明治維新の不都合な真実|知恵泉

NHK・Eテレ「先人たちの底力 知恵泉」
歴史は勝者によってつくられる 明治維新の不都合な真実

 

2018年は明治維新から150年。260年続いた江戸幕府が終わり告げ、明治という新たな時代が始まりました。それは、近代日本の幕開け、怒涛の勢いで世の中が分かりました。明治新政府は新しい時代を象徴する数々のキャッチフレーズを生み出していきました。廃藩置県、四民平等、富国強兵、殖産興業、文明開化など。わずか20年程で国が瞬く間に変わり、明治維新は一つの奇跡とまで言われました。そんな新しい時代を強調する耳に心地良いキャッチフレーズの数々ですが、それは明治という時代の表側です。

 

横須賀造船所

横須賀海軍施設はかつての横須賀造船所でした。明治政府の富国強兵、殖産興業の象徴、日本の近代化を支えた重要な場所でした。明治4年に創業が始まり、フランス人技師の指導のもと最新の技術がもたらされました。日清戦争や日露戦争では造船や軍艦の修理を行い日本海軍に大いに貢献しました。海軍大将の東郷平八郎は「日本海海戦で勝てたのは横須賀造船所のおかげ」と語っています。

 

造船所ではあらゆるものが作られました。日本初の総合工場だったのです。造船所内には船に使う部品やロープを作る工場もありました。それまで外国に頼っていたものを自国せ生産することを目指したのです。また、工場建設などに使うレンガの生産も行われました。横須賀造船所は日本の近代化になくてはならない存在だったのです。

 

約150年前、横須賀造船所を作るために奔走し「造船所の父」ともいうべき人物が江戸幕府の勘定奉行・小栗上野介(おぐりこうずけのすけ)です。実は造船所の建造は江戸幕府の事業として始まったものだったのです。明治という時代が始まる前から江戸幕府がすすめていた造船所の計画。国の近代化を見据え幕府は着々と準備を進めていたのです。

 

1853年の黒船の来航をきっかけに開国に踏み切った日本。迫りくる外国の脅威に対抗するため近代化は急務でした。安政2年、江戸幕府は長崎に海軍伝習所を創設。幕臣だけでなく諸藩の者にも航海術や医学などを学ばせました。そこには勝海舟や榎本武揚らも参加。幕末はもちろん維新後も大いに活躍することになる人物たちです。さらに、諸外国の先進文化を学ぼうと海外派遣もおし進めました。万延元年、アメリカに初の使節団が送られました。総勢77人。その一つが横須賀造船所を作った小栗上野介です。

 

アメリカ中を視察する中で小栗上野介はワシントンの造船所で衝撃を受けました。巨大な鉄の工場や蒸気機関など見たことのない新しい技術があふれていたのです。これこそ、日本の近代化になくてはならないものだと、帰国後造船所建設にむけて奔走しました。しかし、ただでさえ財政難の幕府。巨額の費用がかかる造船所の建設に反対する者も多くいました。その上、各地で討幕の動きが活発化。幕府の存続自体が揺るぎ始めていました。

 

そんな中、幕臣が「費用をかけて造船所を作っても、できあがるころには幕府はどうなっていることか」と言ってきました。しかし、小栗上野介は「幕府の運命に限りがあるとも日本の運命には限りがない」と反論しました。小栗が見据えていたのは日本の未来でした。

 

ところが、造船所の建設が始まってほどなく戊辰戦争が勃発。江戸幕府は終焉をむかえ、明治新政府がたてられました。最後まで新政府軍と戦うことを主張した小栗は賊軍として命を奪われてしまいました。小栗上野介が造船所の完成を見ることはありませんでした。

 

その時の5月、江戸無血開城。明治新政府は幕府が明け渡した江戸城へと乗り込みました。政治の中心となったのは薩摩・長州出身の大久保利通、西郷隆盛、木戸孝允ら。しかし、ここで彼らははたと困りました。せっかく政権をとったものの政府を動かしていくための人材がいなかったのです。

 

昔の中身で出ています

新政府が江戸で新しい政治を始めるにあたり目を付けたのが旧幕府が残した遺産です。江戸には大名たちが国元に帰ってカラになった大名屋敷がたくさんありました。これを庁舎として再利用。そして、人材も幕府の役人たちを活用。奉行や同心、与力など江戸の街の行政をになってきた有能な人物たちが町にはあふれていました。当面は即戦力として彼らをそのまま使うことに。

 

さらに、新政府の中枢部にも幕臣から優秀な人材を登用しました。例えば、榎本武揚。彼は五稜郭で徹底抗戦したあと新政府に降伏した人物です。榎本はオランダ留学の経験があり語学堪能、知識豊富。新政府に欠けていた人材でした。のちに榎本は逓信大臣、文部大臣、外務大臣、農商務大臣など歴任。新政府の人間を超えて大出世していきました。他にも殖産興業につとめた大鳥圭介(おおとりけいすけ)や後の郵便制度を作った前島密(まえじまひそか)、企業家として活躍した渋沢栄一(しぶさわえいいち)など旧幕府の人材が明治の近代化を支えていきました。

 

そして、近代化を支えた幕府の大きな遺産が横須賀造船所です。維新後、新政府に建設が引き継がれ完成しました。その技術力の高さは今でもみてとれます。今でも使われているドライドック(船を修理する場所)は関東大震災でもびくともしませんでした。明治新政府の名のもとに始められた新たな改革の数々ですが、実情は旧幕府に頼っていた部分も多かったのです。

 

敗者はいかにして「勝者の歴史」と戦うか?

福沢諭吉は明治25年に執筆した「痩我慢之説」でこんな批判をしています。

旧幕臣でありながら新政府に出仕し高い地位を得ている。恥ずかしくないのか。

批判されたのは勝海舟です。幕末、新政府軍を相手に幕府の代表として活躍した人物。ところが明治2年、勝海舟は早くも新政府に出仕。外務大丞や海軍卿などを歴任。最後は爵位までもらっていました。

福沢諭吉の批判にたいし勝海舟はこんな返事を返しています。

私の行いは自らの信念によるもの。けなしたり褒めたりするのは人の勝手だ。わしは知らん。

自らの信念を貫くため、あえて新政府に飛び込んだという勝海舟。その信念とは?

 

敵の懐に飛び込んで主張せよ

勝海舟が新政府に出仕した理由は、主君・徳川慶喜の名誉回復です。慶喜は新政府に歯向かったとして朝敵とみなされていました。維新後、慶喜は反省の意をしめしてひっそり暮らしていました。勝海舟はそんな主君のために奔走したのです。政府の中枢に身を置いた勝海舟は幾度となく意見書を書き、ことあるごとに慶喜の名誉回復を訴えました。その地位を利用して人脈を広げては働きかけを続けました。

 

それは政府にいるからこそできること。いつかチャンスは訪れるはずと信じていました。そうして30年程が経った頃、ようやくその努力が身を結びました。

 

明治31年、明治天皇と慶喜の対面が行われることになったのです。明治天皇はこれまでの慶喜の苦労に対しねぎらいの言葉をかけたと言います。それは朝敵とされた慶喜の汚名が晴れた瞬間でした。勝海舟はこの日の日記にこう書いています。

我が苦心三十年 少しく貫く処あるか

「海舟日記」より

どんなに批判されても、あえて政府との関係を続けた勝海舟。それこそが志を遂げるために重要だったのです。

 

さらに敵の懐に飛び込んだ人々は会津にもいました。新政府と最後まで徹底抗戦した会津藩は明治まで朝敵の汚名を引きずりました。そんな厳しい時代を生き抜いたのが元会津藩士の山川浩と健次郎兄弟です。兄の浩は戊辰戦争で会津軍の指揮をとった人物。弟の健次郎はは少年兵・白虎隊の生き残りです。戦いで多くの仲間が殺されました。癒しがたい心の傷をおったにも関わらず、山川兄弟は敵として戦った新政府の中で生きていく決意をしました。

 

浩は陸軍へ入り、西南戦争にも参加。最後は男爵の地位を得ました。健次郎は学問に励み、政府の国費留学生に選ばれアメリカに留学。帰国後は物理学の教授に。明治34年、48歳で東京帝国大学の総長に就任しました。2人がやろうとしていたこともまた朝敵とそしられる会津の汚名を晴らすことでした。

 

会津藩主・松平容保が幕末、京都守護職についていたとき天皇から御宸翰(ごしんかん)と御製をたまわりました。そこに記されていたのは

たやすからざる世に 武士の忠誠の心をよろこびて

容保の忠誠に対する天皇の感謝の言葉でした。それはまぎれもなく会津が朝敵ではないという証拠でした。容保自身は生前このことをあまり語らず、御宸翰と御製は明治26年、容保が亡くなった後に発見されました。

 

この決定的な事実を世に出すため山川兄弟は京都での容保の動向をまとめた歴史書の執筆を始めました。途中、浩は亡くなったものの健次郎はその意思を引きつぎ4年以上かけて原稿を完成させました。しかし、出版にさいし元長州藩で陸軍中将の三浦梧楼に相談すると出版を見合わせるよう諭されてしまいました。三浦は御宸翰の価値は認めたものの、いまだ薩摩・長州を中心とした勢力が社会で強い力を持つ中、その事実を世に出すのはまだ早いというのです。

 

それから10年、日本が日露戦争にも勝利し国としての自信がみなぎるようになる中、世の中の空気も変わり始めました。それまでの新政府を中心とした歴史観一辺倒から、幕府の立場から明治維新をどう見るかという新しい研究も始まったのです。そして、健次郎はついに出版に踏み切りました。明治44年、「京都守護職始末」を刊行。これまで語られてきた歴史とは異なる、もう一つの敗者の目からみた歴史書が人々の前に現れたのです。

 

自分たちの声に耳をかたむけてもらうためには自らの地位を築き、人々の信頼を得ねばならない。そして、声をあげるべきその時が来るのをじっと待ち続けること。それこそが歴史の敗者とされた人々が信念を貫くために駆使した知恵だったのです。




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