外様大名・細川親子の情報活用術|知恵泉

NHK・Eテレの「先人たちの底力 知恵泉」で組織での生き残り方教えます 外様大名・細川親子の情報活用術が放送されました。かつて日本一の巨大組織だった徳川幕府。江戸城には権力を持つ官僚がひしめく一方、遠く離れた地方を治めたのが外様大名です。仮に幕府を巨大なグループ企業の東京本社とすれば、外様大名は地方の子会社の社長のようなもの。その多くは元々徳川家と天下を争ったライバルでしたが、関ヶ原の戦い以降、徳川グループの傘下に入った人々です。いわば外様大名はライバル企業に吸収合併された弱い立場。本社・徳川幕府からは何かと睨まれ、少しでも機嫌を損ねればすぐに解任。そんな厳しい環境にあって組織の情報を巧みに活用することで見事生き残った大名親子がいました。九州細川家の初代藩主・細川忠興(ほそかわただおき)と2代目・細川忠利(ほそかわただとし)です。彼らが活用したのは親子でやりとりした膨大な手紙。残っているだけで3000通もあります。本拠地の九州や出張先の江戸で入手した幕府の内部情報を親子で共有し、生き残り戦略にいかしていました。

「徳川家康様が最も信頼していた側近が二代目・秀忠様から嫌われているらしいぞ」(忠興から忠利へ)
「最近出世した幕府の役人に我が家のライバル黒田長政と付き合いがあるかどうか確認しました」(忠利から忠興へ)

幕府の人間関係からライバル大名の動向、ゴシップ記事のような噂話まで、多岐にわたる情報を細川親子はどのような知恵を駆使して生き残りに活用したのでしょうか。

 

戦国から江戸へ 外様大名の生き方変化

群雄割拠の戦国乱世、数多の戦国大名が生き残りをかけ武力を競い合いました。そんな血なまぐさい時代も関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利することで幕を下ろしていきました。そしてむかえた江戸幕府の世、これからは徳川の体制をしっかり守る役人こそ重視される時代。これは外様大名たちにとっても生き方に大きな変化を求められることになりました。徳川幕府は元々は競争相手だった外様大名を隙あらば潰して、自分の息のかかった大名に交代させようと、そのチャンスを虎視眈々と狙っていました。そんな幕府の厳しい方針の中でも特に外様大名たちを震え上がらせた事件がありました。

元和5年(1619年)広島藩の藩主・福島正則が幕府によって領地を没収されたのです。きっかけは台風で広島城の石垣が壊れたので福島正則が修理したこと。これに対して幕府は「石垣修理の許可申請が出ていない、無断で城の守りをかためて謀反を起こすつもりであろう」と言いがかりをつけ広島藩から追い出してしまったのです。徳川政権が始まった頃、全国各地を多くの外様大名が支配していました。ところが、法律違反やお家騒動などで領地没収となった外様大名は30年の間に4割近くにものぼりました。

細川忠興も外様大名として九州・小倉藩の藩主をつとめていました。忠興にとってどうやって幕府に忠実に従って信頼を獲得し、難癖をつけられないようにするかが死活問題でした。当時、参勤交代のため小倉と江戸を交互に行き来していた忠興と息子の忠利は、幕府にどう対応していたのでしょうか?

その戦略の全てが2人が交わした手紙にありました。手紙は忠興から忠利へ1802通、忠利から忠興へ1084通、多い時には1日に3通も送っていたことが分かっています。

元和2年(1616年)徳川家康が死去。幕府は2代将軍・秀忠体制に移行しますが、そこには重大な問題がありました。実は秀忠はこの10年程前に最高権力者である将軍の座をすでに継いでいました。ところが、隠居したはずの家康は裏で権力を握って手放しませんでした。その家康が死んだことで家康派だった側近たちと秀忠派の側近たちの間で生き残りをかけた権力闘争が激しくなるのは明らかでした。今後、幕府重役の誰を頼れば良いのか、選択を間違えれば共倒れしかねない重大事態。細川親子の間では手紙が飛び交いました。

「金地院様は二代将軍・秀忠様からいよいよ遠ざけられることになろう。なんとも残念じゃ」(忠興から忠利へ)

金地院崇伝とは幕府の重要幹部で家康の元ブレーン。細川家にとってこれまで大事な相談相手でした。

「高虎と何事も相談しているとのこと。ますますそうしなさい」(忠興から忠利へ)

藤堂高虎は激動の戦国時代を生き抜いた名将で、外様大名ながら家康や秀忠の信頼を得ていた人物です。

「藤堂高虎と金地院崇伝は手紙のやり取りはしているが、本当はとても仲が悪いとのこと。次第に険悪になったようだ」(忠興から忠利へ)

生き残りのために、こんな細かい人間関係まで掴んでいた細川家。忠興の長い手紙に書かれた情報は20項目以上ありました。その中でも特に文字数を費やして書かれていた人物が外様大名の黒田長政です。内容は2人のライバル同士の幕府高官に近づこうとして、その八方美人ぶりに両方から愛想尽かされたという情報。そんな黒田長政を忠興は手紙の中で痛烈に嘲笑っています。

 

黒田長政は父譲りの勇猛果敢な大名でした。細川家と同じく関ヶ原の戦いで活躍。長政はその功績によって中津藩から福岡藩に移りました。そこに同じく関ヶ原で手柄を立てた細川家が入りました。細川家にとって黒田家は机を横に並べる競争相手でした。一方の黒田長政も生き残りをかけて将軍・徳川秀忠へのタイプを作ろうと奔走。その動向を細川親子は事細かにチェックしていたのです。

「長政は秀忠様の弟、水戸の徳川頼房様に自分の娘を嫁がせようと根回しをしているらしいぞ」(元和6年8月 忠興から忠利へ)

忠興は黒田長政が徳川一族と親戚になることで強力な関係を作ろうとしている情報をキャッチ。一方、忠利も黒田家のなりふりかまわぬ将軍家への接近策を耳にしました。

「秀忠様の新しい時代には城などいりませぬと長政は福岡城の天守閣と屋敷を自ら壊したというのです」

長政は秀忠への徹底的な服従の態度を示すことで、自らの忠誠を示そうとしていたようです。

 

知恵① ライバル競争にはキーパーソンを見つけ出せ

当時、幕府は西国大名の水軍の武力を制限する方針をしいていました。積載量が500石以上の軍船や商船を没収する大船没収令です。外様大名の軍事力を制限する締め付け策でした。早速、細川忠利はこれに関わる幕府役人情報をつかみました。それは小浜光隆でした。将軍直属の家臣である旗本で、家禄は5000石程度。大名に比べ石高はわずかですが、役人としての力は大きなものがありました。細川家をはじめ西国大名をとりしまる重要人物をいち早くキャッチした忠利はただちに小浜光隆に接触。

「とにかく九州の大名としては小浜と親しくしなければなりません。そこで小浜に会い黒田長政と仲が良いのかと尋ねたところ1、2度黒田のところに行ったことがあるだけで特別に親しいわけではないとのこと。是非とも父上からも小浜に使者を送ってください」(元和6年2月 忠利から忠興へ)

忠利は小浜にライバルの黒田家との関係がないとみるや、細川家との家ぐるみの付き合いを画策。これはチャンスと小倉にいた忠興も小浜が大阪に到着するやいなや、すぐに使者を出して小浜と親密な関係を築こうと動きました。こうした細川のキーパーソン取り込み策が5年後に実を結びました。黒田家が所有する船が500石を超えているという疑いで幕府に告発されたのです。告発者は小浜光隆。後に黒田家の船は500石を超えていないことが判明。冤罪だったとはいえ幕府に報告が上がった以上、黒田家に対して悪い印象が残りました。この事件が細川家と小浜の関係から生まれたものかは分かりませんが、これでライバルに一歩リードしたのは間違いありません。こうした情報活用術を重ねながら幕府に睨まれないように努力した細川家。寛永9年、ついに細川忠利が熊本藩藩主に指名されました。

細川家は細かい人事情報をもとに役立つキーパーソンに接近。その力をいかしながらライバルとの競争を生き延びていったのです。

 

スキャンダルの情報活用術

細川忠興はゴシップ記事のような情報も手紙で息子に知らせています。

「2代将軍・秀忠様の愛娘・初姫様が危篤状態に陥った。その時、夫の京極忠高は大好きな相撲を興行中。姫様危篤の知らせを聞き幕府高官が駆け付けると情けないことに京極は慌てて奥にひっこみ見物人も逃げ隠れの大騒動。京極は秀忠様の怒りを買うだろう」(寛永7年3月 忠興から忠利への手紙)

「素行が悪いことで評判だった秀忠様の三男・忠長様のお噂だ。最近、江戸で辻斬りが多発している。幕府は犯人を殺さず捕まえようとお触れを出した。江戸では犯人は忠長様かと噂がたっている。もしもそうなら幕府を揺るがす大スキャンダルだ」(寛永8年3月 忠興から忠利への手紙)

実はこうした噂話も油断すると自分の身を危うくすると細川家では警戒していました。

 

知恵②うわさ話を甘く見るな

忠利が熊本の藩主になって5年目の冬、島原の乱が勃発しました。天草四郎を総大将に3万7000人もの一揆軍が島原半島の原城に立て籠もりました。一揆鎮圧で名を上げ、将軍へアピールしようと意気込む九州の大名たち。忠利も遅れをとるまいと2万3000もの軍勢で挑みました。総勢12万を超える幕府軍が一揆軍に攻め込み、激戦を繰り広げました。その中で、細川家の軍勢は一番乗りを果たし天草四郎を討ち取るという大きな戦果を上げました。細川家活躍の知らせを聞き、大喜びの江戸屋敷の家臣たち。ところが、細川の名を世間で高める絶好のチャンスにもかかわらず忠興は「このこと他言してはならぬ」と意外な命令を下しました。例え、戦果を上げた手柄話でも妬みでわざと捻じ曲げられたり噂が広まるうちに間違って伝わったりするかもしれません。忠興はそれを恐れたのです。その後、細川家の活躍は将軍に報告された上で幕府が公式発表。それまで忠興は情報公開を止めたと言われています。こうして情報活用術を駆使した忠興、忠利親子。その後も細川家は江戸幕府が終わる時まで約250年を最後まで生き延びていったのです。


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