブ。対する、一高野球部はグラブはなく足元は地下足袋や裸足。戦う前から圧倒されていました。

先行は横浜外国人倶楽部。一高のピッチャーはコントロールに苦しみ死球を連発。いきなり満塁のピンチに陥りました。この回、横浜外国人倶楽部は4点を先制。1回裏、先頭バッターは四球を選びました。2番バッターがピッチャーの投球に全神経を集中させている時、突然一塁ランナーにアウトの宣告。何と、ピッチャーがボールを持っていると見せかけて一塁手が隠し持ちランナーが塁を離れた瞬間を狙ってタッチしたのです。今まで見た事のないプレーでした。外国人倶楽部は続くバッターもこの隠し球でアウトに。勝つためには手段を選ばないアメリカのベースボールの洗礼を受けたのです。しかし、この事が一高野球部に火をつけました。

2回以降、ピッチャーは本来の投球を取り戻し見違えるようなキレのあるボールで相手をピチャリと抑え込みました。6回には相手チームが放った大きな当たりを全速力で追いかけ執念のキャッチ。ファインプレーを見せました。そして相手の甘い球を見逃さずヒットで確実に点を重ねていきました。9回までに積み上げた得点は何と29点。終わってみれば外国人倶楽部を初回の4点のみにおさえての大勝利でした。欧米列強を相手に日本が野球で勝ったというニュースは全国に伝えられました。一高には勝利を祝し京都や仙台、金沢など各地から祝電が寄せられました。中馬庚が率いた一高の勝利は野球が国民的関心を呼ぶ大きなきっかけとなったのです。




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