幕末の天才軍師 大村益次郎|知恵泉

NHK・Eテレの「先人たちの底力 知恵泉」で上野を制圧せよ!~幕末の天才軍師・大村益次郎~が放送されました。

慶応3年10月14日、江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権を朝廷に返上しました。260年余りにわたる幕府の支配に終止符が打たれました。しかし、幕府が抱えていた強大な軍事力は日本に戦乱の火種を残したままでした。鳥羽伏見の戦いにはじまり、新政府軍と旧幕府勢力の争いは全国に拡大していきました。このとき、新政府軍の司令官をつとめたのが大村益次郎(おおむらますじろう)です。西洋の軍事理論に正通していた大村益次郎は、旧幕府勢力を相手に連戦連勝。類まれな才能と独特のキャラクターに作家・司馬遼太郎も惚れ込み、長編小説「花神」を執筆しています。大村益次郎がその才覚を最も発揮したと言われるのは江戸の制圧戦、いわゆる上野戦争です。江戸城が無血開城された後も江戸には彰義隊と呼ばれる、かつて将軍直属だった新鋭部隊が行き場を失ったまま駐屯していました。さらに、新政府に不安を持つ武士たちも結集。その数は3000とも4000とも言われています。対する新政府軍は長州や薩摩など、様々な藩の寄せ集め部隊。それぞれの藩が自分たちの面子を優先して主張を譲らず、全くまとまりがありませんでした。大村益次郎はいかにしてバラバラだった組織をまとめあげ勝利に導いたのでしょうか?

 

江戸を制圧せよ!

慶応4年3月、新政府軍と旧幕府勢力との間である取り決めが交わされました。「国内で争っていては外国につけこまれる」と旧幕府の勝海舟が持ち掛けた停戦協定を新政府軍司令官の西郷隆盛が受け入れたのです。その見返りに勝海舟は江戸城を明け渡しました。江戸は新政府の支配下におさまったかにみえました。ところが、戦うことなく江戸を明け渡し、新政府に従うことに反発する幕臣たちがいました。彰義隊です。彰義隊はもともと15代将軍・徳川慶喜の護衛のために結成された新鋭部隊でした。しかし、幕府が政権を返上したことで行き場を失い江戸に残ったままだったのです。彼らのもとには新政府に不満を抱く者たちも結集してきました。その数は3000を超えていたと言われています。

2つの勢力が同居する江戸の街は不穏な空気に包まれていました。双方の小競り合いが絶えず、ついには彰義隊士が新政府軍の兵士を殺傷するという事件まで起こりました。しかし、それでも新政府軍の司令官・西郷隆盛は彰義隊を取り締まろうとしませんでした。あまりにも勢力を増した彰義隊と江戸の街を巻き込んだ全面戦争になることを恐れたのです。

このまま江戸の乱れを放置していては新政府の基盤が揺らぎかねないと、業を煮やした新政府の首脳陣は西郷隆盛を更迭。新たな司令官として彰義隊を鎮圧する大役を任されたのが大村益次郎でした。

 

新政府軍はバラバラ

新政府軍の司令官として江戸に赴いた大村益次郎は、到着するやいなや参謀たちと作戦会議を開きました。大村益次郎は夜襲の提案を却下。彼には夜襲に対する様々な懸念があったからです。一つは敵の拠点を絞り切れないこと。彰義隊はもともと幕府の旗本や御家人だった人々です。市中の自宅に潜んでいる者も多く、たとえ本陣である上野を叩いたところで彰義隊の兵力は江戸の各地に残ってしまいます。さらに夜襲の混乱に乗じて、彰義隊が街に火を放つ可能性もありました。せっかく戦わずして明け渡された江戸の街。新政府として火災は絶対に避けたい事態でした。そして最大の懸念は新政府軍の組織がバラバラだったこと。各藩の寄せ集めで、ことごとく意見が合わない新政府軍。中でも中心的な役割を担う薩摩と長州の関係は最悪といっていい程でした。両藩は薩長同盟により一応の協力関係を結んではいたものの、つい3年前までは敵同士。お互い心の中にわだかまりを抱えていたのです。かつて長州人は履物の裏に「薩賊」と書きつけ、踏みつけていたという逸話も残るほど。薩摩とは犬猿の仲でした。

実は、長州出身の大村益次郎も江戸に到着したその日に薩摩と揉め事を起こしています。初対面だった薩摩の軍事参謀に対し、いつものぶっきらぼうな調子で命令を下したことに相手が激怒して声を荒げるという一件がありました。夜襲には部隊間の連携が不可欠です。この険悪な状況では到底成功させることは難しいと大村益次郎は考えていたのです。代案として大村益次郎が提案したのは驚きの策でした。

 

知恵その一 集中する時間を区切れ!

5月の初め、大村益次郎は江戸の街にお触れを出しました。

「来る五月十五日 上野の山の賊徒を討伐する」

何と戦いの日付、場所を明らかにして自ら手の内をバラしてしまったのです。実はこのお触れこそが大村益次郎の秘策でした。まず、決戦の場所は上野と宣言することで市中に散らばる彰義隊を一か所に集めることができます。さらに日付を予告することで彰義隊士たちに自らを見つめ直す時間を与えました。戦いまで10日程、しがらみや付き合いで参加した隊士は本当に戦いに加わるのか冷静に考えることができます。そのおかげが、数多くの隊士が戦いを放棄し、3000人程いた彰義隊は1000人足らずにまで減少したと言われています。しかし、大村益次郎にとってお触れの最大の狙いは味方の新政府軍に与える影響でした。

いつもは藩同士でいがみあっている新政府軍も5月15日だけなら喧嘩をやめて協力するかという気になります。時間を区切ることで兵士たちの士気を高めようとしたのです。大村益次郎は戦いを1日で決着させるために様々な策をめぐらせました。

まずは江戸城にあった美術品や骨董品を売却し、多額の資金を捻出。それを使いアームストロング砲など新兵器を配備しました。最新鋭の武器を使うことで戦闘の短縮をはかる作戦です。

 

薩摩と長州 危うい関係

彰義隊は現在の上野公園がある高さ20メートル程の台地に本陣をおいていました。大村益次郎は戦いを前にして、上野を自らの足で歩き回り作戦を練ったと言われています。

まず寛永寺の表門である黒門口に突撃を試みます。正面玄関を攻め落とすことで彰義隊の士気を一気にくじく狙いがありました。続いて、敵の背後からも部隊が突入。内部の彰義隊士が行き場を失ったところで、不忍池の対岸からアームストロング砲を撃ち込みます。三方向からの連携攻撃で追い詰められた彰義隊は、あえて部隊を配置しなかった北東から敗走していくはずです。

この作戦では最初に黒門口に攻め込むのが最も困難な役回りです。敵の正面におどりでるため激戦は必至、よって軍勢の中でも最強の部隊を投入する必要があります。それは疑うべくもなく薩摩の部隊でした。当時、薩摩は武勇において他の藩にも一目置かれる存在でした。イギリスとの間で起こった薩英戦争でも薩摩は一歩も引かず、人的被害はイギリス側の方が多かったと言われています。しかし、一番の激戦地であるがゆえに薩摩といえども被害は甚大になる可能性があります。大村益次郎はその薩摩と犬猿の仲の長州の出身です。薩摩憎しでこんな作戦を立てたと誤解される危険性がありました。

 

知恵その二 キーマンを見極めろ!

大村益次郎はこの作戦が外部に漏れれば、長州と薩摩の関係はさらに悪化し、間違いなく新政府軍は内部崩壊すると考えていました。そこで、誰にも相談せず一人で作戦の細部をつめていきました。そして、全ての準備が整った時、ただ1人にだけ作戦の内容を事前に明かすことにしました。その相手とは薩摩隊のトップ西郷隆盛です。西郷隆盛は情に篤い性格から薩摩の兵に慕われ、まさに精神的支柱ともいえる存在でした。

西郷隆盛と2人きりで会った大村益次郎は、作戦を記した部隊の配置図を差し出しました。西郷隆盛は黒門口に薩摩兵が配置されているのを見て「薩摩の兵をみなごろしにするおつもりか」と言いました。大村益次郎は黙って天を仰ぎながら扇子をもてあそび、ただ一言「そのとおり」と言いました。自分が考えに考え抜いた作戦、今さら言葉を尽くして説明する必要はないと考えたのです。やがて西郷隆盛は無言で席を立ち、部屋を出て行ってしまいました。

その後、西郷隆盛は大村益次郎が同席していない会議の場で、この作戦について「大村に私を一番難しいところへ出してくれと申しておきました」と語っています。作戦成功のために西郷隆盛は薩摩兵を黒門口へ配置することを受け入れたのです。

慶応4年5月15日午前7時、上野戦争の幕が切っておとされました。大村益次郎の作戦通り、薩摩の兵が黒門口に突撃。彰義隊の激しい抵抗に薩摩兵も苦戦しました。昼過ぎ、大村益次郎が勝負を分けるとよんだ黒門口が薩摩隊によって破られました。まさかの正面突破に面食らった彰義隊。そこへ背後から長州藩が突入し追撃。そして佐賀藩がアームストロング砲をこれでもかと彰義隊の陣に撃ちこみました。各藩は見事に連携し、攻撃を加えていきました。彰義隊はなす術もなく大村益次郎が用意した敗走路を通って戦線を離脱。戦いはわずか1日で新政府軍の勝利に終わりました。

2か月後、江戸は「東京」に改められ、時代は明治へと移っていきました。




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