バラのささやき~創られた美の物語~

NHK・Eテレで「バラのささやき~創られた美の物語~」が放送されました。バラは現在、約3万品種が存在すると言われています。しかし、バラの野生種は元々世界に100~150しかありませんでした。時代と共に人の手が加えられ自然にはない様々なバラが生み出されてきました。それもほとんどがこの200年の間にです。バラはもともとアジアに沢山咲いていた花で、中でも8種のバラがヨーロッパで注目され交配に使われました。彼らの子孫が今のバラの中核を築いています。そして8種のうちの3種は日本のバラです。

 

はじまりはフランス

200年前、皇后ジョゼフィーヌがバラの歴史を変えるきっかけとなりました。ジョゼフィーヌは洗練された美意識の持ち主でした。優れた工芸品や美術品を集め、ファッションではエンパイアスタイルという新しいモードの寵児となりました。カリブの島で生まれ育ったジョゼフィーヌは自然を愛し植物への造詣も深い女性でした。数ある花の中でもとりわけ彼女の心を虜にしたのはバラでした。世界中のバラを集めるため、例え夫ナポレオンが戦っている敵国からでも欲しいバラがあれば取り寄せました。集めたバラは贅を尽くして建てた温室で育て、学者や園芸家を集めて研究させました。ジョゼフィーヌはやがてバラのパトロンとまで称されました。

 

ヨーロッパではギリシャ神話の時代からバラは愛と美の象徴として愛でられてきました。ローマ時代には結婚式から葬式まで、人生のいたるところでバラが使われました。より美しく、より珍しいバラが欲しい。しかし、自然に生まれるバラを待つだけでは数に限りがありました。ジョゼフィーヌが生きた19世紀初頭、バラの歴史が大きく動き出しました。自然にまかせることなく人工的に新しいバラを作り出す人工交配が急速に広まったのです。真紅の色、大輪の花、紅茶のような香り、それまでヨーロッパになかった要素が人の手で加えられていきました。中でもアジアからもたらされた「四季咲き」の性質が注目を集めました。春にしか咲かなかったバラが秋にも花をつける、当時の人には驚きでした。バラは自然界にはありえないスピードで変化していきました。

 

1867年、革命的なバラが登場しました。その名はラ・フランス。ラ・フランスは両親ともに人工交配でできた初めてのバラです。今、人がバラと聞いて思い描く姿はバイブリッド・ティーという系統です。尖ったような花びら、高く渦巻いた形、大輪の花、四季咲き、人間が求めた性質をすべて備えた理想のバラ。このハイブリッドティーの原点がラ・フランスです。ラ・フランスより後に生まれたバラを「モダンローズ」ラ・フランスより前のバラを「オールドローズ」と呼びます。

 

バラの首都

19世紀末、リヨンはバラの首都と呼ばれていました。この街で人工交配の技術が飛躍的に進化し今につながる育種業者が次々と誕生しました。新種のバラが競うように開発され一時は世界の6割ものバラを生産していました。この時代、パリ万国博覧会をきっかけにジャポニズムのブームが起こっていました。浮世絵や着物、工芸など日本のあらゆる文化が熱狂的に受け入れられていきました。植物もまた例外ではありませんでした。ノイバラの種もリヨンにもたらされ、あの革命的なバラを作り出した育種の名家がノイバラの隠された魅力を引き出しました。ラ・フランスの8年後、ギヨー家はもう一つ全く異なる特徴を持つ新しいバラを発表しました。パケレットです。パケレットはノイバラから生まれた初めてのモダンローズです。

19世紀末、フランスで新しいバラの楽しみ方が生まれました。それまでの低い木立を並べた畑のような庭とは全く違う立体的で装飾的なローズガーデンです。大きなアーチができたのはノイバラのツルのような枝のおかげです。ノイバラから生み出された数々のモダンローズは、これまでにない新しいバラの楽しみ方を与えてくれたのです。

 

19世紀、明治の日本は文明開化を迎えました。欧米からバラが輸入され西洋を象徴する花として人気をはくしました。洋館にはこぞってバラ園が造られ、バラを専門に扱う業者もあらわれました。憧れの舶来品だったバラは文学やイラストにも取り上げられました。国内でもバラの生産が始まり、日本人にとって身近な花になっていきました。

 

バラに人々はいつしか特別な意味を持たせるようになりました。生まれてから世を去るまで人生の喜怒哀楽を人はバラの色や数にたくしました。1本のバラは「一目惚れ」、13本なら「永遠の友情」、108本は「結婚してください」です。人の手で生み出され人の想いをのせて愛されてきた人のための花。しかし、1本の美しいバラが生み出される影では無数の小さな命が失われています。

 

京成バラ園芸の武内俊介さんは20年にわたって新しいバラを開発してきました。育種は何度も条件を変えながら、1本に6~8年を費やします。毎年、20万~30万の新種が生まれますが、その試作品の中から名前がついて世に出るものは1つか2つです。

 

第二次世界大戦前夜のフランス、戦火がしのびよるなか1本のバラが生まれました。3ー35ー40、35年40番目のバラを意味する試作品です。この花は他のバラにはない強さと美しさを持った大輪のバラでした。生みの親はメイアン家。ナチス・ドイツの侵攻が危ぶまれた頃、メイアン家の人々は3-35-40を海外のバラ業者にたくしました。送り先には同盟国のアメリカだけでなく敵国ドイツやイタリアの業者も含まれていました。1945年、サンフランシスコには戦後の新しい時代について話し合うために世界50か国の人々が集まっていました。参加した各国の代表たちにはメッセージカードをそえた1本のバラが贈られました。それが3-35-40です。試作品は戦火の中を生き残っていたのです。3-35-40は「Peace(ピース)」と名付けられ平和の象徴となりました。

 

終戦直後の日本、バラはついえたように見えました。戦時中「贅沢だ」「敵国の花だ」と燃やされバラ業者も次々と廃業していたのです。鈴木省三(すずきせいぞう)は日本最初のプロの育種家。後に世界から「ミスターローズ」と呼ばれる人物です。終戦から3年後、鈴木省三はバラの展覧会を開催。戦時中、鈴木省三は政府の目をかいくぐり300ものバラを守っていたのです。焼け野原に咲いた華麗なバラは復興を願う人々を勇気づけました。鈴木省三は色素や香りなどを緻密に調べ欧米に負けない新たなバラ作りを目指しました。鈴木省三が生涯で生み出したバラは129品種にのぼりました。バラ作りに邁進するなか鈴木省三には一つの信念がありました。新しく開発したバラに日本語の名前をつけたのです。鈴木省三には、もう一つ大切にしていたことがありました。原種のバラです。鈴木省三は多くの人が見過ごしていた原種のバラに目を向けていたのです。

1963年、鈴木省三は初めて海外のコンクールに出品しました。当時、世界では多くの花びらを持つ大輪のピースが最高傑作とされていました。しかし、鈴木省三が出品したのは素朴な一重のバラ「天の川」でした。あえて日本的なバラで勝負を挑んだのです。天の川はドイツハンブルグ国際コンクールで銅賞を受賞。日本人の作ったバラが初めて世界に認められた瞬間でした。それからも鈴木省三は精力的に海外のコンクールに出品していきました。世界各国のコンクールで次々と受賞を重ね、ついには世界最高峰の大会で金賞を受賞しました。

「1万を超えるバラの品種の中で今何を求めているかと聞かれれば迷わずノイバラと答えたい。ノイバラは春2月から一番早く芽が萌え出でて春寒の低温に耐え、やがて産毛で覆われたういばが伸びてきてバラの春となる。ぐんぐん伸びる明るいグリーンの茎に小粒のつぼみが頭をもたげてきても花の色づくのはゆっくりで、ついには透き通った白になる。結実して秋の空をうつその実は緑に青に、やがて黄ばんでオレンジ色になり宝石の紅色になり葉を枯らして落としても実はつぶらつぶらに光って冬を越そうとする。このノイバラこそバラの中のバラであると思う」(鈴木省三「園芸新知識」より)




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