小林一三 日本人の生活を変えた男 崖っぷちから大逆転!|知恵泉

NHK・Eテレの「先人たちの底力 知恵泉」で崖っぷちから大逆転! ~日本人の生活を変えた男 小林一三~が放送されました。

 

崖っぷちからのスタート

小林一三(こばやしいちぞう)は明治6年(1873年)1月3日、絹や酒を扱う商家の分家に生まれました。誕生日が1月3日だったことから一三と名付けられました。めでたい名前をもらった小林一三でしたが、そのスタートは決して幸せなものではありませんでした。生後7ヶ月で母が病死。婿養子だった父は養子縁組を解消して実家に戻り再婚。小林一三は親戚の家に引き取られました。両親の顔すら知らずに育った小林一三はいつしか温かい家族に囲まれた生活に憧れを抱くようになったと言います。

15歳になった小林一三は大学で学ぶため上京。しかし、勉強はそっちのけで芝居小屋に通い、家に帰っても小説を書くことに熱中しました。たまたま書いた小説が新聞に連載されたことで小説家になろうと決心。その近道にと新聞社に就職しようとしますが不採用。仕方なく友人のつてで銀行に就職しました。ところが、初出社の日から1ヶ月経っても小林一三は会社に姿を現しませんでした。心配した友人が様子を見に行くと下宿でふて寝していました。実は小林一三は初出社の数日前、熱海で絶世の美女に一目惚れし彼女のもとに通いつめますが、タイプじゃないとフラれてしまいました。これでやる気がなくなったのか家に引きこもってしまったのです。友人の説得でようやく出社したのは3ヶ月後のことでした。ようやく働き始めても仕事なんてどこふく風。小説を書いて日々を過ごしました。職場の評価は最悪に。やがて大阪に転勤することになりました。大阪では夜な夜な芸者遊びに精を出し、ますます信用をなくすという悪循環。結婚はしたものの、その後も左遷と転勤を繰り返し妻子を抱えて人生ふらりふらり。

そんな小林一三ですが34歳の時に思わぬチャンスが転がり込んできました。知り合いが新しく作る証券会社に参加しないかと声をかけてくれたのです。すぐさま銀行に辞表を提出。ところが、その直後に株式市場が大暴落し証券会社設立の計画は白紙に。こうして職を失い路頭に迷うことになったのです。

 

そんな小林一三に救いの手が差し伸べられました。それは新しく設立される鉄道会社の経営に加わらないかというものでした。当時、鉄道は近代化を推し進める日本の基幹産業として急速に発展していました。関西でも明治38年に阪神電鉄が開業。好調な業績を打ち立てていました。小林一三が誘われた鉄道会社が計画していた路線は、大阪市内と有馬や箕面を結ぶものでした。小林一三は2つ返事でこの申し出を快諾。しかし、会社の設立会議に参加した小林一三は愕然としました。そこで議論されていたのは会社をいかに精算し解散させるかだったのです。鉄道の建設予定地には田んぼが広がり、家や建物はまばらで、鉄道を敷いても列車に乗る人がいないので採算がとれる見込みは全くありませんでした。途方に暮れた小林一三は鉄道の予定地へと足を運びました。当時、一大工業都市として急成長していた大阪には近代的な工場が立ち並び、急激な人口増加で人々は窮屈な長屋住まいを余儀なくされていました。

 

知恵①何もないこそが宝と思え

小林一三は住宅建設を提案しました。それまで鉄道は町と町をつなぐ輸送手段としか考えられていませんでした。町づくりから始めて一から乗客を作り出すなど、当時誰も思いつかなかった斬新な発想でした。あまりに常識外れの小林一三の提案に賛成する者は誰もいませんでした。結局5万円(現在の価値で5億円)もの資金調達を小林一三個人の責任でうけおいました。しかも、失敗した場合には他の発起人の損失も補填するという条件で何とか同意をとりつけました。

小林一三が売り出した家は一区画100坪で、部屋数は5~6、和洋折衷の2階建てです。値段は約2000円~3000円。当時、公務員の初任給は50円。さすがにこの金額で家を買おうという人はなかなかいませんでした。しかし、小林一三はまたもや画期的な提案をしました。それは月賦払い。当時、月賦払いで買えるものといえば紳士服や自転車程度でしたが、それを住宅に適用しようという日本初の住宅ローンです。頭金として2割を払えば後は10年の分割で次々の支払いは24円。これは大阪市内で借家を借りた時の家賃とほぼ同額でした。そして明治43年3月10日、箕面有馬電気軌道(後の阪急電鉄)が開業しました。ほぼ同時に売り出された住宅200戸はたちまち完売。とんぼやイナゴしか乗らないと言われた田舎鉄道は、郊外の家から大阪市内へと通う多くの通勤や通学の人々でにぎわいました。崖っぷちに立たされていた小林一三の人生もまた大逆転へと大きく舵を切ることになったのです。

 

知恵②ファミリー層をつかめ

沿線の住宅販売で、通勤・通学客の確保に成功した電鉄会社ですが、一つ問題がありました。それは通勤時間帯が終われば乗客が減ってしまうことです。もっと電車に乗ってもらう方法はないか小林一三は毎日のようにホームに立ち人々を観察しました。

そんなある日のこと、両手に買い物袋を抱え電車に乗り込む乗客を目にしました。それは街中の百貨店に買い物に来た女性でした。小林一三はひらめきました。主婦が買い物で電車を利用すれば昼間の乗客が増える、そのためには電車での買い物が便利になればいいと。小林一三がひねりだしたアイディアは電車の終着駅に百貨店を作る事。家の最寄り駅から電車に乗るだけで、そのまま百貨店に到着。便利で安ければ主婦も電車に乗って買い物に来てくれるはずと考えました。

大正9年(1920年)、小林一三は梅田駅に5階建の世界初のターミナルビルを建設しました。1階を老舗百貨店に貸し、百貨店経営のノウハウを学んだ後、昭和4年(1929年)地上8階・地下2階という巨大百貨店をオープンさせました。モットーは「よいものをどこよりも安く」です。小林一三が特に力を入れたのが、百貨店の最上階の大食堂です。当時まだ珍しかったライスカレーやビフテキ、シチュー、オムレツなどハイカラなメニューが並びました。しかも街中で30銭以上はする洋食が20銭で食べられたのです。食堂でお昼を食べた後は、ゆっくりと下のフロアでショッピングを楽しみ、1階から電車に乗って帰るというのが、今までに味わったことのない庶民のちょっとした贅沢として人気に。「阪急電車で梅田に行きライスカレーを食べたか」というのが巷の挨拶になるほどだったそうです。




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