日系人フレッド・コレマツの戦い|知恵泉

F.コレマツ アメリカと戦った日系人

日米が激しい死闘を繰り広げた太平洋戦争。戦時中、アメリカの歴史に大きな汚点を残す事件が起きました。日系人の強制収容です。アメリカの西海岸に住む日系人12万人が強制収容所に送られました。突如、敵性市民としてアメリカ社会から排除されてしまった日系人たち。誰もが理不尽な状況に耐え忍ぶしかありませんでした。

 

そんな中、声を上げたのがフレッド・トヨサブロー・コレマツです。アメリカ生まれの日系二世です。戦争の最中、フレッドはアメリカが行ったことは人種差別ではないかと裁判を起こしました。しかし、彼を待っていたのは孤独な闘いでした。

何かおかしいと感じたら声を上げることを恐れてはいけない

(フレッド・トヨサブロー・コレマツ)

 

僕はアメリカ人だ!

フレッド・コレマツは1919年にアメリカで生まれました。アメリカは世界各地から移民を受け入れており、1940年代にはアメリカ本土には13万人近い日系人が暮らしていました。フレッド・コレマツの両親も福岡県から来た移民で、カリフォルニアでバラ農園を営んでいました。

 

日本生まれの父と母は日系一世、日本国籍です。一方、アメリカで生まれてたフレッド・コレマツは日系二世。生まれながらにアメリカ国籍を持つことができました。

 

フレッド・コレマツたち二世は積極的にアメリカ社会に溶け込もうとしました。友人の大半は日系人以外のアメリカ人。高校を卒業した頃には、白人の恋人もできました。

 

フレッドがアメリカ社会に溶け込めた背景には、アメリカが掲げる理念がありました。

すべての人間は生まれながらに平等であり、創造主によって生命・自由・および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられている

(アメリカ独立宣言)

アメリカでは、肌の色に関係なくみな同じ権利を持つことができると日系二世たちは信じていました。

 

なぜ?悲劇の強制収容

1942年2月、軍が突如すべての日系人に対し西海岸から退去するよう命令を出しました。住み慣れた土地を追われることになった日系人たち。なぜ、こんな命令が出されたのでしょうか?

 

1941年12月、日本がハワイの真珠湾を奇襲。太平洋戦争が勃発しました。日系人たちが日本軍と共謀し、スパイ活動や破壊工作を行うのではないか、アメリカでは日系人への敵意が高まっていきました。

 

この時、ルーズベルト大統領は「大統領令9066号」を出しました。これによって、軍はアメリカ西海岸に住む日系人を強制退去させる権限を与えられました。命令を実行したデウィット中将はこう語っています。

二世・三世はアメリカ国籍を持ちアメリカ化されてはいるが、彼らの人種的血統は薄まってはいない。日系人が敵性人種であることに変わりはない。

(ジョン・デウィット中将)

国家の安全を守るという大義名分のもと、人種を理由にした隔離政策が行われることになったのです。

 

1942年2月、日系人の西海岸からの強制退去が始まりました。約12万人が住み慣れた家を追われ、強制収容所に送られました。しかし、この中にフレッド・コレマツの姿はありませんでした。退去命令を拒否し、街に潜伏。カリフォルニアにとどまり続けたのです。

 

アメリカは間違っている!

フレッドには将来を誓い合った恋人のアイダがいました。アイダはイタリア系移民の娘です。イタリアはアメリカにとっては日本と同じ敵国ですが、市民権を持つ者に対しては大規模な強制収容は行われませんでした。日系人との扱いの差は明らかでした。

 

フレッド・コレマツは退去命令に従わなかった罪で逮捕され、拘置所に入れられてしまいました。犯罪者の烙印を押されることになったのです。さらに、恋人のアイダもフレッド・コレマツのもとを去ってしまいました。

 

絶望に打ちひしがれていたフレッド・コレマツの前にアーネスト・ビーシグが現れました。ビーシグたちのグループは、日系人の強制収容を人種を利用した人権侵害だと考えていました。アメリカを相手に原告として裁判を起こしてくれる人物を探していたのです。これに対し、フレッド・コレマツはビーシグの申し出を受け入れました。

私はアメリカで生まれ自由と平等について繰り返し聞かされてきました。アメリカ人であるということはどういうことなのか教え込まれてきました。だからアメリカ人になりたかったのです。

(フレッド・コレマツの回想より)

1942年6月、フレッド・コレマツはアメリカを相手に裁判を起こしました。この闘いは、後に日系人の歴史を大きく変えるものになっていきました。

 

強制収容所からの抗議

フレッド・コレマツは強制収容所で闘いを続けることになりました。強制収容所はアメリカ本土10か所に建設され、そこに12万人の日系人が収容されました。周りは砂漠や荒野が広がるだけの荒涼とした世界。住居や食べ物など、最低限の生活は保障されましたが、日系人たちは危険分子としてアメリカ社会から隔離されてしまったのです。

 

フレッド・コレマツは仲間の日系人たちに共に闘おうと訴えました。しかし、仲間たちの反応は思いがけないものでした。

 

愛する国への忠誠心と抵抗

この頃、アメリカは強制収容所の日系人たちに国家への忠誠心を試す取り調べを行っていました。「忠誠登録」です。

・アメリカ軍に入隊し戦う意思があるか
・天皇などの外国権力を否定し、アメリカ合衆国へ忠誠を誓うか

など、詳細な調査が行われました。

 

自らの愛国心を証明するため、9割近い日系人が「イエス」と答えました。多くの日系人の若者がアメリカ軍に入隊。ヨーロッパの激戦地に送られ命を落とす者も相次ぎました。

 

こうした中、国家を相手に裁判を起こしたフレッド・コレマツは、他の日系人からみると厄介者でしかなかったのです。しかし、フレッド・コレマツは決して訴えを取り下げませんでした。

フレッドはアメリカを平等で人権を大切にする国だと信じていました。彼は自分だけではなく、他の日系人のため市民権を守る戦いを行うべきだと考えたのです。

(シアトル大学法学部教授ロレイン・バンナイさん)

 

1942年9月、フレッド・コレマツは法廷に立ちました。裁判で争点となったのが、日系人は強制収容しなければならないほど危険な存在なのか。フレッド・コレマツは、日系人である自分も強い愛国心を持つアメリカ国民だと訴えました。

 

フレッド・コレマツの裁判は、最高裁判所まで争われることになりました。最高裁の9人の判事の意見は、2つに割れました。3人は、日系人に危険性はなく退去命令は人種を理由にした差別だと無罪を主張。しかし、6人は有罪だと述べました。

強制退去は人種への敵意によるものではなく、日本との戦争が原因である。不当だとは言えない。

(最高裁判事の意見書)

 

1944年、最高裁でフレッド・コレマツの敗訴が確定しました。

 

最高裁はアメリカ政府の主張をうのみにしました。(強制収容は)軍事的に必要だという政府の根拠のない主張を受け入れてしまったのです。

(シアトル大学法学部教授ロレイン・バンナイさん)

 

判決を聞いたフレッド・コレマツが自らの心情を書いた手紙が残されています。

ただ本当に絶望した。(フレッドの手紙)

 

フレッド・コレマツが敗訴した翌年、太平洋戦争は終結。アメリカ中が勝利の喜びに沸きました。しかし、フレッド・コレマツたち日系人は尊厳を奪われ心に消えない傷跡を残すことになりました。

 

日系人たちの心の傷跡

強制収容所から出た日系人たちの多くは、再びアメリカ西海岸に戻りました。フレッド・コレマツは結婚し、故郷のカリフォルニアで生活を始めました。2人の子供に恵まれ、平穏な暮らしを取り戻したかに見えました。しかし、彼の心には大きな傷が残ったままでした。

父が軍の命令を無視したことをコレマツ家はとても恥じていました。父は本当につらかったと思う。昔のことを誰かに話すこともありませんでした。

(フレッドの長女カレン・コレマツさん)

 

1950年代半ばから、アメリカでは公民権運動が始まりました。黒人たちマイノリティーへの差別撤廃を求める闘いが盛り上がりをみせていました。しかし、日系人に対する強制収容の問題は何の解決もされないまま放置されていました。

 

隠されていた事実

1982年1月、60歳を超えるフレッド・コレマツに人生を大きく変える出来事が起こりました。法学者で弁護士のピーター・アイアンズが訪ねてきました。日系人の強制収容は、憲法違反だったのではないかと調査を行っていました。

 

アイアンズは、政府の内部文書を入手。日米開戦の直前に行われた日系人に関する調査の報告書です。そこには、裁判には隠蔽されていた驚くべき記述が残されていました。

西海岸の日本人については、なんの心配もいらない。日本人たちが武装反乱を起こす危険もない。

つまり、アメリカは日系人が危険な存在ではないということを知りながら、強制収容を行っていたことが明らかになったのです。

 

フレッド・コレマツはアメリカを相手に再び裁判を起こすことを決意しました。

 

もう一度声を上げよう!

1983年、フレッド・コレマツの裁判のやり直しが決定。全米が裁判の行方に注目しました。アイアンズは、フレッド・コレマツのために弁護団を結成。メンバーに志願したのが、日系三世の弁護士です。この闘いに無償で参加しました。

日系人の強制収容はアメリカの民主主義そのものに反するものです。正義・尊厳・権利が平等に行使されなかったことに私は驚きと怒りを覚えました。フレッドの裁判は、我々日系人にとって歴史をただすチャンスだったのです。

(弁護士デール・ミナミさん)

 

1983年11月、フレッド・コレマツは北カリフォルニア連邦地方裁判所に向かいました。そして、再び声を上げました。

私は政府にかつての間違いを認めてほしいのです。人種や宗教、肌の色に関係なく同じアメリカ人があのような扱いを二度と受けないようにしてほしいのです。

(フレッド・コレマツ)

 

名誉を回復した日系人たち

1983年11月10日、連邦地方裁判所はフレッド・コレマツの有罪判決を取り消しました。アメリカは上訴を行わずフレッド・コレマツの勝訴が確定。40年の時を超えて名誉を回復することができたのです。裁判所には、強制収容所に入れられた経験を持つ日系二世たちが駆け付けました。

フレッドや若い三世たちが私たち日系人のために成し遂げたことに「ありがとう」と言いたい。(日系二世)

 

勇気を出して声を上げよう

裁判が終わってから15年、フレッド・コレマツはホワイトハウスに招かれました。クリントン大統領から、正義のために闘い続けた人として大統領自由勲章が授与されました。

 

2001年に起きたアメリカ同時多発テロ。アラブ系やイスラム教徒に対する敵意と憎悪が、アメリカ中で巻き起こりました。フレッド・コレマツは再び立ち上がりました。全米各地で自らの体験を語り、全てのアメリカ市民を守る取り組みを続けました。

2度とこのようなことが起きぬよう暴力を使わずに訴えよう。声を上げることを恐れてはいけない。

(フレッド・コレマツ)

2005年3月30日、フレッド・コレマツは亡くなりました。

 

2018年1月30日、フレッド・コレマツの98回目の誕生日に大手検索サイトのトップページに彼のイラストが大きく掲載されました。そこに添えられたフレッドの言葉は…

何かおかしいと感じたら声を上げることを恐れてはいけない

 

「先人たちの底力 知恵泉」
勇気を出して声を上げよう
日系人フレッド・コレマツの戦い




学び
2018/02/06


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