ゼロ戦開発の光と影|知恵泉

NHK・Eテレの「先人たちの底力 知恵泉」でゼロ戦開発の光と影が放送されました。1941年12月8日、日本軍はハワイの真珠湾を攻撃。太平洋戦争が始まりました。この戦いで日本海軍の航空隊は戦艦を撃沈するなど、アメリカ軍に大きな被害を与えました。そこで活躍したのが零式艦上戦闘機(ゼロ戦)です。圧倒的なスピード、長大な航続距離、抜群の運動性能とゼロ戦はあらゆる面で当時の欧米の戦闘機を凌駕していました。その脅威の性能にアメリカ軍上層部が出した命令は「ゼロ戦とは一対一の戦闘をするな」というものでした。もともと欧米から何十年も遅れて始まった日本の航空機開発。世界に少しでも追いつこうと技術者たちが奮闘する中、海軍はとんでもない要求を突きつけました。それはスピード、航続距離、運動性能その全てにおいて世界トップレベルの戦闘機を開発しろというものでした。実現不可能とも思えるこの要求をどうすれば実現できるのか、技術者たちは頭をひねりました。そして辿り着いたのが75g。このわずかな重量へのこだわりが海軍の要求を満たし、さらにはアメリカ軍をも恐れさせるゼロ戦の性能を生んだのです。一方、アメリカも黙ってはいませんでした。真珠湾攻撃の7カ月後に新型機を投入すると、これまで連戦連勝を続けていたゼロ戦の立場は逆転。撃墜されはじめました。この事態に海軍がとった方策はゼロ戦のさらなる性能の向上。技術者たちは改造につぐ改造に翻弄されていきました。しかし、圧倒的な物量をほこるアメリカ軍の前にゼロ戦はかつての栄光を取り戻すことなく終戦を迎えました。一時は世界を凌駕する技術を生み出した日本は、なぜその技術を維持することができなかったのでしょうか。

 

ゼロ戦開発はこうして始まった

1938年1月17日、海軍は横須賀の航空隊本部に中島飛行機と三菱重工業の技術者を集め、次期戦闘機の開発を依頼しました。そこで提示された海軍の要求に技術者たちは目を疑いました。最大速度時速500km以上、航続時間6時間以上(距離にして2000km以上)、運動性能は現在の戦闘機以上にするなどレベルの高い要求ばかりが並びました。そして、最大の問題はそれぞれの要求が互いに相容れない要素を含んでいることでした。まず、速度を出すには大きなエンジンが必要です。しかし、エンジンを大きくしても航続距離を伸ばすために大容量の燃料タンクを装備すると機体が重くなり、せっかく速くなった速度は帳消しになってしまいます。しかも、運動性能を向上させるには機体を軽くしなければなりません。大きなエンジンやタンクを積んだ状態では小回りがきかず、運動性能は低下します。あまりに常識はずれな要求に中島飛行機は実現不可能と試作機製造から撤退。残った三菱重工が海軍に対し、せめて性能の優先順位を決めて欲しいと訴えました。すると源田少佐は「戦闘機で最も大切なのは格闘戦性能である」と発言。しかし、柴田武雄少佐は「これからはスピードと航続距離が第一である」と言いました。互いに一歩も譲らず、優先順位は決まりませんでした。

 

知恵その一 常識では不可能ならその常識を疑え

三菱重工業の開発リーダーに抜擢されたのは堀越二郎(ほりこしじろう)でした。

「これまでの常識によりかかっていたのではどうしようもない。設計のしきたりや規格を鵜呑みにするのではなくて、その根拠を考え新しい光をあててみたらどうだろうか」(堀越二郎「零戦」より)

常識的に考えて不可能な要求にこたえるためには、その常識を疑うところから始めるしかないと考えたのです。そこで堀越二郎が考えたのは機体の重量でした。当時のアメリカの主力戦闘機は重量2500kgでした。これは戦闘機として標準で、これ以上軽くすることは出来ないと考えられていました。堀越二郎はこの常識を疑い作り上げたのが驚くほど重量の軽い戦闘機ゼロ戦でした。

それまでの戦闘機では外板の厚さはどこもほぼ一定でした。しかし、堀越二郎は外板といえども場所によって必要な強度が異なることから薄くできるところは通常の3分の1の0.5ミリにし軽量化したのです。堀越二郎の軽量化への道はすさまじく、3000枚を超える図面を細部にわたるまでチェック。部品の一点一点を調べ必要な強度を計算しました。そして、さらなる軽量化のために部品にほどこしたのが肉抜き穴です。強度に影響がない部分に穴をあけ、部品を軽くするための工夫です。堀越二郎はついにゼロ戦の重量を1754kgにまで落としました。常識を覆すほどの軽量化に成功したことで、本来エンジンを大きくするしかないと思われていたスピードアップを実現。海軍の要求した時速500kmを突破することができたのです。さらにこの軽量化はもう一つの要求である運動性能の問題も解決しました。機体を大きくしなかったことで旋回能力や上昇力などの性能を落とさずにすんだのです。残るは航続距離の延長でした。

この問題のカギは、いかに機体の重量を増やさずに燃料を多く積むかにあります。搭載する燃料を増やすためには既存の燃料タンクを大きくするか、機体内部のどこかに補助タンクを増設するしかないと考えられていました。しかし、いずれにせよそれでは機体が重くなり動きも悪くなります。そこで堀越二郎が考えついたのが落下式予備燃料タンクです。航続距離が重要となる移動の時には予備タンクの燃料を使い空中戦の前に切り離せば身軽になって運動能力を最大限発揮できます。これまで誰も考えつかなかった画期的なアイディアです。外づけされたタンクには330リットルが入り、これによって飛行距離を1000km伸ばすことができました。こうして実現不可能と思われた3つの矛盾は全て解決。海軍が提示した全ての要求を満たす究極の戦闘機ゼロ戦が誕生したのです。

1940年9月13日、初めて実戦配備されたゼロ戦13機が中国の重慶に向け出撃しました。ゼロ戦は圧倒的な戦闘能力を発揮し、敵機27機を撃墜。ゼロ戦は1機も落とされることなく帰還しました。ゼロ戦の性能の高さが実証されると1941年12月8日の真珠湾攻撃では爆撃機などとともに120機以上のゼロ戦が出撃。アメリカ軍の戦艦8隻を撃沈、または航行不能にするなど大きな被害を与えました。圧倒的な性能を誇るゼロ戦を前に、アメリカ軍はパイロットに「ゼロ戦と一対一の勝負をするな」という命令を出しました。しかし、これほどまでにアメリカ軍を恐れさせたゼロ戦の栄光も長くは続きませんでした。

 

開戦当初、圧倒的な性能で敵を恐れさせたゼロ戦ですが、1942年7月ゼロ戦の運命を一変させる出来事が起こりました。戦いの最中、アクタン島にゼロ戦が不時着。パイロットは死亡しましたが、そこが湿地帯だったためゼロ戦の機体はほとんど無傷のまま。これをアメリカ軍が発見し手に入れたのです。構造から部品の一つ一つまで、あらゆる角度から徹底的な調査が行われゼロ戦の強さの秘密が暴かれていきました。そしてついに、ゼロ戦に2つの弱点があることを発見しました。一つは急降下速度。時速550km以上で降下するとコントロールが効かなくなるのです。そして二つ目が操縦席や燃料タンクに防弾装備が一切ないこと。ゼロ戦の空戦能力を分析したアメリカはゼロ戦の急降下速度を大幅に上回る時速760kmで急降下できる新型戦闘機F6Fヘルキャットを開発。ゼロ戦の上空から一気に急降下し攻撃をしかけてその場を去っていく一撃離脱の戦法を採用しました。これは550km以上で急降下できないゼロ戦の弱点を見事についたものでした。

 

知恵その二 栄光にしがみつくな

1942年4月、ゼロ戦の実戦での戦果を高く評価した海軍はゼロ戦の決定版を作るべく、さらなる性能の向上を目指した改造を行いました。二号ゼロ戦です。その特徴は翼の先が四角い形をしていること。さらに、大型エンジンを搭載。エンジンパワーを2割上げた1100馬力のエンジンを採用することでスピードを上げ、急降下速度の弱点を補おうとしました。しかし、この改造は思わぬ弊害をもたらしました。

1942年8月に行われたガダルカナルの戦いで、日本軍はラバウルから1000km離れたガダルカナル島のアメリカ軍基地を攻撃し、戻ってくるという作戦を立案しました。ところが、作戦実施を前に問題が発覚しました。二号ゼロ戦の飛行テストをしたところ、ガダルカナルの往復ができないことが分かったのです。原因は改造で大きくなったエンジンにより燃料タンクが圧縮され、搭載できる燃料が半分以下に減ったこと。その上、翼が角型に変わったことも空気抵抗を増やし燃費を悪化させていました。航続距離は300km以上短くなっていたのです。この事態に海軍がとった方策はゼロ戦のさらなる改造でした。翼は角型から丸型に戻し、燃料タンクを翼の中に増設。これにより航続距離は二号ゼロ戦より300km伸びました。ところが、今度は翼にタンクを増設したことで弾が当たって簡単に火を吹く確率が高くなり撃墜されるゼロ戦が増加しました。これをうけ、またも改造が話し合われました。以後、ゼロ戦の改造は主翼の長さを短くしたり、機銃を追加したり、防弾の装備を施したりと迷走を始めました。改造につぐ改造で、終戦までに作られたゼロ戦は15種類。技術者たちは次々と命じられる改造要求にこたえるのが精一杯で、新たな戦闘機の開発にまでなかなか手が回りませんでした。ゼロ戦の改造は最優先事項として扱われたのです。

そうしている間にもゼロ戦は次々と撃墜され熟練パイロットが戦死していきました。アメリカ軍が対ゼロ戦用に開発したF6Fヘルキャットの現場投入が本格的になると、もはやゼロ戦に勝ち目はなくなっていきました。1944年6月19日、日本は形勢を一気に逆転しようとマリアナ沖でアメリカ軍に挑みました。最新の改造をほどこしたゼロ戦52型を中心に、持てる航空戦力のほぼ全てを投入。すでに熟練パイロットの多くを失っていた日本は実践経験の乏しい若いパイロットが中心でした。ゼロ戦は敵の圧倒的な戦力の前に次々と撃墜されていきました。全機の約9割にあたる200機以上の犠牲を出し、日本の航空戦力は事実上壊滅したのです。

1944年10月、神風特別攻撃隊が出撃しました。最初の特攻機として選ばれたのはゼロ戦でした。250kgの爆弾を積み、敵艦に体当たりをする特攻は終戦まで続き、ゼロ戦を含む2400機以上が使用されました。

「多くの前途ある若者が帰ることのない体当たりの攻撃に出発していく。新聞によれば彼らは口もとを強く引きしめ頬には静かな微笑さえ浮かべて飛行機に乗りこんでいったという。その情景を想像しただけで胸がいっぱいになった」(堀越二郎「零戦」より)

1945年8月15日、日本はポツダム宣言を受け入れ戦争は終わりました。




コメント

  1. NHKらしい古臭い番組構成。ガダルカナルへの連日の長距離侵攻はパイロットの限界を超えており、作戦上の失策をゼロ戦の航続力に転嫁した軍部の見解を踏襲している。改造15種類というが、同時代の米英独ソの機体に比べると少なく、燃料タンク、機銃や防弾の追加は他の国も行っている標準的な改造で迷走と呼ぶのはおかしい。むしろ、エンジン換装を行わなかったことによる改造不足が問題である。また、軍が施策を乱発したのは事実だが、量産工場と試作工場を別に設けていなかった三菱特有の事情が新型機の試作遅延の大きな要因であった点について、何も触れていない。

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