桜田門外の変 井伊直弼の知恵|知恵泉

NHK・Eテレの「先人たちの底力 知恵泉」で桜田門外の変 ジタバタすべきだったのか?が放送されました。安政7年3月3日、降りしきる雪を鮮血に染める大事件が起こりました。桜田門外の変です。江戸城の目の前で幕府の要人が暗殺されるという前代未聞の事態は、幕府の権威の失墜を社会に大きく印象付けました。襲撃されたのは幕府の大老・井伊直弼。黒船来航後の日本で井伊直弼はいち早く外国との貿易で国を豊かにする道を探っていました。そして、様々な反対意見を押し切りアメリカと日米修好通商条約を調印。貿易による富国強兵に道筋をつけていきました。しかし、その一方で幕府の方針に反対する者は徹底的に弾圧。世に言う安政の大獄を断行しました。情け容赦もない強引な政権運営から井伊直弼は「赤鬼」と呼ばれ恐れられました。

 

国家分裂の危機

日米修好通商条約が調印されて5日後の安政5年(1858)6月24日のこと。水戸藩前藩主・徳川斉昭(とくがわなりあき)が江戸城に押しかけてきました。斉昭は攘夷派と呼ばれ外国人を日本から追い払うべきだと考える人々のリーダー的な存在でした。日米修好通商条約に断固反対の立場をとっていた斉昭は独断で調印に踏み切った井伊直弼(いいなおすけ)を問い詰めようと突然城にやってきたのです。しかし、井伊直弼は斉昭の声に耳を貸さないばかりか、無断での登城は禁止であるとの原則をたてに斉昭に謹慎処分を申し渡してしまいました。

そしてもう一人、井伊直弼に対して激怒している人がいました。孝明天皇です。天皇は日米修好通商条約を調印する前に、まずは全国の大名の意見をまとめるよう幕府に指示していました。しかし、井伊直弼たちは意見統一は無理と判断し独断での調印に踏み切っていたのです。これは天皇の権威への冒涜であると孝明天皇は怒りを隠しませんでした。幕府への不信感を募らせた孝明天皇が声をかけたのは徳川斉昭でした。斉昭のいる水戸藩に対して天皇の意思を示す書状を送りました。戊午の密勅と呼ばれるこの天皇の書状は、その後国内全土を巻き込む騒乱の引き金となる大きな問題をはらんでいました。それは戊午の密勅が水戸藩に直接下されたことにありました。

江戸時代、幕府は各地の藩の頂点に位置し国家を運営していました。その支配に正当性を与えていたのが幕府を武家のリーダーとして認める天皇の存在です。しかし、その天皇が幕府の一家臣であるはずの水戸藩に幕府を飛び越え直接書状を送ったのです。これは幕府ではなく水戸藩こそが武家のリーダーだと天皇が認めたとも解釈できます。戊午の密勅は幕府を頂点とした幕藩体制のヒエラルキーを根本から揺るがすものでした。

もともと水戸藩は徳川斉昭を中心に幕府の開国政策には強い反対の立場をとってきました。それだけに藩主たちは天皇から大義名分を得たとして勢いづいていきました。数千人とも言われる武士や農民が武装決起し反幕府の気勢を上げました。勅書の写しは尾張、越前、薩摩など、全国14の藩に送られていました。戊午の密勅をきっかけに反幕府の機運が全国で高まり国家分裂の危機が迫っていたのです。

 

安政の大獄 井伊直弼の苦悩

安政5年、幕府による弾圧事件が起こりました。安政の大獄です。幕府に反乱を企て、国家転覆を図ったと水戸藩主を中心に100人以上が処罰されました。死罪に処せられたのは8人。その中には吉田松陰や橋本左内など反幕府運動をリードした思想家も含まれていました。

一連の騒動のそもそもの原因は、天皇が水戸藩に直接送った戊午の密勅です。井伊直弼が密勅のことを知ったのは水戸藩に届いてから2日後のことでした。井伊直弼は、諸藩が勝手に天下を論じるのを認めれば国家の争乱を招くことになると動揺しました。井伊直弼がそう考えた背景にあったのは、隣国の清で起こったアヘン戦争です。

1840年、イギリス軍が侵攻を開始した時、清は政権内部で対外方針を巡る争いを続けていました。その結果、イギリスと比べても圧倒的な兵の数を有しながら清は戦力を整えることができずイギリスに敗れました。このまま国内での争いに明け暮れれば清の二の舞になってしまうと井伊直弼は考えたのです。

 

知恵その一 とにかく内輪もめを回避しろ!

元はと言えば事の原因は孝明天皇を怒らせてしまったことにありました。事態の解決に最も効果的な方法は、条約調印について天皇に納得してもらい、それを反対派に示すことです。井伊直弼は京都に使者を派遣し、朝廷への工作を始めました。条約調印は世界情勢を考えるとやむおえない判断だったと天皇に理解を求めようとしました。しかし、使者は説得に行き詰まりました。天皇が幕府に不信感を感じていた原因は条約の無断調印に加え、京都に近い兵庫港を開くことが条約に盛り込まれていたことにあったのです。しかし、今更条約内容を変更することはできません。井伊直弼は天皇を説得させるため秘策を使者に授けました。それは「将来、国力をつけた後は再び鎖国に戻すことを約束する」というもの。そうでも言わなければ天皇は納得しないと考えたのです。こうした努力が功を奏しました。安政5年12月、孝明天皇の意向が幕府に示されました。天皇は条約調停のやむおえない事情を認めたのです。

しかし、井伊直弼はせっかく手に入れた天皇の勅諚を公表することができませんでした。そこには「幕府がいずれ野蛮な異国人を遠ざけ鎖国の良法に戻す方針であることをお聞きになり天子様は安心なされた」とも書かれていたからです。再び鎖国に戻すという天皇の言葉を公表すれば、諸外国から批判を受けることは明白でした。条約違反を理由に侵攻を受ける危険性も考えられました。

井伊直弼は戊午の密勅を返還するよう水戸藩に求めました。水戸藩では書状を幕府に渡そうという穏健派と断固死守しようとする過激派に分かれ激しい議論となりました。過激派の一部は街道沿いに検問をはり書状が江戸に返されることがないよう目を光らせていました。書状の返還を迫れば迫る程、かえって幕府の姿勢に反発する声が高まり、水戸藩の過激派たちは一触触発の状態になっていきました。そんな時、徳川斉昭が助け船を出しました。

開国を巡る方針の違いにより井伊直弼たちと激しく争っていた斉昭ですが、今内戦を起こしてはならないとの思いは直弼と同じでした。斉昭はいち早い書状の返還と過激派の解散を命じました。ところが、増長した過激派たちは斉昭の制止にも従いませんでした。天皇の後ろ盾を得たことに熱狂した彼らは、すでに斉昭でもコントロールができなくなっていたのです。反対派の一部は、幕府要人の暗殺を企てるなど行動は過激になる一方でした。

こうして井伊直弼が踏み切ったのが安政の大獄だったのです。その苛烈な弾圧により井伊直弼は「赤鬼」と呼ばれるほど人々から恐れられるようになりました。しかし、井伊直弼にとっては国家の一大危機を乗り越えるための苦渋の選択だったのです。

 

知恵その二 終わるときはジタバタするな!

桜田門外の変の1年前、井伊直弼が銃撃される事件が起こりました。籠に乗った井伊直弼に対し、犯人はたった一人で襲い掛かるも狙撃は失敗。江戸城の堀に飛び込み逃亡しました。反幕府勢力を徹底的に抑えようと井伊直弼が行った安政の大獄は、結果的に幕府へのさらなる反発を生んでいました。特に、最も多くの処罰者を出した水戸藩では井伊直弼への恨みが高まっていました。この暗殺未遂事件の犯人も脱藩した水戸藩士だったとの記録が残されています。過激派の一部は大老・井伊直弼暗殺のため決起し江戸に向かいました。

一方、井伊直弼は身に迫る危機を感じながらも着実に新しい時代へ布石をうっていました。安政7年1月、通商条約の批准書を交換するため、井伊直弼は役人たちをアメリカに向けて出発させました。彼らは同時に西洋の進んだ技術や文化を持ち帰るという重要な役目を担っていました。

安政7年2月28日、吉井藩主・松平信和(まつだいらのぶやす)が藩邸を訪ねてきました。水戸藩の事情に通じていた信和は注意を促し、警備の人数を増やすようすすめました。しかし、井伊直弼はこれを断りました。大老である自分がルールを逸脱して従士の数を増やしては示しがつかないというのです。自分が成すべき事をただいつも通り続けるのみ、井伊直弼の決意は揺るぎないものでした。

安政7年3月1日、江戸に潜む水戸藩浪士のグループは日本橋の料亭で会合をもち襲撃の日時を決めました。決行は3月3日、場所は江戸城の桜田門外。この日は早朝から季節外れの大雪が降っていました。江戸城への出立の前、井伊直弼は一通の手紙に目を通しました。それは未明のうちに屋敷に投げ込まれていたものでした。それは「水戸藩士が襲撃を計画している、十分注意するように」という内容でした。しかし、井伊直弼は予定通り出発しました。危険を知らせた手紙の内容を誰にも言わないままでした。井伊直弼は籠から逃げることも抵抗することもありませんでした。

桜田門外の変の後、幕府の弱体化は決定的となりました。天皇を中心とした新しい国家を作ろうという動きが大きな時代のうねりとなって押し寄せてきたのです。薩摩・長州などからなる新政府軍が幕府軍を打ち破り、15代将軍・徳川慶喜が政権を朝廷に返上したのは事件からわずか7年後のことでした。

 

井伊直弼 未来への布石

時代の歯車が大きく動く中、井伊直弼がうった布石は確実に実を結んでいました。井伊直弼の死の半年後、幕府が派遣した遣米使節団が帰国。小栗忠順や福沢諭吉ら、アメリカで最先端の知識を得た彼らはその後の日本の近代化に大きな役割を果たすことになりました。そして、井伊直弼が調印した日米修好通商条約により開かれた横浜港は、世界への玄関口として貿易による国の繁栄をもたらしました。

明治42年、横浜開港50年を記念して市内の高台に井伊直弼の銅像が建立されました。幕末、国のリーダーとして危機と正面から向き合った井伊直弼。彼が未来に向けて蒔いた種は新しい時代に大輪の花を咲かせたのです。




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