大村益次郎 幕末の理系男子|知恵泉

NHK・Eテレの「先人たちの底力 知恵泉」で戦の勝ち方教えます ~幕末の理系男子 大村益次郎~が放送されました。

 

もともと武士ではなかった!?

文政7年(1824年)大村益次郎(おおむらますじろう)は長州藩の領内・周防国鋳銭司村に生まれました。家は代々村で医師を営む家系でした。ゆくゆくは家業を継いで村医者となるという将来を漠然と抱いていました。しかし、19歳の時に出会った蘭方(西洋医学)が人生を変えました。

新しい医学を深く学びたいと大村益次郎は村を離れ大阪にある適塾に入門しました。ここは当代屈指の蘭学者であり医者でもあった緒方洪庵(おがたこうあん)が開設した私塾で、蘭学の梁山泊でした。出身者には福沢諭吉や佐野常民など、その後の日本を担った逸材が輩出されました。塾生たちは身なりを顧みることもなく日々学問に没頭。その内容は語学や医学にとどまらず最新の物理や科学などにも及んでいたと言います。この自由闊達で変わり者の多い適塾の中でも、大村益次郎はひときわ周囲から変人だと思われていたようです。

塾生たちが連れ立って飲みに行こうと言っても「そんなことは時間の無駄」と一人豆腐をつまみに酒を飲み、学問のことばかり考えていたのだとか。適塾でも一番の勉強の虫だった大村益次郎は入塾わずか3年で塾生たちの勉強の面倒を見る塾頭にまでのぼりつめました。天下の適塾の塾頭ともなれば、大名お抱えの医学者としてヘッドハンティングされることも多く、大村益次郎には明るい未来が開けているかにみえました。ところが、27歳になった大村益次郎は突如適塾を辞めてしまいました。父から村医者として後を継ぐよう命じられ故郷へ帰ったのです。

 

故郷の村で医院を営むようになった大村益次郎は、腕は確かでしたが評判はあまり芳しいものではなかったようです。道端で「今日は暑いですね」と声をかけられれば、「夏は暑いのが当たり前。何を言っているんですか?」と答えたり、風邪で来院した人には「寝ていれば治る」の一言で門前払い。こんな調子で医者として村人の治療に専念する日々を送りました。そんな中、時代は激動の幕末へと大きく動き始めていました。

 

大村益次郎 黒船に挑む

嘉永6年(1853年)浦賀の沖合にペリー率いるアメリカ艦隊が姿を現し、日本に開国を迫りました。これに対し、幕府の対応は弱腰に終始。全国の藩の間に、幕府に対する不満が広がりました。そしてついには幕府を倒そうという倒幕の声が各地で上がり始めました。この動きは大村益次郎の耳にも届いていました。

「これから新しい時代が始まる。今こそ自分が学んできた蘭学の知識を生かすときだ」

安政元年(1854年)大村益次郎は再び故郷を離れ、蘭学者を離れていた愛媛の宇和島藩に仕官することに決めました。藩主・伊達宗城に呼び出され、そこで下された命令は「黒船をつくってもらいたい」というものでした。それまでの帆を張って進む船とは違い、動力は蒸気機関。日本人にとって未知のテクノロジーがつまっています。

 

知恵その一 本より証拠!

軍艦作りを命じられた大村益次郎のもとには、藩から膨大な造船関係の本が届けられました。伊達宗城は蒸気機関や船体の設計について記したオランダ語の資料を豊富にそろえていました。語学に堪能な大村益次郎ならば、それらを読んで黒船を作れるに違いないと期待したのです。ところが、大村益次郎は本を開こうともせず荷物をまとめて長崎へ向かいました。何はともあれ実物を自分の目で見てみなければ良い軍艦は作れないと考えたのです。長崎に到着するやいなや停泊中の蒸気船に乗り込み、すみからすみまで丹念に観察。その構造を徹底的に調べました。疑問が生じればオランダ人船員をつかまえて得意の語学を駆使して矢継ぎ早に質問を投げかけたと言います。長崎での調査は3ヶ月に及びました。宇和島に戻った大村益次郎はいよいよ本を読みこみ、その理論をしっかり学びました。長崎で実物を見ていたことで書物に書かれた複雑な解説が面白いように頭に入り、具体的なプランが練り上げられていきました。半年ほどの製作期間を経た安政2年(1855年)9月、軍艦のひな形が完成しました。

 

安政3年(1856年)、大村益次郎は藩主の参勤交代について江戸におもむきました。江戸では大村益次郎の学識はすでに評判をよんでいました。間もなく宇和島藩に籍を置きながら幕府の洋学研究所の教授をまかされるようになりました。そんな時、またしても転機が訪れました。故郷・長州藩の尊王攘夷派のリーダー桂小五郎がが大村益次郎の西洋技術への深い知識に目をつけたのです。桂小五郎は藩の上層部を説得し、大村益次郎は長州藩に雇われることになりました。

文久元年(1861年)、大村益次郎は長州藩の藩都である萩へ。西洋式の兵学を教育するため設立された士官学校「博習堂」の教授を命じられました。おりしもこの前年には幕府の大老・井伊直弼が攘夷派に暗殺される桜田門外の変が起こりました。倒幕の動きはもはや押しとどめようのないほど大きな時代のうねりとなっていました。そんな状況のなか大村益次郎に託されたのは長州藩で一刻も早く優秀な士官たちを育成することでした。ところが、生徒たちはというと全くやる気が見られませんでした。

 

知恵その二 最短距離を進め!

それまでの博習堂ではオランダ語の教科書を使って授業が行われていました。もちろん内容を理解するにはオランダ語の知識が必要不可欠です。生徒たちの多くは、まず外国語の授業で挫折。学ぶことへの情熱を失って授業がゆるんだ雰囲気になっていました。大村益次郎は「今大切なのはオランダ語ではない。実践で役に立つ兵学を最短距離で身につけること」と考えました。そこで大村益次郎は博習堂の原書主義を撤廃。翻訳された本を教科書として使ったり、時には大村益次郎自身が翻訳したりして授業を行いました。

さらに大村益次郎は教育内容の改革にも着手しました。それまで重視されていた武士の倫理面を論じる教育を改め、具体的な戦い方に焦点を絞った実践的な授業に一新したのです。中でも大村益次郎が最も重要視したのが偵察。様々な要因に惑わされず、いかに敵の形勢をうかがうか、偵察の重要性と具体的なノウハウを学ぶ科目です。これら40あまりの科目を4ヶ月で一通り学べるようスケジュールが組まれました。こうして近代戦争に通じた士官を早期育成していったのです。

慶応2年(1866年)6月、幕府と長州藩の間に第2次長州征討が起こりました。幕府の大軍は4方向から長州に迫りました。大村益次郎は自ら1000の兵を率いて石見方面に出陣。対するこの方面の幕府軍は1万でした。兵力差は10倍です。そんな時、偵察の授業で学んだ通り、詳細でかつ的確な情報がもたらされました。報告によれば幕府軍1万は益田から浜田にかけて縦に長く布陣。大村益次郎は各部隊を個別に撃破していけば勝算ありと確信しました。6月17日、益田にて戦いが始まりました。兵力の分散した幕府軍を長州軍はうまく身を隠しながら個別に撃破していきました。そして、ついに幕府軍を撤退に追い込むことに成功したのです。10倍もの兵力差を打ち消した長州軍の勝利によって幕府の威信は急激に失墜。後の幕府崩壊の大きな要因となっていきました。


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