毛利元就 出世の極意教えます|知恵泉

NHK・Eテレの「先人たちの底力 知恵泉」で出世の極意教えます 戦国の覇者 毛利元就が放送されました。

 

弱小からのスタート

毛利元就は明応6年(1497年)に毛利家の次男として生まれました。当時、中国地方は大内、尼子という2つの戦国大名がしのぎをけずりあっていました。その狭間にあった毛利家は小さな領主の一つにすぎず、大国の顔色を窺い右往左往する日々を送っていました。次男の元就はやがて当主となる兄のサポート役として一生を終えるはずでした。ところが、運命のいたずらは元就の境遇を一変させました。元就が10歳の時に父が、20歳の時に兄が亡くなってしまったのです。一説には死因は酒の飲み過ぎ。大国からの理不尽な要求に苦しむストレスが酒に逃避させたと言われています。家督を継いだのは兄の子ども幸松丸でしたが、まだ2歳だったため元就が後見人となりました。

永正14年(1517年)、近隣の安芸武田氏が攻めてきました。毛利元就にとってはこれが初陣。しかも武田軍5000に対して毛利軍は1000でした。ここで毛利元就は一か八かの賭けに出ました。狙いを相手の大将に集中させたのです。矢が見事大将に命中。武田軍は崩れ奇跡的な勝利を遂げました。家臣たちの間では毛利元就への信望が一躍高まっていきました。

大永3年(1523年)、幸松丸が病死したことで毛利元就が当主に就任。27歳にして戦国の厳しい荒波に漕ぎ出すことになったのです。

 

知恵①小心者であれ!

中国地方で大きな幅をきかせていた尼子と大内という2大勢力は、狭間にある安芸国の小領主たちに自分の派閥に入るよう強要し合っていました。このような状況の中、尼子派に属していた毛利家。ある時、毛利元就は尼子の依頼によって大内側の城の攻略にのぞみました。知略に長けた元就は正面から攻めることはしませんでした。相手の武将の一人に働きかけ身の安全を保障に寝返るように交渉したのです。この作戦は成功し元就は城を無傷で手に入れました。しかし、尼子の当主・尼子経久は元就たちが交わした約束を認めず、裏切者は信用できないと相手の首をはねてしまいました。顔を潰された形の元就に追い打ちをかける出来事が起こりました。尼子の一派が毛利の家臣を懐柔し元就の暗殺を企てたのです。知略に優れた元就を警戒したためでした。計画は未然に防がれ、元就は九死に一生を得ますが度重なる仕打ちに怒り心頭。大内に寝返ることも可能でしたが、元就は踏みとどまりました。周囲の領主たちが尼子についていたため、この状況で反旗を翻すことは危険だと自重したのです。そんな元就に願ってもないチャンスが到来しました。

大永4年(1524年)、大内が安芸に本格的な侵攻を開始したのです。寝返る絶好のチャンスでしたが、ここでも行動は起こしませんでした。従来通り尼子側として出陣し、大内側と全力で戦い局地戦では勝利までおさめました。結局、この戦は大内側が勝利。その結果、安芸の領主たちが徐々に尼子側から大内側へ旗色を変え始めていきました。元就がようやく動いたのはこのとき。大内に服属を誓う書状を送り、傘下に入ることを申し出たのです。大内の当主・大内義興は戦上手な元就に手を焼いていたこともあり、もろ手をあげて歓迎。尼子に不信感を抱いてから2年。待って待って待ち続けた結果の行動でした。その後、元就は大内派の中で成長し尼子派だった近隣の高橋を滅ぼしたことで領土を拡張。横並びから一歩抜け出すことに成功しました。

いくらひどい仕打ちを受けても確証を得られるまでは動かない。この徹底した用心深さが元就の急成長の秘密だったのです。

 

とにかく相手を立てろ!

慎重に慎重を重ねてようやく領土を広げた毛利元就。その後、娘を宍戸家に嫁がせたり、次男を吉川家に、三男を小早川家に養子に出したりしてその勢力を広げていきました。安芸全体に睨みをきかせる名手となった元就ですが、その支配の仕方は一風変わったものでした。

領主たちの署名は縦書きではなく丸く放射状に書かれています。これは傘連判と呼ばれ、署名者が全て対等であることを示す形式でした。毛利元就のとにかく相手を立てるという姿勢は相手が武士だけとは限りませんでした。

天文20年(1551年)大内の中でクーデターが勃発。実権を握った陶晴賢と毛利家は対立するように。元就は厳島での戦いに勝利をおさめると本拠地である大内の領国に攻め込みました。ここで、思わぬ障壁が現れました。これまでの生活が脅かされると恐れた農民たちが毛利軍に強く抵抗したのです。このとき、元就が命じたのは「在地の農民に狼藉を働かないよう見張りなさい。発見したら自分の配下の兵でなくても罰を与えて構わない」というもの。元就の姿勢は農民たちの態度を軟化させ農村部の安定に繋がりました。農民の中には毛利家の家臣となり、農村部の統治を手伝う者もいました。毛利軍は住民の協力を足場に次々と相手の拠点をおさえることに成功。弘治3年(1557年)大内の領国を支配下にいれました。元就はさらに投降した敵将たちも優遇。その協力を得ながら永禄9年(1566年)尼子氏をもまで倒しました。

いくら組織が大きくなっても相手を立てる、その細やかな心配りが毛利家を日本有数の戦国大名にさせたのです。


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