片倉小十郎景綱 人の力を引き出すには?|知恵泉

NHK・Eテレの「先人たちの底力 知恵泉」で人の力を引き出すには?独眼竜政宗の名コーチ!片倉小十郎が放送されました。伊達政宗(だてまさむね)の才能を開花させたのが片倉小十郎景綱(かたくらこじゅうろうかげつな)です。伊達政宗の養育係として長年仕え、時に兄や友のように接し、生涯にわたって政宗を支え続けました。戦場でも伊達政宗の右腕として知略を駆使し、伊達家の奥州制覇に貢献。その実力は徳川家康をして「わしに政宗に劣るものはないが小十郎を持たぬが劣るなり」と言わしめる程でした。伊達政宗は幼少の頃、自分を苦しめるコンプレックスを克服するため命懸けの勝負にでました。その手助けをしたのが片倉小十郎です。

 

伊達政宗の名コーチ!華麗なる片倉小十郎

片倉小十郎は弘治3年(1557年)伊達家が治める出羽国置賜郡(現・山形県長井市)に神官の次男として生まれました。幼少の時、よその家に養子に出されましたが、そこで跡継ぎが生まれるともう用はないとばかりに実家に戻されました。さらに、両親が相次いで死去。片倉小十郎は孤独でした。そんな片倉小十郎を親代わりとなって育てたのが18歳年上の姉・喜多(きた)でした。喜多は高い教養を持ち武道に優れた才媛の誉れ高い女性でした。その姉のもとで片倉小十郎は兵法書をはじめ武士としての素養を叩きこまれました。能や謡曲も好んで学び、その物腰の優雅さは主君・伊達家にも知れ渡るほどでした。

戦国時代終盤、米沢を本拠地としていた伊達家は周囲を緊張関係にある有力武将に囲まれていました。そんな伊達家で片倉小十郎は当主・輝宗の徒小姓としてとりたてられ、その器量を見込まれ輝宗の息子、当時9歳だった政宗の傅役に抜擢されました。大名の跡継ぎを育てるという重大な任務です。

政宗は利発で輝宗から大きな期待をかけられていました。ところが、恥ずかしがり屋であまり人前に出たがらなかったと言われています。その理由の一つが容姿にありました。5歳の時に天然痘にかかり右目を失明。その後、少しずつ右目の肉が盛り上がって目尻の外に飛び出すようになったのです。政宗は右目の醜さを恥じて、いつも隠すようにしていたと言います。そんな政宗に対し、家臣の中には「大将の器ではない」と陰口をたたく者も出る始末。さらに政宗に弟が生まれると、母は弟を可愛がるようになり、そちらに伊達家を継がせたがったと言います。幼い政宗の心に巣食う孤独とコンプレックス。しかし、片倉小十郎だけはこのような政宗こそ将来のリーダーにふさわしいと考えていたのではないかと専門家はみています。

「恥ずかしい気持ちを持つことは、むしろ精神的に成長している。繊細で感受性の高い少年と見ていた。繊細さがなければ武家の頭領として多くの家臣を率いていくことはできない」(元仙台市博物館館長 佐藤憲一さん)

片倉小十郎は自ら姉に励まされ育てられたように、剣術の稽古相手となり、また時に親身に相談にのり政宗のコンプレックスを解消しようと向き合い続けました。ある時、政宗は大胆な決断をしました。劣等感の原因となっている右目の肉を自ら取り除こうと決意したのです。

 

知恵その1 体当たりで向き合え!

片倉小十郎は小刀を政宗の右目の肉に。自分を変えようとした政宗の命がけの覚悟に体当たりで向き合ったのです。これ以降、政宗は周囲に対して堂々と振る舞うようになったと言います。

「きのうの晩、花入れがどれも見た目が悪くなっているのに気がついた。そこで花入れにちょうど良さそうな竹を2本ばかり切って急いで持ってきてほしい。あまりにあまりに暇だったのにまかせて筆を執りました。あさっては一緒に鷹狩りに行こう」(政宗から小十郎宛の手紙)

天正12年(1584年)18歳となった政宗は伊達家の家督を継ぎました。東北の激しい生き残り競争の中、野望と不満を抱いた一人立ちでした。意外なことに、政宗を支える片倉小十郎は政宗以上にプレッシャーを抱えていました。政宗の家督相続と時同じく、片倉小十郎は自分の妻が身ごもっていると知ると、その子供を殺そうと覚悟したのです。政宗夫婦にはまだ子供がおらず、側近の自分に先に子ができたとあっては家督を継ぎこれからという政宗の気持ちにさしさわりがでると考えたのです。これを知った政宗は慌てて片倉小十郎にやめるよう手紙を出しました。

「そなたは生まれる間近のわが子を殺すと言っているようだが、どうか私に免じて助けてやってくれないか。まだ将来のこともおぼつかない私がそなたのことをとやかく言うのもおかしいが、ただただ私に任せてほしい。どうか助けてやってくれ」(政宗から小十郎宛の手紙)

主君の立場なのにうろたえ、自信もなく頼み込むに訴える政宗。片倉小十郎はこの真摯な願いを受け入れました。やがて生まれた男の子が二代目小十郎重長として政宗を支えていくことになりました。

 

片倉小十郎 心を操る戦術

奥州の覇権をかけて周辺勢力との戦いに乗り出す政宗。本拠地の米沢から南下を始めるや快進撃。宿敵・蘆名氏との決戦を迎えました。戦の大局をよみ、人の心の機微をつくのが得意な片倉小十郎は、直接刀を交える合戦の裏側で敵を内側から崩す調略を駆使しました。

「あなたからの手紙を読み急ぎあなたの立場を保証するためわが主、政宗公に一筆書いてもらいました。どうぞご安心して早々に蘆名と手切れをされるように。蘆名の城からも手切れをしたいと言ってくる方々が他にもおります。しかしまずはあなたが首尾良く手切れされるならあなただけは召し抱え他の方々は討ち取るつもりです」(伊達軍が蘆名氏の城を攻めるなか敵の重臣に小十郎が送った手紙)

片倉小十郎の言葉には、もしあなたが今すぐ寝返らなければ今すぐあなたも討ち取りますよ、という含みがあります。敵の重臣は慌てて伊達の支配下にはいりました。相手の心を冷徹に操る片倉小十郎の調略。こうした働きに助けられ政宗は南東北一帯を制圧。伊達家の当主となってわずか5年で、奥州の覇者となったのです。

 

ピンチ!秀吉の巨大プレッシャー

ところが、天下への野望に燃える政宗の前に最大の敵が立ちはだかりました。大坂の豊臣秀吉です。天正18年(1590年)1月、政宗は秀吉から関東の北条氏を討伐するため、小田原に参陣するよう命じられました。南東北の覇者として勢いにのっている政宗は、秀吉からの出陣命令を無視。まず秀吉の出方を見ようとしました。しかし3月、秀吉の小田原攻めの軍勢の数が20万以上であることが明らかに。桁外れの大軍勢に政宗は大慌て。小田原に行くべきが否か、連日会議を開きました。彼の手紙からは精神的に追い詰められた様子がうかがえます。

「秀吉とのことさえうまく行けば他にはもう何も心配は無いのだ。もし秀吉と行き違いがあれば切腹はまぬがれまい。もちろん秀吉に対し討ち死にや切腹は本望である。ただただ明けても暮れてもこのことで頭がいっぱいだ」(政宗から家臣に宛てた手紙)

 

知恵その2 気を楽にもたせろ!

家臣たちとの会議で結論は出ず、政宗は夜を待って密かに片倉小十郎の屋敷に向かいました。寝室まで押し入って片倉小十郎の考えを改めて問いただしました。

「秀吉のすさまじい勢いは例えれば夏のハエのようなもの。敵対するのは困難です。二百や三百たたきつぶすのを二度三度と重ねたところで、ますます増えて襲ってくるだけでたたき尽くすことはできないでしょう」

片倉小十郎は秀吉を夏のハエにたとえ、とるに足らない存在だが敵対しても無駄と語り暗に恭順すべきだと諭したのです。片倉小十郎の言葉に感じ入った政宗は、小田原に参陣し秀吉に頭を下げる決心をしました。そして、秀吉の前に表れた政宗は前代未聞のパフォーマンスをしました。死を意味する白装束で秀吉に命に預ける覚悟をアピールしたのです。その芝居っ気たっぷりの度胸に秀吉も感心し、政宗を許しました。片倉小十郎のアドバイスが政宗一世一代の大芝居を引き出したのです。




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