福澤諭吉 青春の光と影
福澤諭吉が生まれたのは江戸時代終盤。父親は大分・中津藩の下級武士でした。5人兄弟の末っ子だった福澤諭吉は、土蔵の2階を改装し好きなだけ勉強できる部屋を手に入れました。
少年時代の福澤諭吉は、学業優秀で腕っぷしも強く自信満々。しかし、心の中では鬱屈を抱えていました。中津藩の人間関係は、福澤諭吉にとって悔しい限りだったからです。上級武士の子から「貴様はこうしろ」と言われても、下級武士の福沢諭吉は「あなたはこうなさってください」と言わねばなりませんでした。
万事に門閥がついて回り腹が立ってたまらぬ。
「福翁自伝」より
個人の実力より生まれの家柄が優先される江戸時代の身分制度に、福澤諭吉は辟易していたのです。
馬鹿馬鹿しい。こんな所に誰が居るものか。いかにしたってこれはもう出るより外に仕様がない。
「福翁自伝」より
さらば!しがらみ
そんな頃、黒船が来航。その衝撃は19歳の福沢諭吉に大きな転機をもたらしました。黒船の軍事力など西洋の進んだ技術を学ばねばという気運が高まる中、中津藩からも留学生を出すことが決定。福澤諭吉はその一人に選ばれたのです。
留学先はオランダ人が住む長崎。ようやく中津のしがらみから抜け出し、光永寺に身を寄せました。しかし、福澤諭吉の長崎留学は権力者の息子の世話をしながらという条件つきでした。身分制度のしがらみは長崎でもつきまとっていたのです。
逃げられぬ宿命
ある日、福澤諭吉のもとに中津のいとこから手紙が届きました。
おまえの母親が病気になった。急いで中津に戻ってこい。
いとこの手紙はもう一通ありました。
実はさっきの手紙はご家老・奥平様から「諭吉を呼び戻せ。あれがいては我が息子の邪魔になる」と命じられ仕方なく書いたものだ。母親のことは案ずるな。
つまり、福澤諭吉が世話をしている家老の息子は、父親と共に学問に優れた福沢諭吉を邪魔者とみなし、ウソをついて長崎から追い返そうとしたのです。これに福澤諭吉の怒りは爆発しました。
何だ卑怯千万な計略をめぐらし母の病気とまでウソをつくとは!もうやけだ。大議論をしてやろうか。
「福翁自伝」より
知恵その一
しがらみを抜けるついでにもっと先まで!
今あの家老とケンカをしたところで負けるに決まっている。あんな奴と喧嘩をするよりも自分の身の始末が大事。
冷静に思い直すと福澤諭吉は素直に長崎を出発。中津へ戻るかと思いきや、江戸へ。福澤諭吉は家老親子に騙されたフリをしてしがらみから脱出。このチャンスに一人で江戸に留学しようと決意したのです。
華麗なる大脱出
しかも、福澤諭吉は一人で旅をする計画もバッチリでした。宿泊のあては一緒に旅をした商人から何気なく聞いておいたなじみの船宿。ここで船宿に見せたのは商人からの紹介状。とはいえ、これは名前を勝手に借りて福澤諭吉自身が書いたもの。これで大坂行きの船に乗り、この間の食事代をつけにしました。
夢の新天地へ
まんまと大坂までたどり着いた福澤諭吉は、ここで「適塾」という塾を見つけ入門。適塾は蘭学医として有名だった緒方洪庵が作った塾。全国各地から留学生が集まり、各藩の門閥制度が入る余地のない実力主義の世界でした。
福澤諭吉はここでも成績優秀。わずか2年で塾長にのぼりつめました。こうして福沢諭吉は、しがらみから脱出するチャンスをきっかけにさらなる先、新たなる世界へと進んでいったのです。
適塾の塾長となり、一躍その名を上げた福澤諭吉。24歳になると、中津藩からの命令で江戸にオランダ語の塾を開きました。藩に実力を認めさせ順風満帆でした。
衝撃の大挫折
そんなある日、福澤諭吉が自分のオランダ語を試そうと横浜へ出かけた時、衝撃の事態に襲われました。必死に勉強したオランダ語は全く通じず、未知の言語(英語)が飛び交っていたのです。
こっちのいうこともわからなければ、あっちのいうことももちろんわからない。オランダ語の勉強などまことにつまらなぬことをしたわいと実に落胆してしまった。
「福翁自伝」より
横浜から帰った翌日から英語の猛勉強を始めました。この英語への素早い切り替えが、福澤諭吉の新たな運命を切り開きました。
西洋の秘密を探れ
英語とオランダ語が両方できることが買われ、海外派遣使節に同行してアメリカとヨーロッパに渡るチャンスを得たのです。
欧米の文明、それは日本との差を感じるものばかりでした。高度な技術や文化そのものより、それが国の隅々まで行き届き、あらゆる分野で発展している姿に福澤諭吉は驚きました。
中でも福澤諭吉が感銘を受けたのは、アメリカの大統領について。70年前の初代大統領ワシントンの子孫が今どうしているのか誰も知らないというのです。
日本では、江戸幕府初代将軍・徳川家康の子孫が260年後も最高権力者。本人の能力や資質は問われません。西洋は個人の能力が評価され、様々な分野で発揮されることで進んだ社会を築いている。一体どうすればこの差を埋めることができるのか。たどり着いた結論が福澤諭吉の手紙に書かれていました。
富国強兵のためには人物の育成が急務である。
福澤諭吉は西洋の教育方法に目をつけたのです。
学校教育に驚き
日本の場合、子供や若者が教わるのは読み書き計算の他は、儒学教育が中心です。目上の人や主君を尊ぶことを重視する内容は、封建的な社会を維持するのに適したものでした。
一方、福澤諭吉が目にした西洋の学校教育は幼い頃は小学校で読み書き計算といった基礎を学びます。そして、年齢が上がると歴史や地理、高等数学、天文など専門性の高い教育を大学で学び、一人一人が深い思考力を持てるよう育てていました。こうした人材が次々に社会に貢献することで、国全体が隅々まで向上していくのです。
海外派遣の実績が認められ幕府の役人になった福澤諭吉は、その立場をいかして日本を変えていこうとしました。
福沢諭吉vs.江戸の現実
ある日、外国の文献の翻訳を任されていた福澤諭吉がヨーロッパ経済の本の目録を提出した時、「competition」という英単語を「競争」と訳してあるのを見て上役が目を剥きました。江戸時代の美徳は「互いに相譲る」こと。争うという実力主義を示唆する一文字さえ許されないと言われてしまいました。
福澤諭吉は、欧米流の高等教育を日本に導入することは途方もないことだと悟りました。そして見出した道は…
知恵その二
目標がムチャだと分かったら自分1人で進め!
慶応4年1月、幕末の動乱が極まりました。旧幕府の本拠地・江戸に攻め込もうと新政府軍が進軍。庶民も役人も次々に江戸から逃げ出し教育どころではありませんでした。
ところが、福澤諭吉は直前の12月、現在の浜松町に1300㎡もの土地を全額自費で購入。大工も雇って学校建設を始めたのです。
戦争間近の江戸では人件費が安かったため大勢で一気に建設。後に「投機商売のようなもの」と語るほどの大博打でした。
江戸無血開城で徳川政権が消滅した慶応4年4月、福澤諭吉は「慶應義塾」と名付けた学校で新しい教育を始めました。カリキュラムは歴史や経済、数学や科学といった理系科目も取り入れました。こうした科目によって論理的に自分の頭で考えられる人材を育成することで、日本を新たな文明国へ導こうとしました。
学校を始めてから2か月後、彰義隊と新政府軍の戦いが勃発。間近で起きた戦争にみながハラハラする中、福澤諭吉は我関せず平然と講義を続けたと言います。
日本国中大混乱で書を読んでいるところはただ慶應義塾ばかりという有様。世の中に如何なる騒動があっても変乱があっても慶應義塾は一日も休業したことはない。この塾のあらん限り大日本は世界の文明国である。世間に頓着するな。
「福翁自伝」より
学問をすすめるわけ
天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言へり
明治5年に福澤諭吉が書いた「学問のすゝめ」は、この後にこう続きます。
されども今広くこの人間世界を見渡すにかしこき人あり、おろかなる人あり。されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり。
「学問のすゝめ」より
人は天の下に平等だ。しかし、賢いか否かの差は学問をしているか否かにあると訴えて大ベストセラーになりました。
さらに、福澤諭吉は国民一人一人をしっかり啓蒙するため、慶應義塾や書物だけでなくもっと早く伝わる新しい媒体にも注目しました。
新聞も独立せよ
明治15年、福澤諭吉は新しい新聞「時事新報」を創刊しました。当時、新聞の種類は娯楽中心の小新聞と政治論説中心の大新聞に分かれ、さらに大新聞は政府よりの新聞と反政府よりに分かれていました。
福沢諭吉の「時事新報」は論説中心の大新聞。しかし、政府よりでも反政府よりでもない独自の立場に立ちました。その編集方針は独立不羈。あらゆるしがらみにとらわれず、自分の考えのまま主張するというもの。中立という新たな道を選んだのです。
しかし、福澤諭吉の社説は政府からは反体制だと、民権派からは政府への迎合だと両方の陣営から批判されてしまいました。そんな福澤諭吉を世間はこう揶揄しました。
ほらを福澤(ふくざわ)
うそを諭吉(いうきち)
一向に信用できぬ
さらに、独立不羈という大事な方針が原因で経営面でも問題が起こりました。
原因は売薬の広告です。成分や効能が保障されず何にでも効くとうたう売薬業者は「時事新報」の大口スポンサーでした。ところが、時事新報の社説ではこう書いていました。
売薬は水や茶を飲むようなもので効用がない。名前は薬だが実は病には一切関係の無い売り物だ。
広告主の売薬業者たちは激怒。ほとんどの広告が撤退し、時事新報の経営は大打撃を受けてしまいました。
知恵その三
突破口はサービス精神
明治21年、時事新報は天気予報の掲載を開始。日本の新聞で初めての試みでした。さらに、暮らしに役立つ料理コーナーもスタート。歌舞伎役者の人気投票なども。こういった企画は娯楽中心の小新聞の独壇場でしたが、大新聞の時事新報でやってのけました。
海外から来たスカイダイビングのイベントが話題になれば、空から時事新報のチラシをまいてもらうなど宣伝もバッチリ。サービス精神旺盛な作戦は大当たり。創刊当初1500部程度だった時事新報は1万部を超え東京最大の新聞へ成長しました。
しかし、福澤諭吉は娯楽で人の目を惹きつけながらも大事な目的は忘れていませんでした。
信念のゆくえ
ところが明治20年、高まる新聞の人気とは裏腹に国民への啓蒙活動がうまくいっていないと感じ苛立ちを募らせました。
明治27年、日清戦争が勃発し日本は清に勝利。人々の戦争熱が高まる中、国民が一丸となって国家を支える「国家主義」が盛んになりました。
同じ頃、日本の産業が急激に発展し貧富の格差や厳しい労働環境が問題視され始めると、平等な社会を作るため人々は一致団結すべきという「社会主義」も現れはじめました。
新たな思想が広がる中、国民一人一人が自分で考え独立してこそ国の独立も成り立つという福澤諭吉の考えは置き去りになっていきました。
明治34年、福澤諭吉は脳溢血によりこの世を去りました。
晩年、福澤諭吉は孤独の中最後まで日本の全ての人が独立するという理想を捨てず世に訴え続けました。その信念は自伝を締めくくる言葉でも語られています。
人はどうしても無病なる限りはただ安閑としてはいられず、私も今の通りに健全なる間は身にかなうだけの力をつくすつもりです。
「福翁自伝」より
「先人たちの底力 知恵泉」
しがらみから独立しよう!
~福沢諭吉 新しい世界の切り開き方~
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