毛利元就 次世代育成の極意|知恵泉

NHK・Eテレの「先人たちの底力 知恵泉」で戦国最強オヤジと3人の息子たち 次世代育成の極意 毛利元就が放送されました。

毛利元就が育てあげた3人の息子たちの個性を「陰徳太平記」では、木に例えています。長男の隆元(たかもと)は桜。満開の桜のように華やかな人柄は誰からも好かれ、リーダータイプでした。次男の元春(もとはる)は梅。厳寒を乗り越える梅のように実直な性格で、武芸に優れる猛将でした。三男の隆景(たかかげ)は柳。のらりくらりと一筋縄ではいかないしたたかさを持ち、軍師タイプの武将でした。3人の個性の背景には毛利元就の育成プロジェクトがありました。

 

知恵①場所で育てろ!

天文6年(1537年)安芸国にひしめく領主たちの中から頭一つ抜け出しつつあった毛利家。元就は41歳、そろそろ跡継ぎのことを考えなければいけない年齢でした。長男の隆元は15歳、定石ならばつきっきりで帝王学を教えこむところですが毛利元就のやり方は違いました。隣の大国・大内のもとへ服属を示す人質として送り出したのです。実は元就にはある思惑がありました。大内の本拠地である山口は当時の日本で屈指の文化都市でした。大陸との交易で栄えていたため文化人や貴族が集まり、山口の町は「西の京」とまで称されました。隆元はここで人質という立場でありながらも当主から厚遇を受けました。茶や和歌など一流の文化に触れるとともに多くの人と交流。国を治めるのに必要な政治センスも磨いていきました。

次男・元春と三男・隆景についてもその性格をじっくり見極めました。ある冬、雪合戦で遊ぶ二人を見ていると、元春は腕っぷしの強さに任せた力攻めの戦い方を好んでいました。一方、隆景は兵力を温存し相手が疲れたところで控えを投入するという戦い方を見せました。元就はこの個性の違いを伸ばすことができる場所に養子として送り込もうと考えました。武闘派の元春を送り込んだのは吉川家。大内と尼子の勢力範囲がぶつかり戦が絶えない場所です。元春はここで戦争経験を積み、持ち前の勇気や武芸に磨きをかけていきました。一方、頭脳派の隆景を送ったのは瀬戸内海に面する小早川家。様々な情報が行きかう場所で成長した隆景は交渉力や分析力を身に着けていきました。

彼らが大きく飛躍するのが天文24年(1555年)厳島の戦いです。もともと大内の重鎮だった陶晴賢はクーデターをはかり、事実上大内を乗っ取っていました。陶は毛利家に服属を迫りました。陶の軍勢は2万、対する毛利は多く見積もっても4000でした。慎重派の元就は陶の要請に従おうと考えました。ところが長男・隆元は大内家の家臣が陶に不信感を持っていて基盤は盤石でないと主張。元就は隆元の判断を尊重して毛利家の命運を託すことにしました。陶軍は厳島へ兵を進め毛利軍もこれを迎え討ちました。ところが、毛利軍の船200に対して陶軍は500でした。ここで活躍したのが三男・隆景でした。瀬戸内海の情勢に通じた彼はこの海域で大きな勢力を誇った勢力・村上水軍に目をつけました。隆景は巧みな交渉術を駆使し、味方に引き入れることに成功しました。かくして村上水軍の船300が厳島に参陣。互角の戦力を手に入れた毛利軍は海上の封鎖に成功しました。最後に決着をつけたのは武勇に優れる次男・元春でした。すでに上陸している陶の大軍勢に対し元春は数では負けると考え夜襲を決意。険しい山側から陶軍の背後を狙いました。まさかの方向からの攻撃に大混乱に陥った陶軍。追い詰められた陶晴賢は自刃して果てました。

直接指導するより最適な場所に送って自ら学ばせる。この毛利元就の育成の知恵が三人を優秀な後継者に育てたのです。

 

知恵②三角形で組織を支えろ!

三本の矢のエピソードは毛利元就がいまわの際に三人の息子に一致団結の大切さを説いたものです。しかし、この話にはおかしな点があります。元就が75歳で亡くなったのは元亀2年(1571年)です。それより8年も前に長男・隆元は亡くなっているのです。しかし、三本の矢のエピソードは全くの作り話というわけではありません。元就が息子たちに対して書き送った手紙「三子教訓状」が残っています。その内容は「三人が少しでも仲たがいしたら三人との滅亡すると考えよ」「毛利という家の名前が将来まで残るよう心がけよ」というもの。矢は出てきませんが三人が団結して毛利家を守るよう切々と記しています。毛利元就がここまで強く兄弟の輪を願った理由は長男だけでなく次男と三男も含めた三角形による次世代体制を構想していたからです。

天文15年(1546年)、毛利元就は長男・隆元に家督を譲りました。養子に出していた次男・元春と三男・隆景にもそれぞれ吉川家、小早川家の家督を継がせました。その結果、長男・隆元は本拠地周辺、元春は山陰地方、隆景は山陽地方に睨みをきかせることになりました。元就の狙いは長男だけに毛利家を継がせるのではなく、三つの家で毛利家を形成するという共同経営の実現でした。

永禄6年、三角形の効果があらわれました。長男・隆元が食中毒により急死。後を継いだ息子・輝元はまだ9歳で、毛利家の領国は不安定な状態になりました。このとき動いたのは三男・隆景です。輝元を早く一人前にすべく教育係を買って出たのです。その教えは厳しく、時には折檻におよぶこともあった程だと言います。しかし、このおかげで輝元は成長。立派な三角形の一角となりました。

しかし、織田信長の軍団が攻めてきました。このとき、危機を救ったのは次男・吉川元春でした。侵攻してくる織田軍に対して三家全軍の指揮をとり見事防ぎ切ったのです。そして、三度危機が襲いました。それが戦国時代最大の激闘、関ヶ原の戦いです。このとき、毛利家は石田三成側に。しかし結果は徳川家康の勝利。毛利家は取り潰しの危機にさらされました。このとき、危機を救ったのは吉川家です。元春の息子・広家は万一に備え戦の前から家康と内通していました。そのパイプをいかし巧みに交渉し、毛利家の存続を家康に認めさせたのです。その結果、領地を周防と長門2か国に減らされながらも取り潰しを免れることに成功したのです。毛利家は長州藩の藩主として260年に渡ってその家名を残し明治維新においても中心的な役割を果たしました。


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