ヘルマン・マイヤーは、1972年にオーストリアで生まれました。インストラクターをしていた父の教えで3歳でスキーを始めるとプロスキーヤーになることを決意。15歳で養成学校に入学しました。
しかし、体格・体力ともに不足しており将来性なしと判断され1年で退学に。トップスキーヤーへの夢を断たれたヘルマン・マイヤーは、失意の中レンガ積み職人の道へ。体力のないヘルマン・マイヤーにとって、重さ50kgにもなるセメント袋の運搬はとんでもない重労働でした。冬になるとスキーのインストラクターの仕事もしました。
23歳の時、地元オーストリアでスキーのワールドカップが開催されヘルマン・マイヤーはフォアランナーをつとめることに。
ヘルマン・マイヤーにとっては地元の滑り慣れたコース。ぐんぐんと加速しW杯に出場していれば12位に相当するタイムを記録。レンガ職人として荷物を運んでいたことで、いつの間にか屈強な男へと成長していたのです。
こうして無名のレンガ職人は、23歳でオーストリア代表選手に選ばれました。翌年、W杯スキー大回転で初優勝。落ちこぼれが瞬く間にオーストリアのヒーローになったのです。
初のオリンピックで2冠
25歳になったヘルマン・マイヤーは、長野オリンピックに出場。最初のレースは滑降でした。トップスピードで最初のターンに入るとバランスを崩し転倒。地面に叩きつけられてしまいました。
アルペン競技で最もスピードの出る滑降の平均時速は100km。ヘルマン・マイヤーは転倒の衝撃で左肩を脱臼。さらに両膝を打撲。とてつもないダメージをおってしまいました。
しかし事故から3日後、ヘルマン・マイヤーは2つ目の競技スーパー大回転に出場しました。そして金メダルを獲得。また、続く大回転でも金メダルを獲得し、初のオリンピックで2冠を達成。転倒のアクシデントから不死鳥のごとく蘇ったのです。
事故で右足を骨折
2000年、2001年のスキーワールドカップで総合優勝を果たし絶好調のヘルマン・マイヤーでしたが、オートバイ事故を起こしてしまいました。
この事故で右足の骨を骨折。骨をボルトでつなぐ手術が行われましたが、自分の足で歩くのは難しいと言われてしまいました。選手生命は終わったと誰もが思いましたが、ヘルマン・マイヤーは諦めていませんでした。
復活を信じて、手術から7日後にはリハビリを開始。3週間後には杖を使って歩けるまでに回復。退院後は1日10時間もバイクをこぎ、衰えた下半身を鍛え続けました。
復活
2003年1月27日、事故後初めてワールドカップに出場。復帰5戦目で見事優勝を果たしました。
2006年のトリノオリンピックではスーパー大回転で銀メダル、大回転で銅メダルを獲得。2009年の引退までにワールドカップ史上歴代2位の54勝を上げる驚異の活躍を見せました。
現在は、ドイツのバラエティ番組に出演し、車とスキーで競争したり南極に行ったりしているそうです。
「奇跡体験!アンビリバボー」
不屈のスキーヤー、ヘルマン・マイヤー選手
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