慶長5年9月15日、徳川家康率いる東軍と石田三成を中心とした西軍が激突した関ヶ原の戦い。東軍か西軍か、全国の大名を巻き込んだ天下分け目の合戦が起こりました。
実はこの時、戦の様子を山の上から固唾を呑んで見守っている人々がいました。関ヶ原の村人たちです。戦場から逃げてきた彼らがそこで見たものは何だったのでしょうか?
兵士が村へやってきた
当時、関ヶ原に一番多く住んでいたのが農民でした。しかし、その暮らしは決して楽なものではありませんでした。
一家4人家族の場合、田んぼからは年に6石の米がとれましたが、年貢をおさめると必要な量の半分しか残りません。村人は、稲を刈り取った後の田んぼで、麦を育て貧しいながらも平穏に暮らしていました。
ところが、豊臣家の石田三成率いる西軍が徳川家康との決戦に向け進軍してきました。総勢8万5000の西軍は、大坂城から伊勢などを攻略しながら東へ進み、8月10日に石田三成は岐阜の大垣城に入りました。
9月3日、関ヶ原にも西軍が現れました。大谷刑部の部隊600が重要な街道である中山道をおさえるため陣を敷くことになったのです。
当時、関ヶ原一帯を治めていたのは竹中重門という武将です。彼は秀吉に仕えた竹中半兵衛の嫡男でした。竹中重門は西軍の一員として岐阜へ出陣していました。村人たちは西軍の武士に中仙道をはじめ村周辺の道や地形などを詳しく案内しました。さらに、陣地作りのために土木作業にも駆り出されました。
戦国時代の合戦では、地元民の多くが無給で協力させられていたのです。この間、徳川家康の東軍も東海道を西へ進軍。8月23日に岐阜城を攻略し、石田三成がいる大垣城に迫っていました。
殺気立った何万もの兵士たち。村人たちは兵の乱暴を未然に防ぐためある手立てを講じていました。徳川家康が岐阜に到着した時、地元の寺が大きな柿を献上したという記録があります。柿を献上した人々の狙いは禁制を出してもらうことです。兵士が家屋や畑に放火したり、地元民に暴力をふるって迷惑をかけたりすることを禁じてもらうのです。人々は、柿だけでなく莫大な献金をして禁制をもらい安全を確保していました。
しかし、関ヶ原の人たちにはそんなお金はありませんでした。村に大勢の兵士が来れば、何をされるか分かりません。大阪夏の陣の記録では、兵士が女子供をとっていったとあります。関ヶ原が戦場になれば、女子供が攫われる危険がありました。
こんな時、戦国時代の農村ではしばしば妻や子供を兵士の目が届かない山の中へ隠れさせました。これも、戦に巻き込まれないための村人の知恵です。また、関ヶ原の戦いは稲の刈り入れ前という大事な時期でした。実はこれまで、秋の収穫時期に合戦を行うことは戦国時代の常識ではありえませんでした。
戦国時代初期、農民は戦になると兵士として参加。そのため大事な収穫期には合戦を行わないのが一般的でした。ところが、戦国時代半ばになると農民は農業に、兵士は合戦に専念させる兵農分離が進みました。そのため武将たちは例え収穫期でも兵士を動員できるようになり、農民に気をつかう必要がなくなったのです。
関ヶ原の戦場を描いた絵には、稲を刈る兵士の姿が描かれています。敵に食糧が渡らないよう根こそぎ刈り取り、いざとなれば火をつけてしまうこともあったと言います。関ヶ原の村人たちは、急遽青田刈りをして、わずかでも米を確保しようとしました。
逃げろ隠れろ 合戦だあ!
石田三成は当初、関ヶ原ではなく大垣城を拠点に徳川家康と戦う考えでした。大垣城は、当時まだ珍しかった天守を持ち、周りに堀をめぐらせた難攻不落の城と言われていました。天守からは、徳川家康が陣をしいた辺りがよく見え、この城を中心に戦えば非常に有利だったでしょう。
合戦前日の9月14日、徳川家康は何とか石田三成を大垣城から引き離そうと、このまま関ヶ原を通って西軍の本拠地である大阪へ向かうと言い出しました。家康はこの案をあえて軍議で公言し、西軍にも漏れるようにしたと言います。
家康の発言はたちどころに石田三成の耳に届きました。このまま素通りさせてなるものかと、東軍の行く手をふさぐため急遽陣を移すことを決断。突如として何万もの兵が夜中に関ヶ原へ移動を開始。関ヶ原の村人も、この石田三成の決定に巻き込まれていきました。
大垣城を出た石田三成は徳川家康を迎え討つため、中仙道や北国街道などを遮る形で関ヶ原に陣を敷くことにしました。西軍は、朝になるまでに陣を完成させなければならなかったため、村人たちは徹夜で土木作業に従事させられました。そして、東軍もまた関ヶ原へと軍を進め陣をかまえました。
9月15日の早朝、関ヶ原には濃い霧が立ち込めてました。いよいよ戦が始まると、村人たちは家から逃げ出しました。午前8時、東軍の鉄砲をきっかけに戦いが始まりました。西軍だったはずの関ヶ原の領主・竹中重門は、東軍に寝返っていました。西軍のために一生懸命陣地作りに協力した村人たちですが、領主は東軍に寝返っていたのです。
関ヶ原にいる何万という東軍の兵士が、石田三成の陣めがけ田畑を進んでいきました。殺到する東軍に対し、石田三成はかねてから用意していた大砲を使って攻撃。戦闘は一進一退を繰り返しました。午前10時過ぎ、戦局が動かないことに苛立った徳川家康は、自ら指揮をとろうと陣を前へ進めました。
そして正午過ぎ、松尾山にいた西軍の小早川秀秋の軍1万5000が山をおりてきました。しかし、攻撃したのは同じ西軍の大谷隊。かねて家康と内通していた小早川秀秋が西軍を裏切ったのです。大谷隊は壊滅し、そこから側面をつかれた西軍は総崩れとなりました。
最後まで奮戦した石田三成の陣もついに敗退。午後2時ごろ関ヶ原の合戦は終わりを迎えようとしていました。しかし、村人たちの本当の戦いはここから始まるのです。
関ヶ原 もう一つの戦い
戦闘が終わって数時間後、避難していた山から下りてきた村人たちが見たのは死体が累々と横たわる光景でした。関ヶ原の合戦の犠牲者は1万2000人と言われています。
合戦に勝利した徳川家康の陣には、諸将が続々と集まり勝どきをあげようと進言していました。しかし、家康は油断することを戒めて「勝ってかぶとの緒を締めよ」と言ったと言われています。ところが、地元には家康がまったく違う行動をとったと伝えられています。
合戦の翌日、家康は庄屋の庭先で休息をとり、そこで身内の家臣たちとこっそり勝どきをあげたそうです。この時、家康は庭石を天下にみたてててペタペタと踏んで何とも上機嫌だったとか。
そして、家康は荒れ果てた関ヶ原の復旧を領主・竹中重門に任せました。戦場に転がる遺体を集めて供養塔を作り丁重に弔うよう命じたのです。その費用と地元への迷惑料もかねて、米千石を竹中重門に渡し、その日のうちに家康は関ヶ原を離れ近江へと向かいました。
この頃、関ヶ原の村々は深刻な事態に直面していました。山の中に逃げた村人の多くが戦いが終わっても村に戻って来なかったのです。戦で稲が全滅した今、すぐに麦をまかなければ来年食べるものがありません。村の存亡がかかった一大事です。
そして9月23日、関ヶ原の村人は70km離れた大津城まで家康を追いかけてきて、禁制を要求しました。家康は、村人の頼みを聞き禁制を出しました。関ヶ原に残っていた兵に対し、村人への乱暴・狼藉、家屋や畑への放火、木や竹を勝手に切ることなどをあらためて家康の名で禁止したのです。
家康から直々に禁制が出されたことで村はようやく落ち着きを取り戻し、逃げていた村人も戻り村を立て直すことができたのです。
「歴史秘話ヒストリア」
オラたちの関ヶ原
~天下分け目の合戦VS農民~
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