天下人・徳川家康と子どもたち|歴史秘話ヒストリア

NHK総合テレビの「歴史秘話ヒストリア」でオヤジって大変だ~天下人・家康と子どもたち~が放送されました。江戸幕府の初代将軍・徳川家康は生涯で11男5女の16人の子供に恵まれました。しかし、時は戦国の世。家康の子供たちには幾多の苦難が襲い掛かりました。

 

長男・松平信康の場合

家康の長男・信康が生まれたのは1559年。この時、家康は18歳。しかしその人生はお世辞にも順風満帆と言えるものではありませんでした。家康は東海地方の大名・今川家に支配される弱小大名。家康の家臣たちは今川家に年貢を納めるため自ら鍬を持って田畑を耕す苦しい生活を送っていました。さらに戦になると先陣など危険な役割を押し付けられました。そんな苦難の時代に生まれた長男。家康は幼名を竹千代と名づけました。竹千代は代々跡取りにつけられ家康自身も名乗った由緒ある名前でした。竹千代は家康にとって希望の光となるかに見えました。しかし今川家はその竹千代さえも人質として扱ったのです。そんな家康に転機が訪れたのは1560年の桶狭間の戦いです。今川義元が率いる3万もの大軍を織田信長が打ち破ったのです。今川家は大混乱に陥り家康はその隙をつき、今川家の城を攻撃。家臣を捕らえました。そして竹千代との人質交換を要求。家臣の身を案じた今川家はしぶしぶ交換に応じました。こうして家康は我が子を自らの手に奪い返したのです。苦労して取り戻した竹千代を家康は溺愛。竹千代が5歳になると織田信長の娘・徳姫との婚約を取り付け、12歳になると岡崎城をプレゼント。やがて元服した竹千代は信康と名乗るように。家康の甘い姿勢は信康をわがままに成長させました。ある時、踊りを見物していた信康は「踊りが下手だ」と言って踊り手を射殺してしまいました。また鷹狩りに出かけた帰り道、僧侶に出会うと僧侶を縄で縛り馬で引きずり殺したのです。あまりの非道ぶりに家臣の中からも信康の資質を疑う声が出始めました。信康のこうした乱暴な性格を嫌ったのか妻・徳姫との夫婦仲が悪化。隣接する武田家が勢力を拡大し徳川家が生き残るには、どうしても織田家との同盟に頼る必要がありました。そのため家康は自ら岡崎城を訪ね2人の仲を取り持とうとしました。しかし、信康と徳姫との仲は改善せず、徳姫は信長に夫の行状を訴える手紙を送りました。そこには「信康の母が武田家に通じ、謀反を企んでいる」と書かれていました。信長は激怒し、家康に「信康を切腹させよ」と申し渡しました。家康は苦悩の末、信康に自害を促しました。そして1579年9月15日、信康は二俣城で切腹しました。遺体は二俣城近くの清瀧寺に葬られましたが、首は信康切腹の証拠として信長のもとに送られました。

 

次男・結城秀康の場合

信康の死後、徳川家の跡継ぎ候補となったのが次男の秀康です。秀康が生まれたのは浜松城から10kmほど離れた中村家住宅。家康の家臣の屋敷でした。1574年、秀康はこの家で生まれました。実は秀康の母は城につとめていた侍女。家康は正室の怒りを恐れて城外で子を産ませたのです。幼名は於義丸。ギギという魚に顔つきが似ていたことから名づけられたと言われています。さらに双子だったとも。当時、双子は縁起が悪いとされ家康は於義丸に会おうともしませんでした。於義丸は3歳になるまで父の顔を知らずに育ちました。そんな於義丸を不憫に思ったのが長男の信康でした。2人を対面させようとした信康は家康が自分を訪ねてきた時に於義丸も呼び寄せました。こうして於義丸はようやく父に抱いてもらうことが出来たのです。その3年後、兄の信康が非業の死を遂げ、次男であった於義丸は一転、徳川家の跡継ぎ候補となりました。於義丸は浜松城で父と共に暮らす幸せな時間を過ごしました。ところが5年経ったある日、於義丸を秀吉の元に養子に出すことにしたのです。この頃、家康は天下人に名乗りをあげた羽柴秀吉と対立。その秀吉が和睦の条件として養子を差し出すように求めてきたのです。実態は体のいい人質でした。ようやく父のもとで暮らせるようになったというのに於義丸は父のため養子に行く運命を受け入れました。於義丸は11歳でした。秀吉の養子となった於義丸は元服し羽柴秀康と名乗るように。しかし、養子とは名ばかりで実際は人質。羽柴家の家臣たちは秀康を軽んじ、秀吉の子として扱おうとはしませんでした。自分が侮られれば父・家康の面子を潰すことになると秀康は家臣たちに「わしは家康の子であり秀吉様の養子じゃ。無礼な振る舞いがあれば即座に討ち果たす」と言い放ちました。それを聞いた秀吉は家臣たちに「秀康め、なかなかの器よ。あやつめは我が家を支える武将となろう。みなのもの、今後は秀康をわしの実の子同然に大切にせよ」と命じました。それからというもの秀吉は秀康を可愛がり、九州征伐や小田原攻めといった戦いでも秀康を側に置き天下統一の戦いを経験させました。さらに秀吉が京都に築いた聚楽第に天皇を迎えた時も、秀康を自分の行列に加えました。天下に我が子・秀康の存在をアピールするためでした。秀康は秀吉のもとで自らの居場所を見つけたのです。

 

しかし、秀康を再び運命のいたずらが襲いました。秀吉に実子・鶴松が生まれたのです。すると秀吉は秀康を呼び「そなたを養子に出すことにした」と告げました。秀康が行くことになったのは関東の結城家。古くから続く家柄でしたが都から遠く離れた当時としては辺境の地でした。そんな秀康を励ましてくれたのは実の父・家康でした。結城家に向かう秀康に「どんなささいなことでも結城家の家臣たちとよく相談せよ。君臣一体となることこそ何より大事だ」と声を掛けました。それは家康なりの詫びと父としての励ましだったのかもしれません。秀康はこの父の言葉を胸に結城家に入り家督を継ぎました。秀康が結城家の当主となって9年後、関ヶ原の戦いが起こりました。父・家康は天下の覇権をかけて石田三成と激突。この時、秀康は関ヶ原から遠く離れた関東で戦っていました。相手は東北地方の大名・上杉家。関ヶ原で家康が戦っている間、背後をつかれぬよう牽制していたのです。秀康の押さえも功を奏し、家康は関ヶ原で大勝利をおさめました。家康はこの働きを高く評価。秀康は越前国(今の福井県)に68万石の領地を与えられました。これは関ヶ原に参加したどの大名よりも多い恩賞でした。流転の人生を歩んだ結城秀康は行く先々で最善の力を尽くし最後の最後に自分の居場所を切り開いたのです。

 

三男・徳川秀忠の場合

1579年4月7日、秀忠は家康の三男として生まれました。徳川家の嫡男という重責を背負うこともなく気楽な一生を送るはずでした。しかし、この年に嫡男の信康が切腹。さらにその後、次男の秀康も秀吉の養子に。秀忠は思いがけず徳川家の跡取りとして育てられることになったのです。しかし幼い秀忠は周囲の期待などどこ吹く風。大らかな少年だったと言われています。ある時、部屋で読書をしていると部屋に暴れ牛が乱入。いきなりの珍客に周囲はびっくり。必死になだめたり逃げ惑ったり大騒ぎ。しかし秀忠は静かに読書を続けていたと言います。余程の大物なのか鈍いのか、後につけられたあだ名は泥人形。泥で作られた人形のように動きのないヌボーっとした性格だったようです。家康は秀忠のため一念発起。年始の挨拶を受けるさい、秀忠を自分の隣に座らせるようにし、後継者として印象付けようとしました。ところが、生来のおっとりした性格が災いしてか秀忠は家康の期待を裏切り続けました。天下人だった豊臣秀吉のいる京都に挨拶に出向いた時のこと、道中秀吉から「長旅は大変だろうからゆっくり来るがよい」と知らせが届きました。これを真に受けた秀忠は道草し放題。それを知った家康は激怒。早く行けと怒られたにも関わらず秀忠は出発した城に戻ってきてしまいました。そんな頼りない秀忠に家康は跡取りとしての箔がつくよう最高の舞台を用意しました。関ヶ原の戦いです。秀忠に徳川家の精鋭3万8000の大軍を任せ、中仙道を進軍するように命じました。秀忠が率いる兵の数は関ヶ原に参加する大名の中でも群を抜いていました。家康はここまでお膳立てをして手柄を立てさせ、秀忠こそ徳川の跡継ぎと天下に示そうとしたのです。しかし関ヶ原に向かう途中、秀忠は敵方である真田家の城を攻撃。わずか2000の敵軍に翻弄され惨敗。4日間も足止めをくらってしまったのです。ようやく城攻めを諦め関ヶ原へ進もうとすると大雨による川の増水や道のぬかるみで時間がかかってしまいました。こうして秀忠は天下分け目の戦いに遅参するという大失態を犯してしまったのです。この後、秀忠が訪ねても家康は会おうともしませんでした。関ヶ原の戦いによって秀忠は家康の信頼を失ってしまったのです。やがて家康は江戸幕府の初代将軍に就任。そして2年後、秀忠に将軍職を譲りました。しかし、それは秀忠が家康の信頼を取り戻したからではありません。将軍の座を退いた家康は江戸を離れ駿府(今の静岡市)に移りました。おもだった幕府の政策は全て駿府の家康が決め、秀忠はただそれに従うだけ。幕府の基盤を固めるため家康は自ら采配をふるい続けるしかありませんでした。秀忠が名ばかりの将軍となって10年。ようやく天下人として家康に認められる最後のチャンスが訪れました。大阪夏の陣です。幕府は15万を超える兵を動員。秀吉の息子・豊臣秀頼が籠もる大阪城を攻めました。そんな時、家康のもとに秀忠の娘で豊臣秀頼に嫁いだ千姫がやってきて、秀頼の命を助けてくれるように頼みました。秀頼を生かしては天下に騒乱の種を残しますが孫娘の願い。家康はこの難しい判断を秀忠に任せました。秀忠は将軍として実の娘の願いを退けました。間もなく大阪城への総攻撃が始まり、豊臣秀頼は自刃。豊臣家は滅び、天下は徳川家のもと統一されることになりました。秀忠の決断を聞いた家康は大きくうなずき「これからは何事も秀忠殿が決められよ。駿府にいちいち窺いを立てるは無用。江戸で決まったことを知らせてくれればそれで良い」と述べたと言います。秀忠はついに天下人として家康に認められたのです。大阪の陣終結後、家康は引退。秀忠はその後を引き継ぎ250年続く太平の世を築きました。泥人形と呼ばれた秀忠は大らかさと厳しさを合わせ持つ優れた将軍へと成長したのです。

 

大阪夏の陣の翌年、家康は駿府で病に倒れました。いまわの際、家康は息子たちを枕元に呼び、天下の行く末を託しました。そんな中、家康は六男・忠輝だけは呼びませんでした。大阪の陣の後、忠輝が謀反を起こすのではないかという噂が流れていたからです。それは当時、日本にいた外国人の耳に入るほど公然と囁かれていました。戦国の世がおさまって日も浅く、家康にとってこの噂は無視できないものでした。家康は忠輝を勘当し、いまわの際にも呼ばないという厳しい処分を下しました。流罪となった忠輝は長野県諏訪市で晩年を過ごしました。忠輝が眠る貞松院には、忠輝が生涯大切にしたという品が伝わっています。それは乃可勢という名の笛です。これは織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と時の天下人に受け継がれてきた由緒ある品です。家康が自分の形見として密かに忠輝に送ったものだと伝えられています。乱世を鎮めるため時には我が子さえも犠牲にせざるおえなかった徳川家康。しかし、その裏には涙をこらえる父の姿があったのかもしれません。


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