武富士放火事件の真実|ザ!世界仰天ニュース

2014年に死刑が執行された小林光弘(こばやしみつひろ)死刑囚は、弘前市内にある武富士の支店に混合油をまき火を放ちました。店内はたちまち火の海になり5人が死亡。被害者の遺族は怒りに震え極刑を求めました。

その一方で、小林光弘は「おかしなもので心の痛みが全くない」と語りました。

1995年、青森県青森市のタクシー会社に勤務する小林光弘は37歳。若い頃は職業を転々としていましたが、タクシードライバーになって8年経っていました。妻と娘と一家3人で青森市から数十キロ離れた住宅地に家を買ったばかりでした。1760万円のローンは真面目に働けば返せるものでした。

当時はバブル崩壊の影響で、日本中不景気が続いていました。小林光弘の月給は手取りで約18万円。少ない小遣いでやりくりしながらも真面目にコツコツ働く毎日でした。そんな男のささやかな楽しみが競輪。ハマったのはタクシードライバーの仲間の影響でした。

1レースで多くて1000円賭ける程度。しかし、一度高額配当を的中させると掛け金は小さくとも何十万円にもなって返ってきました。一見どこにでもいそうな男が、なぜ残虐な犯行に走ったのでしょうか?

犯行のきっかけ

そのきっかけとなったのが、知人からの相談でした。それは結婚式で仲人をしてくれた女性。女性から200万円を貸して欲しいと頼まれたのです。恩人からの頼みを無碍には断れず、返事を曖昧にしていました。

女性からは再三連絡が来て、サラ金から金を借りるように提案されました。サラ金への抵抗はあったものの、結婚式でお世話になった恩もあり消費者金融で200万円の金を借り女性に渡しました。

女性に返済してもらうまで小林光弘が金利を払わなくてはなりませんでした。金利は1日1600円以上。しかし、そんなこともあまり深くは考えず競輪で負けるとサラ金でいくらでも借りられると思うように。そして、小林光弘はギャンブルの金をサラ金から借りるように。一度に大きな金を手にすると賭け方も大きくなりました。

サラ金の返済に行って初めてその金額の大きさに気づかされました。借金が減っていかないのです。女性のために借金した金利だけで月に5万円。いくら働いて返そうにも、借金は膨らむ一方だったのです。そして一発逆転を夢見るように。

小林光弘は別の消費者金融を渡り歩き借金を重ね競輪へ。あっという間に、自分の借金だけで100万円に。仲人に貸した200万円もあり月々の返済が滞り出しました。すると、頻繁に催促の電話がかかってきました。出ないようにしていると勤務先にも催促の電話がかかってくるようになりました。

困り果てた小林光弘は、実家の父に泣きつきました。すると、生活費として毎月20万円近くもの大金を援助してもらえることになったのです。そして、小林光弘は高収入を見込んで運送の仕事を始めました。これで生活を立て直そうと思っていた矢先、仲人の女性の一家が自殺したという記事が新聞に載っていました。新聞によると家族ぐるみで詐欺行為をしていたと言います。つまり小林光弘は騙されていたのです。

こうして代わりに借りた200万円がそのまま小林光弘の借金に。さらに、小林光弘の妻も仲人の女性に50万円を貸していました。困った夫婦は小林光弘の母を頼り、老後のために貯えていた金をつかい250万円を返済しました。しかし、密かに競輪に費やした借金の返済は手付かずでした。それどころが膨らむ一方でした。

高収入を期待して始めた運送の仕事もうまくいかず、消費者金融で金を借り勝負に出た結果、借金は280万円にまで膨らんでいました。

そんな時、小林光弘の父親が亡くなり遺産の話が。その金額は860万円。これで全部やり直せるはずでした。新車を買い、他の親族に分けても手元に300万円残りました。これで借金を返すはずでしたが、小林光弘はその金を競輪につかい300万円はたちまち消えてしまいました。すると、買ったばかりの新車を担保に金を借り(60万円)競輪へ。とうとう財産といえるものは家だけに。妻に打ち明けるしかなくなりました。

妻は激怒したものの、最後は許してくれました。また、母に金を借り車が担保になっている借金の返済をすませました。そして夫婦は自己破産に向けて準備を進めました。今度こそやり直そうと決め、以前勤めていたタクシー会社に再就職しました。

しかし、小林光弘は車を担保に借りた60万円を母の金で返したその日に、また車を担保に60万円を借りギャンブルにつぎ込んでいました。返済が間に合わず車をとられそうになった小林光弘は強盗を決意したのです。

犯行

2001年5月7日、ガソリンスタンドで混合油を買いました。狙ったのは消費者金融。銀行や郵便局に比べ従業員が少ないと考えたからです。そして、まだ一度も行ったことのない武富士・弘前支店に狙いをつけました。

そして5月8日、武富士の店内に入るとカウンターの中へ油をまき散らし店員に向かって金を要求。しかし「金は出せません」と言われ小林光弘は混乱し火を放ちました。さらに、階段に置いておいた新聞紙にも火をつけ逃走。自宅へ戻りました。武富士では従業員5人が死亡し、4人が重傷をおいました。

このままだと自分が悪者になると思った小林光弘は、地元のテレビ局に電話をかけ身勝手な主張を一方的に伝えました。警察は総動員で捜査を開始。従業員の記憶をもとに作成された似顔絵は、全国的にも知られました。

逮捕

一方、小林光弘は事件翌日から出勤。犯人の糸口となったのは逃亡する時に火をつけた新聞紙。警察は現場に残された新聞と同じ日付のものを県内から集めていました。そして欄外に印刷されている十字のズレが見つかり、配達地域を特定することができました。その地域で目撃された車を持っているのは小林光弘ただ一人でした。

そして2002年3月3日、警察が小林光弘の家に来て取調を受けることに。小林光弘は自供し逮捕されました。身勝手な理由で何の罪もない5人の命を奪った小林光弘は、平成19年4月に死刑が確定。2014年8月29日に死刑が執行されました。

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武富士放火事件の真実

この記事のコメント

  1. 匿名 より:

    まさに坂を転がるように転落しこんな事件を起こすとは闇金は社会から消えるべきた。

  2. 一耶 より:

    すべて闇金のせい。闇金さえなければ今も小林光弘は幸せに暮らしてただろうよ。

  3. 匿名 より:

    以上、自己愛性のクズどもの身勝手なコメントでした