二宮尊徳(二宮金次郎) 人生立て直し術|知恵泉

農民・二宮金次郎 苦難の原点

手には書物、背中には蒔といったお馴染みの姿の二宮金次郎(にのみやきんじろう)ですが、彼が背負っていた現実はあまりにも過酷で不幸な運命でした。

 

二宮尊徳

 

天明7年(1787年)二宮金次郎は現在の神奈川県、小田原藩栢山村に生まれました。2ヘクタールを超える広い田畑を持っていた裕福な家庭で、幼い二宮金次郎は何不自由なく暮らしていたと言います。

 

ところが5歳の時、近くを流れる酒匂川が暴風雨で決壊。二宮金次郎の家の田畑は水で溢れ荒地になってしまいました。

 

やがて、二宮金次郎の父は過労からくる病に。収入を断たれた二宮家は貧しい境遇に転落してしまいました。貧しさの中、幼い二宮金次郎が才能を発揮した逸話があります。

 

一家から一人ずつ出て共同で荒れ地や堤防の修復をした時のこと、二宮家では病気の父親の代わりに二宮金次郎が作業に出ました。重い石や土を運ぶ土木作業ですが、二宮金次郎も大人たちにまじって何とか仕事をしようとしました。しかし、一人前の仕事などほとんどできず周囲の大人に手助けされてばかり。二宮金次郎は代わりに自分でできることはないかと考えました。

 

二宮金次郎が目をつけたのは大人たちの足元でした。家に帰ると夜遅くまでわらじを作り、大人たちにあげました。村人たちに喜ばれた二宮金次郎は、例え小さなことでも自分にできることを見つけ、人の役に立つことの大切さを知ったのでした。

 

一方、二宮家の不運は止まりませんでした。土地を売って生活費を工面する苦しい日々を送るうちに、父も母も病で他界。二宮金次郎は伯父の家に引き取られ、昼は農作業の手伝いに明け暮れました。その心には「いつか土地を買い戻しお家を再興したい」という目標がありました。

 

知恵その一
積小為大 小さなことからコツコツと

伯父の家の仕事を終えた後、あいた時間は二宮金次郎の自由時間でしたが、そこでも学問を学び続けました。少しでも学問を身に着けようと小さな明かりで本を読みながら「灯りに使う菜種油も自分で手に入れよう」と考えました。

 

そして、一握りの菜種を手に入れた二宮金次郎は、誰も手をつけない荒れ地に蒔きました。すると翌年、菜の花は満開に。そこから7升あまりもの油がとれました。その油を二宮金次郎は夜の読書の灯りに使うだけでなく、新しい本を買う費用にあてました。

 

また日中、伯父の田畑で働いているあいだ余っている時間に見つけたものもありました。誰も見向きもしない洪水で荒れ地となった土地と村人が田の周りに捨てていた余った苗。二宮金次郎はこの荒れ地を耕し、そこに拾った苗を植えていきました。二宮金次郎は考えました。

 

年ごとの作物の豊凶をもたらすのは天であって人ではない。土地が貧しいか豊かかを決めるのは人であって天ではない。

 

荒れ地を耕して生まれた田んぼからは、一俵(60kg)の米が収穫できました。二宮金次郎はその後も少しずつ荒れ地を開墾。小さな余り物の有効利用を積み重ねながら収入を増やしていきました。そして、この収入をもとにかつての二宮家の土地も買い戻していきました。

 

そして、24歳で一家の再興を果たしたのです。まさに、自分にできる小さなことを積み重ね続けて大きな夢を実現させたのです。このときの思いを後に二宮金次郎はこう述べています。

 

幼くして父母を亡くし困難を体験した私は、自分と同じような困難を抱える他人には涙を禁じえない。そのような人の役に立つことをしたい。

(二宮金次郎)

 

26歳になった二宮金次郎に転機が訪れました。農作業を小作にあずけ小田原藩の家老・服部家で奉公を始めたところ、雇い主の家老から借金に苦しむ家老の家の財政を立て直して欲しいと依頼されたのです。ところが、二宮金次郎はこの依頼を何度も断り、ようやく引き受けることにしました。

 

知恵その二
財政再建のカギはゆとりとやる気

二宮金次郎がまず始めたのは過去の財政の徹底研究でした。収入と支出の割合をコツコツと割り出しました。そして、二宮金次郎は家老に財政再建計画表を提出。これに合わせて生活水準を下げるよう意識改革を求めました。

 

一方で、二宮金次郎は使用人の意識改革も重視。倹約に協力した使用人にご褒美のお金を渡すようにし、働く現場のやる気をかきたてました。こうした二宮金次郎ならではの具体的な再建策は、武士の世界でも評判に。そこには、ゆとりとやる気を生み出す二宮金次郎の知恵が隠されていたのです。

 

助け合いの心で 二宮金次郎の救済システム

二宮金次郎は借金で困っている農民や奉公人たちを助けるために、お互いが援助するシステムも作りました。その一つが「五常講」という金融組織です。

 

五常講では、普段からみなでお金を出し合い、非常時にそなえるようにします。そこから困っている仲間に無利子でお金を貸すのです。こうした助け合いの仕組みは、飢饉のような災害時にも使われました。誰もが被災者という状況の中で、お金を出し合うシステムです。

 

小田原藩の依頼を受け村々の状況を見て回った二宮金次郎は、家々の様子を詳しく調べ被害の程度を3つに分類しました。食料も金も足りている家を「無難」、不足しつつある家を「中難」、食料も金もない家を「極難」としました。そして無難、中難の人たちに少しでも余分な金や米があれば提供してもらうよう依頼。そうして集まったものを極難の人々に無利子で貸し出しました。このやり方で一番困っている人を助けました。

 

少しでも豊かな者が譲る心で困っている人を救済するという精神を二宮金次郎は「推譲(すいじょう)」と呼び重視しました。

 

農村復興プロジェクト

小田原藩家老の家の財政立て直しに手腕を発揮した二宮金次郎の評判は広まっていきました。そして文政4年(1821年)、小田原藩主・大久保忠真から下野国・桜町領の再建を要請されました。

 

江戸時代後期、下野国は困窮していました。浅間山の噴火によって農地は火山灰で覆われ、長い期間使い物にならなくなったからです。さらに、冷害がもたらした天明の大飢饉で人々は食料を求めて土地を離れてしまい、農地は荒れ放題となってしまいました。収穫が激減し生産意欲を失った農民たちは、朝から酒を飲み博打を打っていました。

 

この地域に要求されていた年貢は4000俵。しかし、実際に納められていたのは5分の1の800俵しかありませんでした。

 

知恵その三
心の田んぼを耕せば恐れるものはない!

二宮金次郎は、農民たちが自ら村を運営するよう指導。自分たちの暮らしに本当に必要な自治を考えさせることによって、将来も持続できる改革を目指したのです。

 

二宮金次郎は村の中でとてもよく働く者「出精人(しゅっせいにん)」を選挙で決めさせ表彰したり、米や農具などの褒美を与えました。これによって復興に向けての人々の意欲を高めていきました。

 

さらに、村から出て行った人が戻ってきたり、よその土地から農民が桜町領に移住したりすることを奨励。そのさいにお金を与えて援助しました。

 

また、貧しさから産まれたばかりの赤ん坊を殺す間引きが横行していると知ると、5歳までの子を持つ親に養育費の補助を決定。復興のために減少した人口を増やし、住民の生活の安定をはかりました。

 

わが道は人の荒れた心を切り開くのを本意とす。荒れた心が開けた時はたとえ何万町歩土地が荒廃していても憂うる必要などない。

(二宮金次郎)

 

次第に桜町領の復興は進み、米の収穫も徐々に回復。二宮金次郎と村人たちの改革は成功していくかに見えました。

 

しかし、領内では外から村に入ってきてお金をもらった農民と以前からいた者の間で軋轢が生まれ始めていました。また頑張っている人への表彰制度も公平ではないと妬みが生まれ、二宮金次郎のやり方への不満が噴出しました。

 

文政12年(1829年)、二宮金次郎は突然姿を消しました。二宮金次郎を失い、村人たちは動揺しました。2か月後、農民の代表14人が領主にあてて訴状を提出。二宮金次郎を村に戻らせてほしいと訴えました。そして、桜町領に戻ることになった二宮金次郎を村人たちは出迎えたと言います。二宮金次郎の指導のもと、農民たちは再び復興に向けて動き出しました。

 

二宮金次郎が立て直しに関わった村の数は600あまりにのぼります。やがて、その評判は江戸幕府にも伝わり天保13年(1842年)幕臣に登用されました。農民出身の二宮金次郎はこうして偉大な思想家・二宮尊徳(にのみやそんとく)へと成長していったのです。

 

安政3年(1856年)二宮金次郎は病により亡くなりました。その亡骸は遺言に従い、土を持っただけの質素な墓に葬られました。

 

人を助け、人に感謝し、自分自身も救われる、そんな70年の生涯でした。

 

「先人たちの底力 知恵泉」
小さなことからコツコツと
~二宮尊徳 人生立て直し術~

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