徳川四天王 トップを目指す組織とは|知恵泉

NHK・Eテレの「先人たちの底力 知恵泉」で徳川四天王 トップを目指す組織とは?が放送されました。

 

徳川家康 その駆け出しは?

約450年前、三河の松平家に生まれた徳川家康は8歳の時に隣国の大大名・今川義元に人質として預けられました。弱小の松平家は家康を差し出し、その見返りとして今川に保護してもらっていたのです。しかし、永禄3年(1560年)桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれました。この混乱に乗じて家康は人質生活から脱出しました。19歳にして祖父の代からの居城・岡崎城に戻ると一国一城の主として領内の経営にのりだしました。

 

三河の一向一揆

ところが、領内の一向宗の門徒たちが家康追放を求め反乱を起こしました。三河の一向一揆です。実は、それまで支配者として君臨していた今川家は一向宗に対し税を免除し地域の自治も認めていました。しかし、独立に燃える家康は兵糧を備蓄しようと寺からも積極的に税を徴収しました。そのため、既得権益を守ろうという一向宗の人々から徹底抗戦を受けることになったのです。

 

組織分裂の危機

家康の家臣の中には一向宗の熱烈な信者もいました。そのため、家康の家臣の多くは仏に逆らうと仏罰が下ると考え、一向宗との戦いに消極的でした。中には戦の最中、家康の元を離れ敵に寝返る者もいました。新しい領主として立ち上がった家康ですが、求心力も組織力もなく窮地に追い込まれることになったのです。

 

榊原康政 登場!

この危機を救ったのが四天王一の切れ者と言われた榊原康政(さかきばらやすまさ)です。当時は16歳の若者でした。榊原康政にとって三河の一向一揆の戦いは初陣でした。榊原康政は味方が戦に消極的な様子を冷静に見据え、戦況を変える一手をうちました。

 

知恵その一 マイナス要因を逆手にとって活路を開け!

実はこの時の榊原康政は武将としてマイナス要因ばかりでした。まず、この合戦が初陣で戦の経験がないため、その能力は未知数。さらに、それまで仕えていた上司と実の兄は家康を裏切り一向衆側についていました。そのため命の奪い合いともなれば榊原康政は躊躇し活躍できないのではないかと思われました。陣立てで榊原康政は前線より遠く離れた後方に配置されてしまったのです。ところが榊原康政は突如家康の前に進み出ると「私に先陣をお任せください」と進言しました。そこには榊原康政ならではの狙いがありました。若く初陣の自分が先頭で戦えば他の武将に刺激を与えることができ、身内に対する情けより家康への忠誠が第一であることも伝えられます。家康は提案を受け入れ榊原康政を先陣に指名しました。戦場にで出た榊原康政は味方を前に「仏罰は我が引き受けた。我に続け」と叫びました。これにより家康軍は駆り立てられみな猛然と一向衆に突撃していきました。こうして家康は一向一揆を平定し勢いそのままに三河を治めることに成功しました。

 

家康はさらなる勢力拡大を目指そうとしても今川家や武田家といった強敵から領地を守るのが精一杯でした。そこで注目したのが織田信長です。家康は嫡男の信康を信長の娘と婚姻させました。信長を頼ることで徳川を守ろうという生き残り戦略でした。

 

知恵その二 組織の戦略を貫徹する覚悟

事件は信長が安土城を築いた天正7年(1579年)に起きました。城の完成を祝福しようと四天王の一人で重鎮の酒井忠次(さかいただつぐ)は信長を訪ねました。そこで、家康の嫡男・信康に謀反の疑いがあると言われました。実は事前に信長の元に一通の密告書が届けられていました。差出人は信康に嫁いだ信長の娘です。信康は密かに武田家に内通し織田家を滅ぼそうと画策していると言うのです。信長は重鎮の酒井忠次を糾弾しました。この時、疑いをかけられた信康は徳川家の有望な跡取りとして周囲の期待を一身に背負っていました。

酒井忠次は信長に「信康公は近頃荒々しい行動ばかりが目立ち家臣たちがいさめても聞く耳を持ちません。良くないことばかりを考え我々に接する態度はまるで敵のような有様です」と述べました。酒井忠次は主君である家康の判断を待たず信康の謀反を暗に認めました。それは、信長との同盟によって徳川を守るという戦略を最優先に考える行為でした。信長は有無を言わさず信康の処分を命じました。その命令を聞いた家康は「是非に及ばず」と漏らしました。

天正7年9月、信康は自害しました。酒井忠次が信長に返答してから2か月後のことでした。

 

家康最大の危機

天正10年6月、京都の本能寺にいた信長が明智光秀の謀反によって自害しました。家康がその知らせを受けたのは堺見物を終え、わずかな供と京都に向かっていた時のことでした。明智軍が次に狙うのは信長の同盟者である家康の命に違いありませんでした。しかし、家康一行は四天王を含めた34名。まさに絶望的な状況でした。さらに家康の首に懸賞金がかけられたため各地の地侍などが狙ってきました。家康はすぐに切腹するこを決意しました。当時、身分の低い者に討ち取られるよりも切腹の方が名誉を保てると考えられていました。そのため、家臣たちは止めることができませんでした。それを制止したのが戦国最強とうたわれた本多忠勝(ほんだただかつ)でした。

 

知恵その三 絶望の時こそ具体的な目標を打ち出せ

誰もが押し黙る状況で本多忠勝だけは逆転の発想で「本国へ帰りすみやかに軍勢を集めましょう。光秀を討ち信長の手向けにしようではありませんか」と提案しました。本多忠勝はこの状況がピンチではなく信長の無念を晴らすチャンスととらえ具体的な目標を打ち立てたのです。発想の転換によって家康や四天王の心境が変化しました。こうして伊賀越えと言われる大移動が決行されました。光秀のいる京を避け、山城・甲賀・伊賀と抜け、伊勢湾から船で岡崎城に帰る200kmを超える行程です。土地勘がない上いつ敵が出て来るか分からないルートですが、光秀を振り切るため一日でも早く駆け抜ける必要がありました。

出発して間もなく一行は地元の有力者・平井家に立ち寄りました。平井家は元々三河の出身でした。平井家から農民2人を雇い道案内させました。信頼できる家を頼り裏切られる危険性を避けたと考えられるのです。続いて、伊賀の柘植にある徳永寺に立ち寄りました。ここで一行は一杯の茶をふるまわれました。その礼として家康は門前から見える限りの土地を寺に寄進すると約束しました。さらに家紋まで与えました。

しかし、ついに地侍など数百人に見つかってしまいました。この絶体絶命のピンチで自慢の槍をくりだしたのが本多忠勝です。敵を撃退し、一行は4日間の大移動の末、三河に帰ることに成功したのです。




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