徳川家康 関ヶ原の戦いへの道|知恵泉

全国15万を超える武将が東軍、西軍に分かれて激突した関ヶ原の戦い。決起した西軍の石田三成に対抗したのが徳川家康です。

 

家康はわずか8時間で西軍に圧勝。難なく勝利をおさめたと信じられていますが、当時の状況を探ると絶体絶命にも等しい薄氷を踏むような状態に追い詰められていました。

 

というのも戦力では家康軍の7万4000に対し、三成側は8万4000の大軍勢。さらに、徳川家に次いで全国2番目の勢力をほこる毛利家が敵方に。背後の東北には全国3番目の勢力の上杉が交戦姿勢を見せていました。戦いが長期化すれば挟み撃ちにあってたちまち滅亡。

 

さらに、進軍をはばむのは戦国最大の知将と呼ばれた真田昌幸。わずか3000人に3万の徳川軍本隊を退けられ、あてにしていた息子・秀忠も間に合わないという状況に。戦況次第では味方が次々と離反し、敵に寝返る可能性もあり、家康にとっては一か八かと言える戦いでした。

 

誤算につぐ誤算の中、いかにして家康は勝利を掴むことができたのでしょうか?

 

知恵その一
周りが動き出すまで待て

慶長3年(1598年)豊臣秀吉が6歳の幼い秀頼を残して死ぬと、徳川家康はそれまで内に秘めていた天下取りの野望の実現に乗り出しました。

 

徳川家康

 

まず手掛けたのが、自分の隣国で強大な領土を持つ会津の上杉景勝の攻略でした。景勝が始めた城の修復や家来の新規雇用を豊臣家に対する謀反と言いがかりをつけ、制圧しようと考えました。

 

下野国に近づいた時、石田三成が家康討伐を掲げ上方で決起したという知らせが届きました。しかも、毛利輝元など豊臣政権の有力者たちも協力。上方には家康とともに来ている武将たちの妻子もいます。人質にとられれば彼らが動揺することは明らかでした。

 

石田三成

 

こうした中、家康は栃木県の小山で会議を開きました。通常ならここで石田三成を批判し、自分に味方するよう強くアピールするところですが、家康が伝えたのは次のようなものでした。

 

妻子のために陣を引き払い上方に戻るのも自分に従うのもおのおのがたの自由。家康決して恨みには思わない。心おきなく戻られよ。

 

家康は説得も強制もせず、判断を武将たちに委ねたのです。この寛大な処置に武将たちはビックリ。家康は自分たちのことを考えてくれるリーダーだとみな感動し、こぞって味方になると申し出たのです。

 

こうして有力武将たちを味方につけた家康。すぐに三成との対決に向かうかと思いきや、江戸に戻ってしまいました。上杉軍を牽制すると理由をつけ自分は江戸にとどまり、福島正則たちだけを上方に出発させました。そこには家康の慎重な思惑がありました。

 

福島正則は裏切らないだろか

(黒田長政宛の書状より)

 

この頃、上方では三成方についた毛利輝元が総大将となり大坂城に入城。もしこの状況で軽々しく上方にのりこみ初戦で失敗でもすれば、味方についた武将たちも次々に離反して敵にまわるかもしれません。自分からうかつに動いてはならないと家康は考えたのです。

 

その後8月から9月まで、1ヶ月近く江戸から動かず、ひたすら沈黙を保ちました。この状況にしびれを切らしたのが家康支持を表明し、上方に向かった武将たち。福島正則は見捨てられたのかと不安をつのらせ、家康の出陣を要請する書状を送りました。

 

これこそ家康が待っていた事態。すかさず福島正則に「わしの側で戦う気があるのなら証しをみせてもらいたい」と伝えました。

 

この言葉に、福島正則たちは西軍の守る岐阜城を攻撃。この戦いに勝利をおさめたことで、家康方優勢という空気が全国に広がりました。

 

自分から動くのではなく、周りが動き出して流れが生まれるのを待つ。この知恵で勝利の確信をつかんだ家康は、石田三成と雌雄を決するため江戸を出発したのでした。

 

知恵その二
ビッグデータで勝利せよ

ある時、城の壁に家康を非難する落書きが次々に書かれました。慌てた役人がすぐに消そうとしたところ家康はこう言いました。

 

落書きは自分の気づいていない不備を民が指摘したものだ。今後も自由に書かせ消してはならない。

 

例え誹謗中傷であれ、それも貴重な判断材料の一つ。どんなささいな情報もトップは知っておくべきだと考えていたのです。この情報重視の姿勢が大いなる効果を発揮したのが関ヶ原の戦いでした。

 

関ヶ原の戦いがあった慶長5年に家康が出した手紙は169通。これは前年の4倍以上の数です。その上、161通が合戦の2ヶ月前に集中し、1日に9通出した日もあります。

 

注目すべきは、書状の半分以上が家康の返信であること。どんなささいな情報でも丁寧に対応しており、それがさらなる返信に繋がりました。やりとりを繰り返せば明言していなくても相手の心の動き、領内の状況は何となく伝わってきます。家康は膨大な情報の交換によって、そこから立ち上る全国の武将たちの微妙な情勢を感じ取ろうとしていたのです。

 

こうした書状の分析により家康は関ヶ原の戦い直前、全国の大名が西軍と東軍のどちらにつこうとしているか、かなり正確に把握していたと言われています。

 

そして訪れた関ヶ原開戦直前となる9月14日、家康は福島ら東軍と合流。このときの状況は石田三成が大垣城にこもり吉川広家、小早川秀秋などが中山道にそった山に布陣していました。そして大坂城には毛利。どれも西軍支持派ばかりで絶体絶命に見えますが、家康は情報収集によりその内実を掴んでいました。

 

吉川広家は確実に家康支持、小早川秀秋もかなりの確率で家康側に寝返ると判断できていました。となれば、石田三成を関ヶ原の辺りにおびき出し野戦に持ち込むことができれば勝てる。

 

こうした中で唯一データが不足していたのが、大坂城にこもる毛利輝元の動きでした。毛利は様子見次第で動かない可能性もありましたが、もし4万の大軍を率いてくれば敗戦は必至です。最後の一手だけ確信が持てず家康は判断を迷いました。

 

そこに朗報が届きました。それは大津城下で石田三成が味方に出した密書を入手したというのです。書かれていたのは、毛利輝元が大坂城から出陣するつもりがないというもの。まさにこれこそ家康が欲しかった情報です。

 

これで全てのデータがそろい、勝利の確信を得た家康は、9月14日の深夜、全軍に関ヶ原への出陣を命令。翌9月15日、東軍7万4000、西軍8万4000が関ヶ原に集結。

 

午前8時、初戦こそ西軍有利で進みましたが、午後近くになると戦況が一変。家康が事前につかんでいた情報通り、吉川広家は戦闘に参加せず、小早川秀秋も東軍に寝返ったことで形成逆転。西軍は敗走し、天下分け目の戦いはわずか8時間で終結しました。

 

一か八かの勝負に勝利した家康。江戸に幕府を開き、徳川家は260年に渡って日本を統治することになったのです。

 

「先人たちの底力 知恵泉」
一か八からの勝負に勝つには?
~徳川家康 関ヶ原の戦いへの道~

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